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女神の加護を持つ本物の娘が戻ってきました。偽物の私はどうすればいいのでしょうか  作者: Mel
Another Story

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Cinder


――もしも。三女もほんの少しの気まぐれで、手を加えたとしたら。


そうしたら、こんな未来もあったかもしれない。

 ろくな稼ぎにならない焼却場の清掃と、その小銭さえも「酒代に」と奪おうとする父。灰に塗れ、殴られた夜は、頬の痛みに耐えながらずっと妄想にふけっていたものだ。


 いつか白馬に乗った王子様が現れて、温かな食事と、豪華なドレスと、たくさんの使用人に囲まれて、幸せに暮らすんだって――


 

 貧民街での灰と暴力に塗れた生活から一転、本物の貴族令嬢として迎えられたあの日。

 シンディ・アウレリアの目に映った貴族の世界はひどく歪で、どこか狂っていた。


 いや、狂っていたのは貴族というよりも、アウレリア家の次期当主である義兄のエヴァンだけだったのかもしれない。

 なにせ彼は女神の気まぐれで妹が入れ替わっていたと知るや否や、元々の妻であったアネッサという女に多額の慰謝料を支払ってあっさりと離縁し、アウレリアの娘として育てられていたレイチェルを新たな妻として迎え入れてしまったのだから。


 血が繋がっていないとはいえ、十八年間も兄妹として育った男女が夫婦になる。そんなこと、貧民街の常識から考えても常軌を逸した行いだ。

 けれども当のエヴァンは世間の目などどこ吹く風。レイチェルを社交界から完全に遠ざけて、他者を決して寄せ付けまいとする異常な独占欲まで見せている。


 両親であるテオドアとセリーヌも流石に頭を抱えていたものの、結果的にどちらの娘も手放さずに済んだ安堵からか、今ではその歪な夫婦関係を完全に黙認していた。

 そうしてアウレリア家は安寧を手に入れたのである。……これまでに積み重ねてきた名声と引き換えにして。


「ねぇレイチェル。あたしが口を挟む話でもないかもしれないけど、あんた、それでいいの?」


 どうしてもレイチェルの気持ちが気になって尋ねてみたら、彼女はこてんと小首を傾げて、ふわりと花が開くように微笑んだ。


「はい。だって兄さまが、家族であり続けるためにはこれが最善だと仰るから」

「……ええと。レイチェルもエヴァン義兄さんのことが好きだったってこと?」

「ええ。ずっと尊敬していました。でも私なんかが妻だなんて本当に務まるのかしら……。兄さまに恥をかかせないようにしないといけませんね」


 言葉はほわほわ、頭はふわふわ。箱入りに育てられたレイチェルが何を考えているのかシンディには理解できなくて、この子が貧民街で育たなくて良かったと心の底から思ってしまった。


 貴族って、みんな頭のどこかがイカれてるんじゃないかしら?

 もしかしたら自分は、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったのかもしれない。


 それが、アウレリア家でのささやかな結婚祝いの席で、人目もはばからずにレイチェルをベタベタと甘やかす義兄の姿を見せつけられた、シンディの素直な感想だった。


 とはいえシンディ自身は実の両親から温かく迎えられ、衣食住に困らない生活を手に入れたのだ。文句を言える立場でもない。

 それに、アウレリア家での日々も長く続くものではなかった。


 シンディの持つ『浄化』という加護の力。加護の力を持つ者は、王宮に囲われることになっている。

 だから一通りの貴族教育を受けたシンディは惜しまれながらもアウレリア家を後にして、王宮に送られることとなった。


 *


 夢見ていた王宮での生活は――息が詰まるほど窮屈だった。

 

 分厚い化粧に、歩くことすら困難なコルセット。そして何よりもシンディを苦しめたのが、四方八方から向けられる加護の力への過剰な期待と、それに伴う嫉妬の嵐だ。

 加護を持つ娘の存在は稀少とあって護衛はやたらと多く、身の安全こそ保障されていたが、それはそれで息が詰まる生活で、数を減らして欲しいと嘆願するほどだった。

 

