20.黒の騎士
謁見の間は、かつてないほどの緊張感に包まれていた。
現在は直接的な争いが起きていないとはいえ、黒の国とは決して関係が良いわけではない。国境沿いの渓谷の深さだけが、両国を妨げているわけではないのだ。
その黒の国が、突然使者を送ってきた。
和平か、取引か――はたまた開戦か。
広場中の兵士や役人たちが息を殺して、その内容が明かされる瞬間を待っていた。
黒の国からの勅使はわずか三名。しかも驚いたことに、年若い少女がリーダーなのだという。
流れるような黒髪と、切れ長で強い光を宿した瞳が印象的な美少女だ。そのたたずまい、まとう空気の凛々しさ――白の国側の兵士たちもみな、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、引き付けられて目が離せない。
王女は赤い玉座にゆったりと腰掛けて、三人の勅使と相対していた。
柔く微笑んだ表情には焦りも不安も映っていない。ただし、そこには親しみもない。他国の者に向けるまなざしには、歓迎と拒絶がどちらも彩られている。幼く見えても、やはり彼女は一国を預かる君主なのだ。その姿を見て、まさか口がきけなくなっているなどとは誰も思わないだろう。
そんな厳粛な空気を打ち破るように、突然、扉が勢いよく開かれた。
「何事です!」
ラームが鋭い声を上げる。が、すぐに諦めたように目を伏せた。入ってきたのがガルシアだったからだ。
「ちょっと、ガルシアさん! ノックぐらいしなきゃダメよ!」
「ノックもダメです! 謁見が終わってからお邪魔すべきです!」
ハナエとアデルが止めようと必死で縋り付いているが、そんなことでガルシアが止まるはずもない。ふたりを腕にぶら下げたままで、ズカズカと歩いて行く。ヨシュアは無駄だと悟っているのか、何も言わずに後からついてくる。
ラームは笑いを必死でこらえ、ガルシアの前に歩み出た。
「ガルシア様! 王女様は今、謁見中でいらっしゃいますよ」
「おお! わっはっは、これは失礼!」
ガルシアは悪びれもせず笑っている。息を詰めて動けずにいた広間の人々から、ほうっと安堵の息が漏れた。失礼なはずの言動が周囲を和ませてしまうのも、ガルシアの人徳というものだろうか。
「使者の皆さま、大変申し訳ございません。どうぞご無礼をお許しください」
王女の側に控えていた侍女が、困った様子で頭を下げている。
使者の少女が、口を開いた。
「いいえ、お気になさらないでください。突然押し掛けたのは私たちのほうです。こうしてお会いいただけるだけでも、本当に感謝しております」
(え?)
ハナエはガルシアの腕から手を離した。
今の声、まさか――。
考えるより先に走り出していた。何も聞こえない。自分の息と心臓の音だけが、全身に強く響く。
だって、だって――そんな――。
ハナエは一直線に少女に駆け寄ると、その背の数歩手前で立ち止まる。
喉の奥に絡まる言葉は、あなたの、その名前――。
「景山、さん……?」
こぼれ落ちた言葉に、少女は振り返った。
「私を知っているの? あなたは一体……」
景山の瞳が疑いの色を帯びる。ハナエは慌てて言った。
「あたし、同じクラスの城田花枝です!」
「えっ……城田さん?」
景山は花が咲いたように笑った。
けれどその前に一瞬――ほんの一瞬だけ、景山の目が宙をさまよったのを、ハナエは見てしまった。
きっと景山は、ハナエのことなど覚えていなかったのだろう。クラスの中でも地味な「通行人A」を、主役がいちいち目にとめたりはしない。
分かっていたことだった。けれどハナエの胸には、何か冷たい楔のようなものが、深く打ち込まれたような痛みが奔ったのだった。
「驚いたわ。この世界に来たのは、私だけじゃなかったのね」
景山は親し気に微笑んでいる。痛む胸を右手でぎゅっと押さえつけて、ハナエも無理に笑った。
「ところで、景山さんはどうしてここに?」
「私は黒の騎士として、黒の国に呼ばれたの。王様をお救いするため、そして、国に平和を取り戻すため、白の国との和平条約を結びに来たのよ」
景山は誇りに満ちた表情で、高らかにそう言った。
白い頬がピンク色に染まっているのは、高揚した心の表れだろう。その姿はとても気高く、とても綺麗だった。白の国に来る前のハナエであれば、うっとりと見とれてしまったかもしれない。
けれど今、ハナエはひどく動揺していた。
これまで自分のふがいなさが浮き彫りになるたびに、景山が白の騎士だったなら……と何度も考えた。
きっと自分などより素晴らしく、立派に務めを果たすのだろう。国のだれもが伝説の騎士を祝福しただろう。主役にふさわしい配役。天から定められた使命。あたしじゃなくて、景山さんならよかったのに――何度も何度も、そう思った。
それでも少しずつ、自分なりにこの役を務めていこうと覚悟を決めた。
