1.城田英恵
あのとき助けを呼ぶ声に、城田英恵は応えることができなかった。
差し伸べられた手を、掴んであげられなかった。
(……だけど、無理だよ。あたしはただの高校生――地味で取り柄もない『通行人A』だもん)
そう、国を救うなんて不可能だ。そんなこと、自分にできるわけがない。
(だから、お願い……もう家に帰らせて! 誰か、助けて……!)
白い刀身に伝う血の赤色が、頭に焼き付いて離れない。
ハナエはひとり、その場にうずくまり、ただ震えるばかりだった。
***
つい昨晩までは、ごく平凡な日常だったのだ。
県立花咲高校では、毎年六月に文化祭が開催される。そのため、ゴールデンウィークが明けるとすぐ、準備に取り掛からねばならない。
2年A組でも、クラスの出し物を考えるため、ホームルームが行われていた。
「今のところ、喫茶店とお化け屋敷が上がっていますが、他に案はありますか」
委員長の長嶋が、教卓に両手をついて教室を見渡す。すると、派手な女子たちがさっそく騒ぎだした。
「コスプレ喫茶とか?」
「メイド喫茶は?」
「学生らしい内容でお願いします」
「えー? つまんなーい」
ハナエはそんな様子をぼうっと眺めながら、愛用のメモ帳に文字を綴っていく。
――――――――――――――――――――
・喫茶店
・おばけやしき
――――――――――――――――――――
(どっちも他のクラスとかぶりそうだな)
ハナエがそう思ったとき、副委員長の芦田が手を上げた。
「どっちもありがちな内容だし、ほかの組とかぶるんじゃないかしら」
(そうだよね)
ハナエは口をむうっと尖らせて、メモ帳に目を落とした。
(でも、かぶらないっていうのは難しいだろうな)
じゃあ、どうするか。頭に浮かぶ考えを、ハナエは次々と文字に変えていく。
――――――――――――――――――――
・新しいものを考える
・今あるものをひねる
――――――――――――――――――――
(ひねるとしたら、例えば――)
――――――――――――――――――――
・おばけやしき+宝探し
・喫茶店+おばけやしき
――――――――――――――――――――
(3つ足すと、さすがにくどいかな)
長嶋たちのやりとりをぼんやりと聞きながら、ハナエはいくつもアイデアを綴っていく。
ハナエはクラス委員ではない。書記をやってほしいと頼まれているわけでもない。考えている事を紙に書き出すのは、昔からの癖だった。
けれど、ただそれだけ。綴るだけで、特に提案もしない。
だって自分は『その他大勢』なのだから。
地味で、勉強も運動も大してできない。美人で目立つ子たちとは違う。こういう議論は、クラスの中心になる人たちがやるものなのだ。
ふさわしくない人物が出過ぎたことをすれば叩かれる――そのことを、ハナエは痛いほどよく知っていた。
そんな中、『中心になる人たち』の代表格が、すっと手を上げた。
「はい、景山さん」
「かぶったら、そのとき考えよう。今悩んだって仕方ないよ。かぶったクラスとも話し合えば、差別化できる案があるかもしれないし」
おおお、と、教室中からどよめきが上がる。
景山綾。
すらっと高い背丈。さらさらの黒髪。意志の強そうな黒い瞳。ハキハキとした聞き取りやすい声。
そのどれもが、まさにクラスの中心人物にふさわしい。
(しかも成績トップで、剣道部のエースだもんなぁ)
まるで太陽みたいだと、ハナエは思う。
そんな景山の周りにはいつも、長嶋や芦田、そして他の華やかな子たちがいる。
(だったらあたしは、宇宙のすみっこに漂っている星屑ってとこだな)
それが不満なわけではない。ハナエだって、そのほうが居心地がよかったりする。
ハナエと景山では、先生や他の生徒から与えられる『役割』が違うのだ。
(景山さんは主役で、あたしは『通行人A』だもんね)
それでいい。もう、嫌な思いはしたくない。
ハナエはメモ帳をぱたんと閉じた。