 それに、シンディの加護は浄化の力であったのだが、どうしたことか貧民街を離れた途端にその力は弱体化してしまった。今となっては狭い範囲の空気を清浄にする程度のもので、国を揺るがすほどの奇跡なんて到底起こせそうにない。

 幸い王都は貧民街と比べて空気が綺麗なため誤魔化せているものの、いつその事実がバレて「期待外れ」の烙印を押されることになるか。もはや時間の問題にも思えた。


「あーあ。……わたくし、これからどうなってしまうのかしら……」


 誰もいない庭園の片隅で、シンディはつい素の口調になりそうなのを堪えて小さくため息を吐いた。

 でも、今日はずっと楽しみにしていた日だ。王命によって定められた婚約者候補――第五王子ディランとの初めての顔合わせの日なのだから。

 

 ディランは同盟国の姫を母に持つという、ふたつの王族の血を引く気高い青年。きっと、ずっと夢に見ていた白馬に乗った王子様のような人に違いない。

 父母や義兄にその人となりを尋ねたら、なぜか皆揃って視線を彷徨わせ「シンディならきっと大丈夫」と謎の励ましを受けたが、五番目とはいえ王族なのだ。素敵な人に決まっている。


 長年夢に見ていた王子様を想像しながら、少しだけ高鳴る胸を抑えていると――


「――おい。お前がその、奇跡の娘とかいう田舎者か?」


 不意に背後から掛けられた声は、想像していたような甘く蕩けるテノールなどではない。むしろひどく耳障りで、ガサツな響き。

 驚いて振り返ったシンディの目に映ったのは、ここの王族には珍しい赤毛を無造作に伸ばし、仕立ての良い服をだらしなく着崩した少し年上の青年。鋭い三白眼に、八重歯が覗く口元。どこをどう見ても気品ある王子様には見えなかった。


「え……あ、はい。わたくしが、シンディ・アウレリアでございます。貴方様が……第五王子殿下でいらっしゃいますか?」


 シンディがレイチェル直伝の会心のカーテシーを披露すると、青年――第五王子であるディランは鼻で笑った。


「ちっ、なんだ。期待して来てみれば随分と貧相な女じゃないか。本当に加護なんか持ってんのか?」

「なっ……!」


 突如として放たれた無礼な言葉に、シンディの額に青筋が浮かぶ。

 だがその暴言以上にシンディの注意を引いたのは、ディランが近づいてきた瞬間にふわりと漂ってきた匂いだった。

 高価な香水の、むせ返るような強い香り。それとはまた別の――


 ……なんでこいつ、王宮の人間なのにあたしの住んでた場所みたいな匂いがするわけ?


 シンディは目を細め、目の前に立つ傲慢な王子をじっと見据えた。

 ディランもまた、値踏みするようにシンディを見下ろしている。でも、その生意気な瞳の奥に何かが潜んでいる。

 これは――虚勢を張っているのだ。自分を大きく見せるために。かつていた貧民街で、弱い子どもたちがよくやっていたように。


「なんだよ。人の顔をジロジロ見やがって」

「……いえ。殿下こそ、ずいぶんと強い香水をお使いなのですね、と思いまして」

「あぁ!? 文句あんのかよ!」


 キャンキャンと吠えるようなその態度に、シンディの中で「憧れの王子様」という幻想が音を立てて崩れ去っていく。

 それと同時に、重苦しかった王宮の空気が、ほんの少しだけ息のしやすいものに変わった気がした。


 なぁんだ。ここにも、あたしと同じような場違いな人間がいるんじゃない。


 シンディは扇で口元を隠し、貴族の令嬢らしからぬ含み笑いを浮かべた。


 *


 あの日から数週間。王宮での生活が続く中で、シンディはひとつの事実に行き当たっていた。

 第五王子であるディランは、この王宮内で見事なまでに孤立している、と。

 すれ違う貴族たちは扇の陰で嘲笑を交わし、ひどい時には使用人でさえ彼の前で露骨に面倒くさそうな態度を取る始末。


「あのような野蛮な王子の相手とは、奇跡の娘殿も不憫なことだ」

 