その矢先に、まさか――まさか本人が現れるなんて。
(景山さんが、黒の騎士……)
どうあがいても比べられる。彼女と自分の差が晒される。
ハナエは戦慄した――これほど惨めなことがあるだろうか。
「ところで王女様、この国にも騎士が現れたと聞きました。ぜひお会いしたいのですが」
景山がそう尋ねると、王女は嫣然と微笑んだ。そして、白くしなやかな腕をハナエへと伸ばす。
「えっ、彼女が?」
景山がサッと表情を変える。
ハナエは、震えそうになる声をなんとか落ち着けて言った。
「私が、白の騎士です」
「……へえ、そうなの」
その響きは、妙に冷めたものだった。
心臓が脈打つたびに、胸が鈍く痛む。
まだ誰も何も言っていないのに、ハナエはすでにひどく惨めな心持ちだった。
ハナエの胸の内など露知らず、ラームが上機嫌で口を開く。
「もうこんな時間ですわ。黒の騎士様、使者の皆さま、お部屋にご案内いたします。どうぞこちらに」
ハナエは立ち尽くしたままで、その後ろ姿を見送るしかなかった。
「へえ、ずいぶん立派な騎士様だな。お前と違って」
ヨシュアは身をかがめると、ちょっと意地悪くささやいた。ハナエは下を向いたまま、そうだね、とつぶやく。
「なんだよ、やけに素直だな。言い返さねえのか?」
ヨシュアがハナエの顔をのぞき込む。せりあがってくる涙を見られたくなくて、ハナエはふいと顔をそむけた。
「おい、ハナエ? どうかしたのかよ」
「なんでもない。ちょっと疲れちゃった。部屋で休むね」
それだけ言い残すと、ハナエは歩き出す。
ヨシュアは悪くないのに、自分がみっともないだけなのに――こんな態度を取ってごめんと思いながらも、心の荒波はもう止められない。せめて涙がこぼれ落ちる前に、部屋に引きこもってしまいたかった。
「なんだ、あいつ」
呆然と言うヨシュアの腕を、アデルがぎゅうっとつねり上げる。
「痛ってえ! なにすんだよバカ」
「バカはそっちです。全く、あなたにはデリカシーというものがないのですか?」
「は? 意味わかんねえ」
「まあいいですよ。それより、少し気になることがあるのですが」
「なんだよ」
「……今晩零時、例の場所に来てください」
アデルが小声でささやく。その言葉に、ヨシュアは視線だけで頷いた。
***
窓からは大きな月が、ベッドの上にうずくまっているハナエをのぞいている。
それでもハナエは、顔を上げることができなかった。
目の前に放り出したままのメモは真っ白のまま。
頭の中も空っぽで、ただ胸のあたりだけが、じくじくとした痛みを訴えている。
のどが苦しくなって、はあ、と息を吐いてみた。
情けない。
リペルの町の人たちに、格好のいいことを言ってきたばかりだというのに。
もう一度ため息を吐いたところで、控えめなノックの音がした。
「ハナエ様、アデルです。少しよろしいですか?」
ハナエは「ちょっと待って」と言って立ち上がった。一度、両手で顔を覆う。こぼれかけた涙を手のひらで振り切るように拭うと、ハナエは扉を開けた。
紅茶の香りが、ふわりと届く。
「お茶をお持ちしました。お嫌いではないですか?」
「うん、紅茶は大好き」
アデルは「よかった」と言って笑った。
テーブルの上に茶器を置くと、アデルは慣れた手つきでランプに火をともす。
ハナエは紅茶をカップに注いでいく。琥珀色の紅茶は、ランプの光を跳ねてツヤリと輝く。
「アデル、足の傷は大丈夫? まだつらいよね。もう休んだ方がいいよ」
「いいえ、それはできません」
どうして? と首をかしげるハナエに、アデルは少しおどけた調子で言った。
「ハナエ様が笑ってくださらないからです」
小さく息を飲んだハナエに、今度は少し心配そうな眼差しでアデルが言う。
「どうなさったのですか? ずいぶん悲しそうなお顔をなさっています」
アデルの言葉に、その優しさに、のどの奥がきゅっと苦しくなる。せりあがってくる涙を押さえつけるため、ハナエがきつく唇を噛んだ。
「……あたしね、本当にダメな奴なんだ」
アデルは何も言わず、ハナエの言葉を待っている。
「この世界では、あたしは白の騎士だけど、元いた世界では、あたしは『その他大勢』でしかないの。景山さんはね、元の世界でも主役なの。みんなの中心で、なんでもできて、すごくかっこいいの――あたしと違って」
ハナエは、膝の上で固く握りしめた自分の手を、ひたすらじっと見つめていた。
アデルの顔を見るのが怖かった。これまでずっと支えてくれたアデルに、自分はどうしてこんな情けない話をしているのだろう。
でも、止めることができなかった。吐き出してしまいたかった。これはきっと、見て見ぬふりをし続けてきた感情。本当はずっと、胸の奥にひっかかっていた感情。
(ああ、そうだ。これは――劣等感だ)
劣等感? なんの努力もしていないあたしが、きっとこれまで努力を重ねてきたであろう景山さんに?
