12.剣の意思
部屋をのぞくと、アデルはまだ眠っているようだった。
夕日に染まってなお、その頬は青白い。胸が規則的に上下していなければ、鼓動を確かめずにはいられなかっただろう。
「アデル……」
寝顔は安らかだが、頬は汗で濡れている。傷のせいで熱が上がっているのだろうか。
ハナエは側に落ちている手ぬぐいを拾って、ぬるい水に浸す。
小さな水音に答えるように、小さく息がした。
「ハナエ、さま……?」
「ごめん、起こしちゃった」
「いえ、僕の方こそ、お手を煩わせて申し訳ないです」
「何言ってんの、あたしのせいだよ。あたしのせいで……ごめんなさい」
「ハナエ様のせいではありません。あなたをかばったのがヨシュア様なら、傷ひとつ負わなかったはずです。あれは僕の落ち度ですよ」
アデルはいつもの様子で優しく言った。ハナエには、それがひどく申し訳なくて、じわりと涙が浮いてきてしまう。
「ほらほら、そんな顔をしないでください。ハナエ様はあの時、賊から僕を守ってくださったではありませんか」
アデルは指を伸ばすと、そっとハナエの目尻を拭って言った。
「それよりも、ありがとうございました。白い剣がなければ、僕は自分のケガを手当てできなかったと思います」
「それって、傷を縫ったときのこと?」
アデルは頷くと、にこりと笑う。
「あの時、白い剣は恐らく、僕の足の痛みだけを断ち切ったのでしょう」
「そんなこと、できるの?」
「分かりませんが、それしかないと思います。伝承では、白い剣は情念さえも断ち切るとされています。物理法則にとらわれず、概念すら断ち切ることができる――それが、白い剣の力なのかもしれません」
「……ねえ、アデル」
「はい」
「こんなこと言ったら、ヨシュアに『弱虫は嫌いだ』って怒られるかもしれないけど」
「はい」
「あたし、あたしね……」
「ハナエ様、大丈夫ですよ」
アデルは寝台の上で、ゆっくりと上体を起こす。
「弱虫だなんて思いませんよ。僕は、ハナエ様の思っていることを、そのまま聞かせてほしいです」
「アデル……」
「ヨシュア様のことは放っておけばいいのですよ。あの方も素直に言えないだけで、本当は怒ったりしていませんから」
「……うん」
ハナエはやっと、少し笑った。
「ハナエ様は、白い剣が怖いですか?」
「えっ?」
夕暮れの空が、アデルの瞳に映っている。
優しい色が揺れている。
「どうしてわかったの?」
「分かりますよ。城にいるときから、ずっと悩んでおられるご様子でした」
「うん」
ハナエは素直に頷いた。
アデルと話していると、変な強がりや意地なんて、どこかへ行ってしまう。
だから自分の思ったことを、おぼつかない言葉に変えていける。
「あたしの住んでた国はね、戦争とか武器とか、あまり目にすることのない国だったの」
「戦のない、良い国なのですね」
「うん。でも昔は大きな戦争があったんだって。今は平和に見えるけど、世界のどこかでは今も戦争が起きてるんだって」
アデルは黙って聞いている。
夕暮れの風が、ふわりと窓から舞い込んでくる。
「あたし、武器を持ったのは初めてだった。人を傷つけたのも、殺されそうになったのも。けど、どこかで現実じゃない気がしてた。たぶん、まだ夢を見てるだけなんだって思った。でも――」
手が震える。声も、肩も――。
あのときに見た光景が、瞼の裏に蘇る。
「白い剣に血がついてるのを見たとき、怖くなった。あたし、人を殺そうとしたんだ――って」
窓の外から、小川の流れる音が聞こえてくる。
夕暮れに別れを告げるように、小鳥がどこかで鳴いている。
「あたし、この国の人たちのことが怖かった。でも本当は、それよりも白い剣が怖いし、自分自身が怖い。次は本当に、人を殺してしまうかもしれない。そんなことしたくないのに、白い剣はあたしの言うことを聞いてくれない」
「ハナエ様……」
「アデル、怖いよ……あたし、どうしよう」
アデルの手が、そっとハナエの両手に触れる。
「大丈夫ですよ、ハナエ様」
アデルはハナエの両手を手のひらで包むと、優しい声で言った。
「ハナエ様は最初、ヨシュア様のことが苦手だったでしょう?」
「苦手っていうか、大っ嫌いだった」
「では、今はどうですか?」
「今? 今は……」
不愛想な顔が頭に浮かぶ。
不機嫌そうで、つまらなそうで、めんどくさそうな顔。
時々見せる、不器用で、心配性で、意外にも面倒見の良い顔。
「そんなに嫌なヤツじゃないのかも、って」
「ははっ、それはよかったです」
アデルは嬉しそうに笑った。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「白い剣のことも、そうやって受け入れていけばいいのではないでしょうか」
「白い剣を?」
アデルは「ええ」と頷いた。
「白い剣は、ただの武器や道具とは違う――明らかに強い意思を感じます。あなたを安心させたい、恐れずに向き合ってほしい、あなたを守りたい――きっとそんな風に、白い剣も必死なのですよ」
ハナエは思わず左腰に目をやった。白い剣は変わらぬ様子で、ハナエのベルトにぶら下がっている。
「白い剣はあなたの味方です。離れることなく側にいて、あなたを守るもの。あなたの思いを叶えるもの。思い出してください、僕の痛みを断ち切った時のことを――あの時、あなたは何を願いましたか?」