 第一王子派の重鎮である白髭の老貴族などは、すれ違いざまに聞こえよがしに鼻で笑うほどだ。

 強力な後ろ盾を持たないばかりか、教養も作法もなっていないガサツな王子。それが彼に対する周囲の評価だった。


 そんな鼻つまみ者として侮られている張本人はといえば、周囲の目など気にしないと言わんばかりに自由奔放に振る舞っていた。ボロが出ないように気を張っていたシンディまでもがその調子に呑み込まれてしまうほどに。


「あー、クソッ。この服、首のところがチクチクして苛つくぜ」

「ちょっと、足を机に乗せないでちょうだい。ただでさえガサツだと言われているのに、一緒にいるわたくしの品格まで疑われるでしょう」

「お前のどこに品格があるってんだよ。昨日だって出されたスープの味が薄すぎるって文句言ってたじゃねえか」

「あれは事実よ! あんなお湯みたいなスープで空腹を誤魔化されるくらいなら、裏通りの屋台の串焼きのほうが百倍マシだと思わない?」

「ハハッ、違いねえ。お高くとまった味だったよな」


 どうやらこの王子様、ちょくちょく王宮を抜け出して城下を遊び歩いているらしい。だから下町の事情にも詳しいようで、二人して悪びれもなく笑い合う。


 婚約者候補としての体面を保つための逢瀬は、いつしか互いの素を曝け出し、王宮での愚痴をこぼし合う息抜きの時間へと変わっていた。この男が相手なら、気取った会話も腹の探り合いも必要ない。ただ同じ空気を共有できる相手がすぐそばにいるというだけで、張り詰めていたシンディの心は随分と軽くなった。


 

 その日も、二人は庭園の奥にある離れの東屋で週に一度の茶会を開いていた。

 周囲には護衛の騎士が数名控えているだけで他の貴族の姿はない。もはや惰性に過ぎないが、これも他派閥への牽制と、二人の仲が良好であることをアピールするための義務のようなものだった。


「なあ、いつになったらこの茶番は終わるんだ? 甘ったるい菓子ばっかりで胃が焼けそうだ」


 ディランが眉間を寄せ、お茶請けの焼き菓子を口に放り込みながら悪態をつく。


「我慢しなさい。これもここでやり過ごすための……ん?」


 シンディが紅茶のカップに口をつける直前。ふと、鼻先を異様な匂いが掠めた。

 貧民街の裏通りで嗅いだことのあるゴミの腐敗臭とも違う、どこか危険で薬品のような悪臭。

 鼻をひくつかせて匂いの元を探れば――東屋の隅に置かれた香炉から、不自然な紫色の煙が立ち上っているではないか!


「ゲホッ……おい、なんだこれ……息が……っ!」


 向かいの席にいたディランが唐突に喉を掻きむしりながら床に崩れ落ちた。――毒煙だ。

 視界が紫に染まる。混濁する意識の底で、考えるよりも先に浄化の力が弾けた。


「ディラン!」


 シンディは這いつくばるディランの元へ駆け寄ると、自身のドレスの袖を力任せに引きちぎり、彼の口元を強く覆った。


「ちょっと、しっかりしなさいよ! 息を吐いて、あたしの近くの空気を吸うの!」

「お、まえ……ゲホッ……」


 浄化の領域に入り、ディランが荒い息を吐き出しながら新鮮な空気を肺に取り込む。

 なんとか意識を繋いだのも束の間、東屋の入り口を塞ぐようにして、護衛であるはずの騎士たちが無言で剣を抜いてにじり寄ってきた。


 分厚い布で顔を覆うその姿を見てようやく気付く。――彼らは暗殺者だったのだ。

 加護を持つ娘を味方につけた第五王子を、今のうちに始末しておこうとする他派閥の差し金に違いない。


 ここで悲鳴を上げて助けを待つのが正しい貴族の令嬢なのだろう。だが、シンディは邪魔なドレスの裾を思い切り力任せに引き裂いた。お高そうな生地がビリビリと破れていくけれど、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 そして足の自由を確保すると、咄嗟にすぐそばのテーブルにあった重厚な燭台に手を伸ばした。


「――死ねっ!」

 