結局、案が絞り切れないまま、ホームルームは終わってしまった。
みんな帰り支度を始めている。メモ帳をカバンにしまうと、ハナエも立ち上がった。
いつものように家に帰り、いつものように晩ごはんを食べる。
テレビを見て、宿題をして、お風呂に入って……そんないつもどおりの一日が、今日も終わる。
きっと明日も、いつもどおりの一日がやってくるのだろう。
ハナエはあくびをしながら、窓の外へと目を向けた。
「あれ?」
夜空の色が、なんだかいつもと違って見える。窓の側へと歩み寄って、そして気づいた。
「虹だ」
月夜に架かる、淡い橋。
滲んではいるけれど、はっきりとした七色が月明かりに透けて見えた。
「すごい、夜に虹なんて出るんだ」
窓を開けると、湿った風が鼻先をくすぐる。
ハナエは身を乗り出して、いつもと違う夜空を見上げてみた。
虹が架かっているからか、夜空の奥行きが普段よりぐっと深く見える。
澄んだ夜の闇の中、いくつもの星粒が力強く輝いている。
(すごいなぁ……なんて綺麗なんだろう)
ひんやりとした夜風が、鼻先をくすぐる。
遠くから電車の音が聞こえてくる。
ふと時計を見ると、いつのまにか午前0時を回っていた。
もう少し空を眺めていたいけれど、そろそろ眠らなければ。明日もまた、いつものような日常がやってくるはずなのだから。
(夢くらいは、いつもと違うのがいいな)
せっかく珍しい虹を見たんだもの、とハナエは思う。夢の中なら、景山さんみたいにキラキラ輝いたりできるかも――なんて。
そんなことを考えながら、ハナエはベッドにもぐりこんだ。
――。
――けて……。
――誰か、助けて……。
気が付くと、ハナエは見知らぬ場所に立っていた。
まるで空きビルの中のような、がらんと広くて何もない場所。パジャマに裸足のままだったが、とくに寒さは感じない。
薄暗い空間を見渡す。
少し離れた場所で、ぼんやりと光る「何か」から、悲痛な響きの少女の声が聞こえてくる。
――お願いです、誰か……私の声を聞いて……!
「あ、あの……」
ハナエはためらいながらも、おそるおそる声をかける。
「あの、聞こえて、ますよ」
――ああ、よかった! 届いていたのですね……どうかお願いです、私たちを助けてください……!
「えっと……」
ハナエはあたりを見回した。誰かがいる気配はない。だが、ハナエに何ができるだろうか。
「すいません、誰か人を呼んできます。ちょっと待っててください」
――待ってください! 行かないで!
「でも、あたしは子どもだし、たぶん役に立たないです……」
――いいえ、私の声が届いたのなら、あなたこそが私たちの救世主様です。どうかお願いです、私たちの国を救ってください!
「そ、そんなの無理です! 国を救うなんて、あたしにできるわけない!」
――あなたでなくては駄目なのです! もう私には、ほかに頼れるものなどない……お願いです、どうかこの手を取ってください、お願い……!
光の中から、手が差し伸べられる。
白くか細い手指だった。指輪に留められた小さな石が、寂し気にきらりと光る。
「でも、でも……」
地味で、勉強も運動も大してできない。美人で目立つ子たちとは違う。
ふさわしくない人物が出過ぎたことをすれば叩かれる。
宇宙のすみっこに漂っている『通行人A』に、そんな大それたことが出来るとは思えない。
きっと失敗する。そうなれば、このひとにも迷惑がかかるに違いない。
だから――。
「ごめんなさい、あたしには無理!」
ハナエはその手を――必死で助けを求める手を、振り払った。
その時である。
(右手が、熱い――?)
見ると、右手の甲に白く光る『紋』のようなものが浮かんでいる。
「……なに、これ?」
白い『紋』が、光を解き放つ――!
そのまぶしさに思わず目を閉じたハナエが、再び目を開けたとき。
目の前に広がっているのは、がらんとした空間でも、自分の部屋でもなかった。
ハナエが立っていたのは、薄暗い森の中であった。




