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女神の加護を持つ本物の娘が戻ってきました。偽物の私はどうすればいいのでしょうか  作者: Mel


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3/3

Nameless

ネスに視点を当てた話となりますが、本編のネスのイメージを著しく損なう可能性がございますので、ご留意ください。



 その日、王城内は浮き立っていた。第一王妃が待望の王女を産んだのだ。

 現王にとっては初めての娘ともあって大規模な祝宴の準備が進む。その誕生は万人に祝福され、城内には晴れやかな笑顔が満ちていた。


 ……時を同じくして、第三王妃が予備の産室へと運び込まれていたことを、どれほどの者が知っていただろうか。


 第一王妃の分娩が滞りなく進み喜びに沸いていたその裏で、同盟国から輿入れした第三王妃は予定よりも早く産気づいた。

 母国との友好の証として相応の待遇は受けていたものの、この日に限っては不運が重なった。腕利きの医師や侍女の多くが第一王妃のもとに詰めており、急な事態に割ける手が限られていたのだ。たまたま儀礼のため城を訪れていた大司教が、人手不足を補うべく祈祷と立ち会いを命じられるほどに。


 長いお産の末にようやく産声が上がる。

 祝福を授けるため歩み寄った大司教は、生まれたばかりの赤子から肌を刺すような神聖な気配を感じ取り、密かに息を呑んだ。


 ――加護を、持っているのか。


 それはまだ微かな兆しに過ぎない。だが否定しようのない、強大な力の萌芽を確かに宿していた。


 本来であれば即座に王へ報告すべき吉報である。だが大司教は、その場では沈黙を選んだ。

 祝宴の喧騒の中にこの事実を投じれば、何が起こるかは想像に難くない。

 それに、一つの懸念があった。自らの立場を思えば決して看過できぬ、大きな懸念が。


 数日後。

 形式的な「王家の血筋の鑑定」を装い、大司教は改めて赤子のもとを訪れた。


 太古に女神より賜った水晶に小さな手が触れたその瞬間、水晶はこれまでに類を見ないほどの眩い輝きを放った。それはつまり、この赤子が女神の加護を持つ確かな証であった。


 この国は長子が王位を継ぐ。それは長年揺らぐことのなかった不文律である。

 だがもしも、加護を持つ王子が誕生したとなれば、その決まりは容易く崩れ去るのではないだろうか。


 そうなれば――第一王子の婚約者である己の娘の立場は、どうなる。


 大司教は眠る赤子を見下ろした。小さな胸が規則正しく上下している。その無垢な寝顔を前にしながら、彼は自らに言い聞かせるように、ゆっくりと思案を巡らせた。


 第三王妃は難産の末に命を落としている。

 ここで王子まで死産だったとすれば、神殿の監督不行き届きは免れまい。王妃を救えなかったことですでに苦言を呈されている有様なのだ。五番目とはいえ王子まで失えば、その責を問われる可能性は高い。


 かといって、加護を宿すこの子をそのまま王城に置けば、確実に後継者争いの火種となりうるだろう。


 死んだことにするのは、まずい。

 ――ならば、最初から加護などなかったことにすればいい。


 しかし、なにも加護の鑑定は大司教だけの特権ではない。司祭の位に立つ者であれば、水晶を用いずともその兆しを察することは可能だ。いずれ真実が露見すれば己の権威は地に堕ちるだろう。


 熟考の末、大司教はひとつの結論に辿り着いた。


 すべてはこの国の安寧のために。

 すべては、娘の輝かしい未来のために――

 


 大司教は、神殿に仕える女を一人選んだ。

 教えに従順で、疑問を抱かぬ敬虔な信徒である。


 赤子の世話を命じられた彼女は、理由を問わなかった。ただ「しばらく預かれ」と告げられたから、大人しくそれに従った。女にとって神殿の命は絶対であり、そこに疑いを挟む余地はなかった。