 護衛の一人がディラン目掛けて凶刃を振り下ろそうとした直前。シンディはディランを庇うように前に飛び出し、男の横っ面めがけて燭台を思い切り叩きつけた。

 令嬢如きが歯向かうとは思わなかったのだろう。ガツンッ、という鈍い音とともに油断しきっていた男が悲鳴を上げて倒れ伏す。


 呆然と見上げるディランに、シンディは興奮のままに怒鳴りつけた。


「ぼさっとしてないであんたも戦いなさいよ! ここで死にたいの!?」

「っ……ハハッ、違いねぇ! 上等だ!」


 ディランの目を覆っていた卑屈な色が消え失せ、ギラギラとした野性の光が宿った。

 彼は気絶した暗殺者の手から剣を奪い取ると、シンディの背中を守るように立ち上がる。


 右に左に剣を振るう王子と、ひしゃげた燭台を振り回す令嬢。気品も優雅さも欠片もない乱暴な立ち回りだが、互いの呼吸は不思議なほどに合っていた。

 毒煙の立ち込める密室で、二人は背中を預け合いながら、迫り来る暗殺者たちを次々と返り討ちにしていく。


 どれくらいそうしていただろう。東屋の床には、気絶した暗殺者たちが無様に転がっていた。

 ディランは奪い取った剣を放り投げると、荒い息を吐きながら柱に背中を預けてへたり込んだ。その横でシンディも重たい燭台を放り捨て、破れたドレスのままドサリと床に座り込む。

 

「はぁっ……はぁっ……あんた、剣術なんて習ってないでしょう。完全に喧嘩殺法だったじゃない」

「うるせえ。生き残れりゃ何でもいいんだよ」

 

 軽口を叩き合うが、二人の顔はまだ緊張で強張っていた。

 血を流して倒れる暗殺者たちを横目に、ディランは複雑そうな視線をシンディに向ける。

 

「……お前、本当にあのアウレリア家の娘なのかよ。あんな見事なフルスイング、貴族の娘がやることじゃねえぞ」

「うるさいわね。命がかかってるんだから貴族だの何だの言ってる場合じゃないでしょうが」

 

 シンディは乱れた金髪を無造作にかき上げる。その堂々とした姿を見て、ディランはふっと自嘲気味な笑みを漏らした。

 

「それもそうだ。……なぁ、シンディ。お前、元は貧民街育ちなんだろ?」

「ええ、そうよ。本物の娘として凱旋した話はみーんな知ってんでしょ? それが何よ? やっぱり育ちが悪いって言いたいわけ?」

「被害妄想の強いやつだな。そこまで言ってねえだろ。俺はただ……強かな女だって思っただけだ」

「……それ、褒めてんの?」

「褒めてるよ。……でもやっぱ本物はちげえわ。俺と同じだと思ったのにな」

「…………?」

 

 ディランが、今までに見たこともない表情で視線を落とす。彼はしばしの沈黙の後に、重たげに口を開いた。

 

「……俺は、王子なんかじゃない。本物の王子はどこかに消えて、俺は身代わりとして……大司教のジジイに金貨数枚で買われた、ただの貧民街の孤児なんだとよ」

「……は? あんたが貧民街の出身? 金で買われた……身代わり?」

「ああ。今は死んだ大司教が恩着せがましく言ってきたんだよ。兄弟も薄々気付いてるんじゃねえかな? あいつだけ毛色が違うって」

 

 ハッ、と笑うディラン。

 まるで重大な事実を打ち明けたと言わんばかりのその横顔はこれまでに見たこともないほどに神妙なもので――

 

 ずっと収まりの悪かった違和感が、ようやく解消された瞬間だった。

 

「――あはははっ! なんだ、そういうこと! だからあんたからあたしとおんなじ匂いがしたのね! ふふん。香水で誤魔化してるつもりでしょうけど、あたしの鼻は騙せなかったわよ!」

「なっ……お前、笑い事じゃねえぞ! 俺は王族を騙る大罪人なんだ! いつバレて殺されるか分からねえから、ずっと……」

 

