17.夕暮れ
……へんなにおいがする。
ハナエはハッと目を覚ました。
「火事?!」
慌てて起き上がり、あたりを見渡す。
開いた窓からは、朝のきれいな空気が流れ込んでくる。木でできた壁は朝日をそっと照り返しているばかりで、どこも燃えたり焦げたりしていなかった。
「ごめんなさい、起こしてしまいましたね。換気していたつもりだったのですが」
アデルが眉毛を八の字にして笑っている。その手の中の試験管からひとすじ、紫色の煙が立ち上っていた。
「なんだ、アデルの実験だったの。びっくりした」
ハナエが笑っていると、奥のドアがばたんと開いた。
「朝からうるせえぞ、ハナエ」
不機嫌が頂点に達した様子のヨシュアが顔をのぞかせる。どうやら先ほど、ハナエの叫び声でたたき起こされたらしい。
「おはようございます、ヨシュア様」
「アデルか。何やってんだよ、こんな朝早くから」
「おや、作業を始めたのは昨晩からですよ」
「……あっそ」
ヨシュアはハナエの隣に座ると、長い足を組んでため息をついた。
幸い、昨日の食料がまだまだ残っている。パンやチーズで簡単な朝食を済ませることにした。
だが、ハナエとヨシュアは席についたものの、アデルは目の前の試薬と向き合ったままである。
「アデル、メシだぞ」
「後で食べます」
ポンと音がして、手にしていた試験管から煙が上がる。
「おい、何か出てんぞ!」
「大丈夫ですよ」
試験管の中の液が、ゆっくりと透明から青色に変わっていく。ヨシュアはその様子を、遠くから気味悪そうに眺めている。
「で、分析はできたのかよ」
「まだ下準備の段階ですよ。これから一晩かけて成分を抽出してから、分析開始です」
アデルは別の液体を注ぎ込みながら、のんびりとした口調で言った。
「なんだ、めんどくせえな」
「はは、そうですか? おふたりに言われた通り、今日は部屋の中でじっとしていますよ」
「どうだかな」
ヨシュアはやれやれとため息をついた。
「ねえ、ヨシュアは今日、何かやることあるの?」
ハナエが聞くと、ヨシュアはちらりと視線を流す。
「別にねえけど、何だよ」
「じゃあさ、分析はアデルに任せて、あたしたちはもう少し村の人たちに話を聞いてこようよ」
「話?」
昨日、ハンスは言っていた。王女の不調、白の騎士、魔女の呪い――そのどれもが、この村では全く話題になっていないのだと。
では、村人たちは不作についてどう思っているのだろうか。魔女の存在を信じていないのなら、不作の原因をどう考えているのだろう。
「どんなことでもいいじゃない。変わったことはないか、困ってることはないか、聞いてみたいの」
「……いいぜ、何か発見があるかもしれねえしな」
ヨシュアが珍しく同意する。早速ハナエは立ち上がった。
「アデルはじっとしててね! ヨシュア、行こう!」
「はいはい、わかったよ」
ヨシュアは面倒を装って立ち上がった。その様子を見て、アデルはくすっと笑う。
「なんだよ」
「いいえ。お気をつけて」
アデルはふたりの背中を笑顔で見送ったが、ドアが閉まると、ふっと真顔になる。そして、テーブルの上のサンプルに向き合うと、すぐに分析に没頭しはじめたのだった。
***
王都と違って、リペルの道路は舗装されていない。少し埃っぽい土の道を、ハナエはヨシュアと並んで歩く。
農村の朝は早いのだろう。通りにはもう、人々が忙しく行き交っている。
「おーい、お前ら!」
荷車を引いたバムじいが、ハナエたちを見つけて声をかけてきた。荷車をその場に置くと足早に駆け寄ってくる。
「おう、じいさん。朝早くから仕事か」
「お前らこそな。もう一人の兄ちゃんはどうした?」
「あいつなら療養中だよ」
「ひでえケガしてたもんな――ほれ、こいつを持っていきな」
バムじいはポケットから麻の小袋を引っ張り出すと、ハナエの手のひらに乗せた。ふわりと漂う香りは、優しく甘やかで懐かしい。
「これ、もしかして――エールの花?」
ハナエが言うと、バムじいはニッと笑った。
「そうさ、こいつは傷に効くんだ。昔はそこらじゅうに咲いてたもんだが、ここ最近はめっきり咲かなくなっちまった。例の「黒い雲」のせいかもなあ」
「黒い雲?」
ハナエはヨシュアと顔を見合わせた。
「それ、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
ハナエがそう言うと、バムじいは不思議そうな顔をしつつも、快諾してくれた。
***
往来の真ん中で立ち話をするわけにもいかないと、ハナエたちはバムじいの作業小屋までやってきた。
出してくれた茶からは甘い香りがしている。紅茶によく似た、ふくよかな味わいの飲み物であった。
「三年くらい前かな。『外の森』の北の方に、真っ黒い雲が沸きあがってるのが見えたのさ」
バムじいは話し始めた。
「最初は煙かと思った。細い煙が立ち上がってるようにも見えたからな。けど、その煙は上空の低いところでぐるぐると渦を巻くと、やがて伏せた椀みたいな形になって、何日かそのまま浮かんでたんだ」
ハナエは首を傾げた。そんな雲はこれまで見たことがない。
バムじいは続ける。
