2.遭遇
素足に触れている緑の苔が、しっとりと冷たい感触を伝えてくる。
濃い霧が、木々の影をぼんやりと映しながら、ゆるやかに流れている。一年生の時に林間学校で見た朝の森が、ちょうどこんな感じだった。
ああ、夢だ――ハナエはそう思って納得した。
だから背後の茂みがガサガサと揺れたときも、特になんとも思わずに振り返った。
「なんだ、このガキ」
「妙な格好だな」
現れたのは、ひげ面の男がふたり。彼らは下卑た笑いを浮かべながら、ハナエを見下ろしている。
嫌な予感がした。
「まあ、売れば金にはなるだろう」
「そうだな」
もし、これが夢であったとしても――。
(こいつらに捕まるのは、絶対に嫌だ!)
ハナエは立ち上がると、二、三歩後ろへ下がる。そして、男たちが手を伸ばすより先に走り出した。
自分の荒い息の音――その合間を縫って聞こえてくる、乱暴な足音。
男たちは、本当はすぐに追いつけるのだろう。獲物をいたぶるように、わざとゆっくりハナエを追い詰めているのだ。
「あっ!」
木の根に足を取られ、ハナエは地面に倒れ込む。
口の中に、ざらりと鉄の味が広がっていく。
あわてて立ち上がろうとしたその時――すぐそばで、カシャリ、と硬い音がした。
それは、長さにして四十センチほどの剣だった。
何の装飾もされていない、簡素な剣である。柄も鞘も、飾り気のない白。
それが、ハナエの目の前に転がっている。
――背後で、足音が止まった。
「鬼ごっこはおしまいか?」
身を起こして振り返ると、男たちはニタニタと笑いながら、それぞれの剣を抜き放つところだった。
冷たい痺れが全身に奔る。
(誰か、誰か助けて……!)
そう願う以外になすすべもなく、ハナエは強く目を閉じた。
だからその時のことは、ハナエ自身もよく覚えていない。
「ぎゃあ!」
「ぐがっ!」
そんな悲鳴を残し、倒れたのは男たちのほうだった。
いつの間にだろう。
ハナエは立ち上がっていて、男たちと向き合い――右手が、さっきの白い剣を握りしめていた。
鞘から抜かれた刀身もまた、輝くような白。
その刃に一筋、赤い血がゆっくりと伝っていく。
「て、てめえ……っ!」
男たちは歯をむいて立ち上がろうとするが、すぐにがくりと膝をつく。
赤い血が、男らの肩からボタボタとこぼれている。
「てめえ、よくもやってくれたな!」
男のひとりが、怒りに燃える目でハナエをにらみ付ける。
「違う、あたしじゃない!」
「ふざけたこと言ってんじゃねえ! お前が俺たちを切り刻んだんだろうが!」
「そんな、あたし……あたし、が?」
そんなはずはない。
だって、あたしはただの高校生だもの。地味で平凡な『通行人A』だもの。
剣で誰かを切り付けるなんて、そんなこと、できるはずがない。
つぅ……と、赤い血が白い刃の上を流れていく。
うそだ、こんなこと……。
恐怖と混乱で体が震え出す。
だが、どんなに否定してみても、血に染まった剣を握っているのはハナエなのだ。
(あたしが、やった……の?)
純白の刀身に、赤い血が伝う。
柄を握った右手に、ぞわりと震えが走る。
恐怖で動かない指から無理やり剣を引きはがすと、ハナエはそれを投げ捨てた。
(嘘よ、こんなの嘘!)
硬い音を立てて、白い剣が転がる。
ハナエは踵を返すと、夢中で駆け出した。
うっそうと茂る森の中を、ハナエはめちゃくちゃに走った。
ここがどこかも分からないまま、とにかく少しでも遠くに逃げてしまいたかった。
(こんなの嘘だ、嘘、嘘、嘘! 夢なら早く醒めてよ!)
どうしてこんなことになったのか、もう訳が分からなかった。
裸足に石が食い込み、木の根や地面のくぼみにつまづいて、何度も転んだ。
手のひらはすりむけて、ずきずきと痛む。それでもすぐに立ち上がって、ハナエはとにかく走った。
息が苦しい。足もフラフラで、もう大して速くは走れない。
どこへ行けばいいのかなんて分からない。けれど立ち止まってしまえば、あの赤い血がまとわりついてくるような気がした。何か恐ろしい怪物のようなものに、体ごとのみ込まれてしまう気がした。
ごろ石が転がる岩場に差し掛かっても、ハナエは足を止めなかった。
恐怖から逃れたくて、無我夢中で足を踏み出すことしか考えていなかった。
足を置いた石が、ゴロリと動いた。
悲鳴を上げる暇さえなかった。バランスを崩したハナエの体は、なすすべもなく急な斜面を転げ落ちていったのだった。
「いた……」
顔をしかめ、ゆっくりと身を起こす。
背中を打ったらしく、息をするたびに鈍く痛む。それでもなんとか手足は動かせそうだ。
見ると、両手のひらに血がにじんでいる。ぷつぷつと湧いてくる赤い血の玉が、白い剣に滴る血液を嫌でも思い起こさせた。
ハナエは必死で、両手をパジャマの袖に擦りつけた。何度拭っても、指先がべったりと血で汚れているような気がする。
嫌だ、嫌だ――と、うわごとのように繰り返しつぶやきながら、ハナエは何度も何度も両手を拭った。
あの白い剣は何だったのか、なぜ男たちを切り伏せることができたのか、ハナエには何も分からない。
あれがなければ、今ごろ血を流していたのは自分の方だったはずだ。
けれど、今はただ恐ろしかった。白い刃に伝う赤い血の色が、頭から離れない。
(お願い、もう家に帰らせて……誰か、助けて……!)