 ずっと怯えて、虚勢を張って生きてきたのだと。彼は兄弟とは異なる色の瞳で雄弁に物語る。

 シンディは涙目になるほど笑った後、ディランの悲痛な叫びを遮るようにしてふうっと大きく息を吐いた。

 

「あんたが偽物だって言うなら、あたしだって同じようなもんよ」

 

 シンディは立ち上がり、破れたドレスの裾をこれ見よがしに払ってみせた。

 

「あたしは確かにアウレリア家の血を引いてるらしいけど、つい最近まで貧民街で灰まみれになって生きてきたの。貴族の教養なんて付け焼き刃よ。本物なのは、血筋だけってこと」

「血筋だけっていうけどよ……それが大事なんじゃねえか」

「そう? 加護の力が発現しなけりゃ気付いてすら貰えなかったんだもの。その程度なら、どうでも良くない?」


 実際に、アウレリア家は偽物のレイチェルを娘として育て上げていた。世間知らずで流されやすい性格だったけれども、貴族令嬢としての品位も教養もしっかり持ち合わせていた。エヴァンの過保護と過干渉さえなければ、彼女なら社交界でもそれなりに上手く立ち回れていたことだろう。


 つまり、そういうことなのだ。

 肩書きさえ立派に揃っていれば、中身が本物かどうかなんて、ここの連中にはどうでもいいのだ。

 

「それにね、肝心のこの加護だってそう。国を救う奇跡の力なんて持て囃されてるけど、本当はこんな狭い空間の空気を綺麗にするのが精一杯。期待外れもいいところの、見掛け倒しの力ってわけ」

 

 シンディは悪びれもなく言い放つ。

 あまりにも清々しいほどの開き直りだったのだろう、ディランは言葉を失ったように黙り込んだ。

 

「だからあんたの秘密なんて、あたしからすればどうでもいいの。偽物の王子だろうが、貧民街育ちの娘だろうがね。だってこの世界の連中の目はみーんな節穴なんだもの。あたしたちはここでやっていけてる。今は、それで十分じゃない」

 

 差し出したシンディの令嬢にしては逞しい手を、ディランは呆然と見つめている。


「……お前、頭おかしいんじゃねえの」

「貴族なんてみんな頭がいかれてんのよ。そんなの、今さらでしょう」

 

 ディランはふっと笑い、シンディの手を力強く握り返してくる。

 ずっと夢見ていた王子様とはまるで違う無骨な手だったけれども、思ったよりも温かい手だった。

 

「偽物の傲慢王子と、期待外れの奇跡の娘。……悪くねえ組み合わせだ」

「ええ。どうせならこの毒まみれで窮屈な王宮を、あたしたちが生きやすいようにしてやりましょうよ」


 血と紅茶と毒煙の入り混じる荒れた東屋の中で、二人は不敵な笑みを交わした。

 それは婚約者同士が交わす甘やかな関係のものではない。

 この毒蛇だらけの王宮で生き残るために互いを利用するという、共闘の誓いの笑みだった。


 *

 

 東屋での襲撃事件以降、王宮の空気は目に見えて変わった。

 いや、正確に言えば変わったのはシンディとディランの二人なのかもしれない。


 これまでは他派閥からの嫌がらせや陰口に対して、ただ息を潜めて耐えるか、虚勢を張って吠え返すしかなかった。でも互いの腹の中を知り、ある意味開き直った彼らにもう怖いものなど何もない。


 例えば、晩餐会で出されたスープに微量の毒が仕込まれていた時。以前のシンディなら周りの空気を読んで黙り込んでいただろう。でも今の彼女は鼻をひくつかせて匂いを嗅ぎ分けると、それを躊躇いなくディランの皿とすり替えてみせる。


「ちょっと、これ腐ってるんじゃないの? 貧民街にいるドブネズミだって腹を壊すわよ」

「おいおい、そんなモン俺に食わせようってのか? 毒見役を呼んでこい!」


 わざと大声で騒ぎ立て、仕掛けたはずの貴族たちの顔を真っ青にさせる。


 また、以前すれ違いざまに嘲笑ってきた第一王子派の重鎮が、ディランの粗野な振る舞いにネチネチと嫌味を言ってきた時などは、シンディは扇で口元を隠しながら優雅に微笑み返す。