「その数日後にふと空を見たら、雲は消えていた。何だったんだろうと思いながら、いつしか俺も忘れてしまった。けど、その少し後に、また同じ雲が現れたんだ」
「同じ場所にか?」
ヨシュアが聞くと、バムじいは「ああ」と頷いた。
「消えたり現れたり、特に決まった周期もなく繰り返していた。俺たちもあまり気に留めていなかったんだが――考えてみたら、あの頃からだんだん作物が取れなくなってきたんだよな。今年の収穫量なんて、去年に比べたら六割程度だろうよ」
ハナエは窓の外に目をやる。
今は何もない。綺麗な青空が広がっている。
「あっちの方さ。ほら、黒の国との国境の、まだ向こう側だ」
バムじいが指さした先には、国境沿いの崖がぼんやり見えている。
「作物が取れなくなった原因なんぞ、俺たちにはさっぱり分からん。だが、もしかすると『外の森』で何かおかしなことが起きてるのかもしれんな」
「『外の森』か……」
ヨシュアは厳しい顔をして、じっと森の彼方を見つめている。
ハナエはバムじいに向き直った。
「ほかに、変わったことはないですか?」
「うーん……そういえば、鉱石がダメなったな」
バムじいはポケットから黒い塊を取り出すと、テーブルに置いた。
よく見ると、規則正しい四角い結晶がくっつき合っている。金属のような光沢のある石だ。
バムじいは結晶のひとつを指でつまむと、ぎゅっと力をこめた。
そのとたん、パキ、と高い音を立てて、結晶にヒビが入る。
「ほらな。こんなに脆くちゃ、何の役にも立たねえ。昔はナイフを砥げるくらいの硬度があったんだが」
「質が悪くなってるってことですか」
ああ、とバムじいは頷く。
「あと、最近やたらと黒の国の兵士を見かけるようになった。国境沿いの崖の上に立って、こっちを見てやがるんだ。どうも嫌な感じだぜ」
黒い雲と農作物の不作、そして鉱石の質の低下。
どういうことだろう。ハナエは少し考えてみたが、まだ何も見えてこない。
「アデルの分析が終われば、もうちょっとはっきり分かるかもしれないね」
「そうだな」
ヨシュアは一息に茶を飲み干すと、机の上の鉱石を手に取った。
「ごちそうさん。じいさん、この石もらってもいいか」
「ああ、持っていきな」
ハナエも茶を全部飲み切ると、コップを置いて立ち上がった。
「おじいさん、ありがとうございました。お茶おいしかったです」
「おう、また来な」
バムじいは白い歯を見せて、ニッと笑った。
***
小屋の外に出ると、もう日が傾き始めていた。
「情報はだいたい、出そろったって感じだな」
ヨシュアは満足そうな笑みを浮かべている。
「そうだね。でもまだぐちゃぐちゃで、何がどうなってるのかわかんないよ」
「そんなのアデルが何とかするだろ」
「またそうやってアデルに頼るんだから」
「うるせえな。あいつは頭脳労働担当、俺は剣術担当!」
そう言い切って、ヨシュアはさっさと歩いて行ってしまう。
ハナエの足が、すこし遅くなる。
(じゃあ、あたしは何の担当なんだろう)
自分には何ができるのだろう。
通行人Aではなく「城田花枝」には何ができるのだろう。
足元から長く伸びた影が、田舎道の上にだらしなくへばりついている。
「白の騎士って、何なんだろう」
夕日がまぶしい。
まわりの麦穂も畑も、外の森も国境の崖も、周囲の全てが赤く染められている。
夕暮れの風にゆられて、畑一面の草葉が、サア、と音を立てる。
「おい、何してんだ。さっさと来い」
顔を上げると、ヨシュアが不機嫌な顔でこっちを振り返っている。
「ごめんごめん、ちょっと考え事してて」
ハナエが早足で追いつくと、ヨシュアは隣にならんで、少しゆっくり歩き出す。
「なんだよ、考え事って」
「ヨシュアには言わない」
「なんでだよ」
「言ったら絶対怒るもん」
「……」
ヨシュアの長い指が、ハナエの頬にそっと触れる。
「ヨシュア?」
不思議そうに見上げたハナエに、ヨシュアはニッと笑う。そして、むにっと強めに頬をつまんだ。
「痛い! なにすんのよ」
「ばーか。どうせまた、くだらねえことばっか考えちまってんだろ」
「……ヨシュアから見たらくだらないかもしれないけど、あたしにとっては深刻な悩みなんだから」
ハナエは頬をつままれたままでうつむいた。顔を上げたままでいたら、涙ぐんでしまいそうだったから。
また馬鹿にされるかと思ったが、そうではなかった。
ヨシュアは手を離すと、ハナエの頭を大きな手のひらでぽんぽんと叩く。
「すぐ答えが出ない悩みだったら、一旦どっかに置いとけ。いつまでも悩んでたって仕方ねえだろ」
思いもよらない優しい言葉に、ハナエは顔を上げる。
灰青色の瞳と目が合った。
いつもは冷たく感じる整った顔立ちも、今日はなんだか柔らかく見える。それもすべて、この夕焼けのせいだろうか。
ハナエが思わず見とれていると、大きな手に頭をがしっと掴まれた。
「いたたたっ、ちょっと! 何すんのよバカ!」
「うるせえ、早く行くぞ」
「わかったわよ、わかったから離して!」
「ふん」
夕暮れの道を、ヨシュアに引っ張られて歩く。
ぎゃあぎゃあと言い争っているうちに、いつしか悩み事は姿を消していた。
次回は3/17の夜に公開予定です。