ハナエはひとり、その場にうずくまり、震えるばかりであった。
***
背後で、カサリと音がした。
はっと振り返った先の茂みが、ガサガサと揺れている。
さっきの男たちが追いかけてきたのだろうか、それとも新手が現れたのか。
ハナエは息を殺し、ゆっくりと立ち上がる。
冷たい汗が背中を滑り落ちていく。
早く逃げなければ……焦れば焦るほど、思うように足が動かない。
釘で止めつけられたように、視線が動かせない。
ガサッ!
ひときわ大きく茂みが揺れて、それは姿を現した。
「ウサギ……?」
くりっとした黒い瞳が、不思議そうにハナエを見つめている。
野ウサギだろうか。小学校の飼育小屋にいるようなウサギよりも一回り大きく、どことなく精悍にも見える。
茶色いウサギはハナエを怖がる様子もなく、鼻をひくひくと動かしながら足元に寄ってきた。
ふわふわの毛が、ハナエの足先をくすぐる。
ハナエはウサギを怖がらせないように、ゆっくりとその場にしゃがみこんだ。
ウサギは人なつっこく、ハナエの膝に鼻先をくっつけてくる。
そっと手を伸ばし、背中に触れてみる。
ウサギはぴくりと耳を動かしたが、特に嫌がるそぶりも見せず、おとなしくハナエに撫でられている。
「ふわふわ、あったかい……」
てのひらに伝わるぬくもりに、緊張が緩んだのだろうか。
ハナエの両目から、涙がぼろぼろとこぼれ出した。
「帰りたいよ……なんでこんな目に合うの? 夢なら醒めてよ……助けてよ!」
感情が爆発する。
痛みが、涙が、どっと溢れ出す。
「助けて、助けて! もう嫌だぁ!」
怖くて、心細くて、不安で、寂しくて――ハナエは自分でも訳のわからないことを叫びながら、ただ泣きじゃくるしかなかった。
その痛みに寄り添うように、茶色いウサギはずっとハナエのそばにいてくれた。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
いつしか激情の波は引いていき、ハナエはやっと落ち着きを取り戻していた。
気が済むまで泣いたせいだろうか。泣き腫らした目は痛むけれど、心はどこかすっきりしたようだ。
思い切り泣くことができたのは、小さな茶色い生き物のおかげだろう。
ハナエはふわりと背中を撫でた。
「そばにいてくれてありがとう、ウサちゃん。あなたのおかげで、ちょっと元気になれそう」
ウサギは誇らしげに、ヒゲをひくひくと動かしている。
「……あのとき」
思い出すのは、不思議な空間での出来事。さっきまでの自分と同じように、必死で助けを求めていた、あのか細い手のこと。
(お願いです……行かないで! 私たちを助けてください……!)
あのとき助けを呼ぶ声に、ハナエは応えることができなかった。
差し伸べられた手を、掴んであげられなかった。
助けを呼んでも届かない――その辛さは、ハナエだってよく知っている。
目立つことをすれば叩かれる。
そうなったら最後、『通行人A』がどんなに声を張り上げたって、誰も助けてくれない。
皆、関わり合いになることを避けて、素通りしていくだけなのだ。
その辛さを、自分は痛いほど知っていたのに。
「話くらい、聞いてあげたらよかったな」
助けられるかはわからない。『国を救う』なんて、できるわけがない。
でも、味方になってあげることなら、できたかもしれない。
分かってくれる人がいるだけで、耐えられることもあるかもしれないのに。
あの子は、どんな思いで助けを呼んでいたのだろう。
この森のどこかに、今もあの子はいるのだろうか。
「もし、あの子にまた会えたら、ちゃんと話を聞いてあげたいな。もう手を振り払ったりしないよって伝えたい」
その時だった。
ふいに、ウサギの耳がぴくりと動く。
顔を上げ、何かをじっと聞いていたかと思うと、ウサギはぴょこんと立ち上がる。
そして、茂みの方へと跳ねていってしまった。
どこかへ行ってしまうんだ、とハナエは思った。
だが、そうではなかった。
ウサギは茂みの手前で立ち止まると、ハナエを振り返った。
どうしてついてこないのかと言わんばかりに、ハナエを見つめて首をかしげている。
ハナエはゆっくり立ち上がる。
それを見たウサギは数歩進むと、再び振り返る。
耳をぴこぴこと動かして、ハナエを急かしているようだ。
「ついて来いって言ってるの?」
ウサギはまた、ぴょこぴょこと駆け出した。
ハナエはウサギの後姿を追って茂みをかき分け、雑木林の中へと踏み出したのだった。