「あら。殿下は王族の身でありながら下町の視察に熱心であらせられるのです。温室育ちでいらっしゃる貴方様には、到底理解できないでしょうけれどね」


 嫌味を嫌味で返し、ディランが隣で悪役のようにニヤリと笑う。見下していたはずの令嬢から痛烈な皮肉を浴び、白髭の老貴族は顔を真っ赤にして逃げ去っていった。


 優雅さや気品などかなぐり捨て、貧民街で得た知恵と度胸、そしてシンディのささやかな加護を武器に、二人は次々と降りかかる火の粉を物理的に、あるいは口八丁で払いのけてやった。

 いつしか王宮の人々は、「野蛮な第五王子」と「それに感化された令嬢」を腫れ物のように扱い、迂闊に手出ししなくなっていた。

 それはつまり、二人がこの窮屈な王宮の中で確固たる自分たちの居場所――息のしやすい安全地帯を勝ち取ったということに他ならないのだった。



「……あー、今日も疲れた。あの第一王子派のジジイども、ネチネチとうるせえんだよ」


 夜の離宮のバルコニー。

 ディランは行儀悪く手すりに腰掛け、大きく伸びをした。その横に並ぶシンディも窮屈なコルセットを思いきり緩め、夜風に金髪をなびかせている。


「仕方ないでしょう。あたしたちが目障りなんだから。でも、当分は直接的な手出しは控えるはずよ」

「まぁな。お前がハッタリかましてくれたおかげだ」


 ディランはふっと笑い、それから少しだけ真面目な顔をして夜空を見上げた。


「……なぁ、シンディ。もしもいつか、俺が金で買われただけのただの偽物だってことが完全にバレたらどうすんだ?」


 それは、彼がずっと抱え続けてきた恐怖。

 どれだけ居場所を作ろうとも、彼の足元は常に不安定なまま揺れ続けている。彼の中の「怯える貧民街の孤児」が、ふとした瞬間に顔を覗かせるのだ。

 

 だからシンディは、ディランの額を軽く指ではじいてやった。彼の不安ごと吹き飛ばしてしまうように。


「イテッ、何すんだよ!」

「その時はね。王宮にある金目のものをありったけ鞄に詰め込んで、とんずらするのよ。あたしは元々、貧民街で生き抜いてきた女よ。どこでだって生きていけるわ。そこで灰に塗れようと、あたしのしょぼい加護で綺麗さっぱり浄化してみせるんだから。だから……」


 手すりに寄り掛かったシンディは、満面の笑みをディランに向けた。

 

「あんた一人くらい、あたしが養ってあげるわよ」


 傲慢なほどに自信に満ちたその言葉に、ディランは目を丸くして――やがて、肩を揺らして大きく吹き出した。


「はははっ! あのアウレリアの娘が泥棒宣言かよ! お前、ほんっとに最高だな!」

「なによ、笑うことないでしょ。あたしは本気よ」

「分かってる、分かってるよ。……ああ、そうだな。ヤベェ時は逃げるのが一番だ」


 ディランは笑い涙を雑に拭い、シンディの肩にポンと手を置く。


「でも、バレない限りはここに居座ってやるさ。王位なんて窮屈なもんは真っ平御免だけどよ……お前にそれなりに裕福な暮らしをさせてやるくらいの地位と権力は、絶対にしがみついて守ってやるさ」

「あら、頼もしいこと。それならせいぜい頑張ってもらわないと。どうせなら田舎領地でいいから貰ってきてよね!」


 二人は顔を見合わせ、夜の闇に紛れて悪巧みをするように笑い合った。

 

 

 絵本に出てくるような、白馬に乗った気高い王子様なんてここにはいなかった。

 代わりにいた男は気品も優雅さも欠片もないけれど――彼の隣にいると誰よりも息がしやすいのは、確かだった。


 それに、無垢で純粋な、国を救う奇跡を起こす娘もここにはいないのだから。

 

 こんな物語があってもいいのかもね、と。シンディは赤毛の王子の隣でずっと笑っていた。

 

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