「あのときは……『せめて痛みだけでもなくなれば』って」
「ほら、ね。白い剣はちゃんと、あなたの願いに応えてくれた」
アデルは笑う。あたたかな笑顔が、ハナエの心を落ち着かせていく。
「……そっか、そうだよね」
ハナエの指先が、柄に触れる。
「あたしがあなたを拒否してたら、うまくいかないよね――ごめん、白い剣。何度も守ってくれたのに、ごめんね」
アデルはハナエの手を離すと、安心したように笑った。
「剣豪は己の剣と対話するといいます。ましてや白い剣は強い意思のある剣――きっと思いが通じますよ」
「うん」
いつしか夕日は、山の向こうへ消えていた。
アデルはハナエに向き直ると、明るい声で言った。
「さて、ハナエ様。ヨシュア様とトトを呼んできてもらえますか? 今夜の作戦を立てなくてはいけません」
「わかった」
「ただ、僕の作戦では、ハナエ様と白い剣のお力にも頼ることになりますが……」
「大丈夫だよ、まかせて!」
ハナエはニッと笑ってみせると、椅子から立ち上がった。
「じゃああたし、ヨシュアを探してくるね!」
「ええ、お願いします」
ハナエは扉へと向かう。
その途中でふと足を止めると、少しだけ振り向いた。
「ねえ、アデル」
「はい」
「ありがとう」
それだけ言って、ぱたぱたと駆け足で飛び出していく。そんなハナエの後姿を、夕日の名残りが紅く染めている。
足音は軽い――少しは気が楽になったのだろうか。
急に背負うことになった重圧を、少しでも共に背負うことができているのだろうか。
アデルは深く息を吐き出すと、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
「……っつ!」
徐々に、足の痛みが戻ってきていた。
***
宵染めの空に、一番星が揺れている。
ランタンの明かりが灯る部屋で、アデルの元に皆が集まっていた。
「で? 賊の狙いはハナエなんだろ」
ヨシュアが言うと、アデルも頷く。
「ええ。連中は今頃、必死で探しているでしょう」
「どうする? ひとり捕まえて吐かせるか?」
「それより、こっちから行く方が早いです」
「どういうことだよ」
「ハナエ様と僕が、賊に捕まります」
「は?」
声を上げたヨシュアの目の前に、アデルは指を二本、立てて見せる。
「僕たちの狙いはふたつです。賊を操っている人間の正体を暴くことと、捕まっている子供たちを助け出すこと。そうなると、どうしても敵のアジトに潜入する必要があります。こういうときは囮を使うのが手っ取り早いですからね」
「だったら俺が行く。怪我人はここで寝てろ」
「いいえ。ヨシュア様は、連中に見つからないようについてきてください。あなたにしかできない重要な仕事をお願いしたいのです」
「重要な仕事?」
アデルは深く頷いた。隣でハナエが手を上げる。
「待って、敵のアジトには私ひとりで行くよ。アデルは休んでたほうがいいよ」
「ダメです」
「なんで?」
「僕はハナエ様のお側にいます。それに、怪我人だからできる役割があるのですよ」
「でも……」
「大丈夫ですよ、無理はしませんから」
「ホントかなぁ」
訝し気な目を向けられて、アデルは困ったように笑う。
そのとき突然、黙って壁際に座り込んでいたトトが立ち上がった。
「俺も行く」
「やめとけ、ガキには荷が重い」
冷たく言い放ったヨシュアのおでこを、ハナエがぺちんと叩いた。
「痛えな、なにすんだ」
「もう! ヨシュアって本当に言葉が足りないのね」
「あ?」
眉をしかめるヨシュアを無視して、ハナエはトトに言った。
「ヨシュアはね、危ないから待ってろって言ってるのよ」
「おい、ふざけんなハナエ。誰がそんなこと言ったんだよ!」
「なによ、要はそう言いたいんでしょ?」
いがみ合うハナエとヨシュアの横をすり抜け、トトはアデルの前に歩み出た。
「危険なのは分かってる。でも、ケガしてるアデル兄ちゃんが行くっていうなら、俺も行かないわけにはいかないよ」
「ほらみろ! おいアデル、やっぱお前ここで待ってろ」
アデルはヨシュアをちらりと見やると、にっこり笑って言った。
「では、トトはヨシュア様と共に行動してください。あなたには土地勘がありますから」
「分かった」
トトは引き締まった表情で頷いた。
「オイちょっと待て、お前ら人の話を聞けよ!」
「聞いていますよ」
「聞き流してるじゃねえかよ!」
「いたた……痛いですよ、ヨシュア様! これから作戦の詳細をお話ししますから、乱暴はやめてください!」
「ちょっとヨシュア、やめなさいよ! アデルをいじめるのは許さないからね!」
「うるせえ、ばーか!」
「なんですって?!」
「なんだよ!」
バチバチとにらみ合うハナエとヨシュアを、困った顔のアデルがなだめる。
それがなんだかおかしくて、ハナエは思わず吹き出してしまった。
「何笑ってんだ、気持ち悪いな」
「うるさいな……って、このやり取り、もう何回目だろうね」
アデルもふふっと笑う。
「息があってきましたね。良いことです」
「良くねえよ、バーカ」
ヨシュアは、ふん、とそっぽを向いた。その口元がなんとなく嬉しそうなのも、もうハナエは知っている。
「さあ、作戦を詰めましょう。あまり時間がありません。賊の言う『あの方』がやってくる前に、こちらが動かなくては」
アデルが言うと、他の三人も頷いた。
次回は3/12の夜に更新予定です。