ああ、あたしはなんて尊大で失礼なんだろうか。同じ土俵に上がるつもりもないくせに、勝手にいじけているだけだなんて。ヨシュアに鼻で笑われるのも無理はない。
ハナエは濡れた目を乾かそうと、何度も目を瞬いた。この期に及んで泣いてしまっては、どうしようもなくみっともない。
「勝手に比較して、勝手に落ち込んでるなんて、馬鹿みたいよね。ヨシュアの言う通りだね――偶然選ばれただけのダメ騎士だ、って」
アデルは何も言わない。
嫌われてしまっただろうか、怒らせてしまっただろうか。
ハナエは指を伸ばしてカップを引き寄せた。
紅茶の水面が細かく揺れている。自分が震えているのだと、その時はじめて気がついた。
口をつけることなく、ハナエは黙ってカップをテーブルに戻す。このお茶を飲む資格さえ、自分にはない気がした。
「ハナエ様」
ひざの上で固まってるハナエの両手を、アデルの両手がそっと包んだ。
「あなたがこの世界に来たのは、確かに偶然かもしれません。でも、あなたが今ここにいることは、偶然ではないのですよ」
アデルは怒ってなどいなかった。嫌った様子など微塵もなかった。
はじめて軟膏をくれたあの日と同じように――はじめてハナエの名前を聞いてくれたあの夜と同じように、アデルの声は、ただただ優しかった。
ハナエは恐る恐る顔を上げる。目が合うと、アデルは優しく微笑んでくれた。
何も恥じることはないのですよ、と言って、手をぎゅっと握ってくれる。
「突然別の世界へ来て、突然期待を押し付けられて――不安とプレッシャーの中で、それでも自分にできることを、あなたは一生懸命に考えた。あなたはこの世界で、ちゃんと自分の足で一歩ずつ歩いています。それは偶然なんかじゃない。僕はちゃんと見ています」
瞬きも忘れて、ハナエは吸い込まれるようにアデルの瞳を見つめていた。
あたたかい言葉と優しいまなざしが、いじけて冷たくなった心の部分を溶かしていく。やがてそれは熱い涙になって、ぽたりとこぼれ落ちた。
アデルは自分の袖でハナエの頬をとんとんと拭う。そして、ひだまりのような笑顔でこう言った。
「あなたに足りないのは『自信』だけです。大丈夫、自分で思っているほど、あなたはダメじゃない」
涙はとどまることなく、ぽたぽた、ぽたぽたと落ちていく。そのたびに、一滴ずつ心が軽くなっていく気がした。
アデルはハナエが泣き止むまで、ずっと手を握っていてくれた。
「ハナエ様をダメだと思ったことなど、僕は一度もありません。今もこうやって、ご自分の弱いところを言葉にできたでしょう? それはたぶん、簡単なことではないと思いますよ」
ハナエは両手でごしごしと涙をぬぐうと、「ありがとう」と言った。声がかすれているのが恥ずかしい。
けれどアデルはいつものように、優しく笑ってくれるのだった。
「ねえ、アデル」
「何でしょうか」
「どうしてアデルはそんなに優しいの?」
「え? ぼ、僕は別に、優しいとかではなくて……ハナエ様ががんばっているのを、近くで見ていますから……というか、その……紅茶がさめてしまいますね! 召し上がってください、さあ!」
なぜか慌てた様子で手を離すアデルが何だかおかしくて、ハナエはくすりと笑った。
「うん、いただきます」
少しぬるくなった紅茶の優しい香りが、鼻先をくすぐる
「おいしい――それに、すごくいい香り」
「今年は収穫量は少なかったのですが、質は良いものができました」
「できました、って……これ、アデルが作ったの?」
「はい。もちろん、騎士団には内緒で。こんなものを作っていると知られたら、バカにされてしまいますからね」
「変なの、すごくおいしいのに」
紅茶の香りに包まれているうちに、少しずつ気持ちの波が収まってきたようだった。
泣きはらした目はまだ痛むけれど、胸に楔を打ち込まれたようなあの痛みは、もうすっかりどこかに消えていた。
次回は3/20の夜に更新予定です。