 その裏で、大司教は別の信徒にも密かに命じた。

 貧民街へ行け。金で子どもを買ってこい。

 男児であること。月齢が近いこと。赤毛であること。

 王家の血筋の証である淡い金糸までは望めぬが、幸い第三王妃はどこにでもいる赤毛の持ち主である。母と同じ色であれば、違和も薄れるだろう。


 貧民街には子を売らざるを得ない家などいくらでもある。

 生涯をかけても目にすることのない数の金貨をちらつかせれば、条件に合致した子を持つ父親は震える手でそれを受け取り、赤子を喜んで差し出した。


 その男は数日して貧民街で死体として見つかったそうだが――

 急に羽振りが良くなったから妬まれて殺されたのだろうと、街の住人は気にも留めなかった。


 やはり、あの街には秩序がない。

 その死の裏にどれほどの意図が潜んでいようと、俗な憶測に紛れて消えていく。


 連れて来られた赤子は身なりを整えられ、恭しく王の前に差し出された。

 妃と同じ赤毛を持つその子を見つめ、王は愛おしげに目を細める。


「ディラン、と。母を失った憐れな子だ。よくよく面倒を見てやってくれ」


 その一言ですべては決まった。

 貧民街で金と引き換えに売られた子どもは、その日から第五王子として育てられることになった。


 

 一方で、赤子を託された女は密かに神殿から姿を消していた。

 何を思ったのか、貧民街へと身を潜めたらしい。

 

 報告を受けた大司教は、あえて表立った捜索を行わなかった。

 これまでの歴史を紐解いても、加護持ちは一世に一人現れるかどうかという存在だ。それを思えば、あの赤子も特殊な加護を持つとはいえ、すぐさま国益に結び付く類の力でもなかった。

 加護持ちは奇跡として崇めるには好都合であるが、王家の血を引くとなれば話は別だ。権威として抱えるには、その血筋があまりにも強すぎる。

 

 もはや用済みと言っても差し支えない。

 それでも始末しなかったのは、さすがに直接手を下せば女神の怒りを買うやもしれぬという恐れが、大司教の胸の奥で微かに燻っていたからに過ぎない。

  

 ならば、あとは天に委ねればよい。

 貧民街で生き延びるのは容易ではない。もしそこで朽ちるのなら、それもまた女神の御意志なのだから。

 

 そうして大司教は、最低限の監視を置くに留め、女を連れ戻しはしなかった。

 ただただ、名もなき赤子が自然に淘汰されることだけを祈った。


 

 *


 

 それから幾年かの時が流れて――


 成長した少年は、痩せっぽちの女とともに貧民街の奥で暮らしていた。

 女はいつも周囲を気にしていた。物音がすれば身を強張らせ、少年を見る目には常に怯えが滲んでいた。


「私は、なんてたいそれたことを……」


 大司教から赤子を託されたあの日。

 柔らかく温かな命を腕に抱いた瞬間、女の脳裏に過ぎったのは、若き日に婚家に奪われた我が子の面影だった。


 ――また、奪われるかもしれない。


 その恐怖に突き動かされるように、女は神殿を離れ、貧民街の片隅へと身を寄せた。


 だが、淡い金糸の髪を揺らす少年は、記憶の中に残る我が子とは似ても似つかぬ存在だった。

 己が犯した罪の重さと向き合うこともできず、女は次第に少年から目を逸らすようになっていった。


 一方で少年もまた、この女をただの同居人としか見ていなかった。

 名を呼ばれた記憶はなく、その女を母と呼んだ覚えもない。

 それでも女は少年を手元に置き続けたが、二人のあいだに親子と呼べる温もりが芽生えることはなかった。


 ――だからだろうか。

 少年の心は、いつもどこか渇いていた。


 暮らしは貧しい。

 食べる物は決して多くはなく、家の中にはいつも隙間風が吹き込んでいる。その風は決まって、酒の匂いを運んできた。

 女から漂うそれは最初こそわずかなものだった。だがやがてそれは日常となり、夜ごと女神に許しを乞う女は、虚ろな目で外を彷徨うようになった。

 少年は何をしてやるでもなく、ただその背を眺めていた。声をかければ、女は悲鳴を上げるだけだった。


 ある朝、路端で冷たくなった女を見つけたときも、少年は摘んできた野薔薇をそっと胸元に置いただけで、それきり振り返りはしなかった。


 

 ひとりぼっちになったといっても、この街では珍しいことではない。そんな子どもはいくらでもいるし、暮らしはさほど変わらない。


 腹が減ればみなしごに交じって残飯を漁り、冷え込む夜には住み慣れた小屋で襤褸を握り締めて身を丸める。時には半殺しの目に遭いながらも、奪い取った果実に齧り付く。


 ――案外、死なずに済むものだ。

 どうして生きているのかまでは、いつまで経っても分からなかったけれど。

 


 図体が大きくなれば、それなりに力もつく。少年はいつしか周囲から一目置かれるようになり、同時に遠巻きにされる存在になっていた。その立ち居振る舞いは、この貧民街ではどこか異質に映るようだった。


 誰ともつるまず、その日暮らしを続けていたある日。路地裏で小さな悲鳴を聞いた。貧民街では珍しくもない音だ。


 気まぐれに足を止めて、覗き込む。そこには年の近い少女がいた。壁際に追い詰められ、男に腕を掴まれている。殴られたのか、頬は赤く腫れていた。


「よくもそんな生意気な口がきけたもんだ! 所詮はあばずれの娘だな!」


 嗅ぎ慣れた酒の匂いを纏った男が吐き捨て、再び手を振り上げる。

 考えるより先に、少年の身体が動いた。落ちていた石を拾い、男の足元へ投げつける。


「っ……!」


 狙いは外れたが、注意は逸らせた。

 その隙に少年は駆け出し、少女を庇うように前に立つ。


「その辺にしとけよ、おっさん」


 男は淀んだ目で少年を睨み、大きく舌打ちをする。殴りかかってくるかと思ったが、相手が二人になったことで興が削がれたのか、少女を乱暴に突き飛ばしてその場を去っていった。


 路地に残ったのは、少年と少女だけ。


「……ありがとう」


 思っていたよりも、芯のある声だった。


「あなたのこと、見たことがあるわ。この辺りに住んでるわよね? あたしはシンディ。あなたは?」


 軽い問いかけに、少年は言葉を詰まらせた。


 名を呼ばれた記憶はない。誰かに名乗った覚えもない。

 貧民街の人間ですら持っているものを、少年は与えられていなかった。


 事情など知るはずもないシンディは、当然のように答えを待っている。少年は視線を逸らし、思いついたままの音を口にした。


「……ネス」


 少女は目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「ネス、ね。あたしもこの辺に住んでるの。さっきのは……父さんなんだけど」


 どこか気まずそうに笑う少女を見て、ネスは思う。


 実の両親に捨てられた自分と、実の両親に殴られる娘。


 ――喉の奥が、ひりつくようだった。


 

 その日からネスとシンディは時折顔を合わせるようになった。

 とはいえ、貧民街ではそれぞれが生きるだけで精いっぱいだ。会えない日が続くことも珍しくない。

 それでも路地の向こうにシンディの姿を見つけると、ネスは自然と足を止めていた。


「ネス!」


 嬉しそうに駆け寄ってくるシンディ。

 ふたりは古びた教会の陰に腰を下ろす。日が傾くまで続くのは、なんとも他愛のない話だ。


「いつかぜーったいにこんな場所から抜け出してやるの。それでね、王子様に見初めてもらうのよ」


 彼女はいつも、そんな子どもじみた夢を語った。

 その口元には決まって新しい痣が残っていた。


「……また殴られたのか」

「あはは……あたし、父さんに似てないから嫌われてるの。お酒さえ飲まなければ物静かな人なのにね。……あーあ、実はお貴族様の落とし子だったりしないかしら。だってこんな綺麗な青い目、この辺じゃなかなか見ないでしょ?」


 おどけるように声を弾ませるシンディに、ネスは笑いもせず、否定もせず、ただ耳を傾けた。


 話の大半はどうでもいい。

 それでも彼女と同じ空間にいると、不思議と胸の奥が軽くなる。

 それに、ネスが傍にいる間だけは、少なくとも彼女は殴られずに済んでいる。

 

 ただそれだけのことなのに。何も持たない、空っぽな自分に初めて与えられた、たったひとつの役割のようにさえ思える。


 そう考えれば、この時間も悪くはなかった。

 


 そんな日々がしばらく続いたある日、ネスは路地の奥で一人の男に声を掛けられた。


「ああ……やっと見つけた。やはり分かるものだな」


 振り返ると、法衣を纏った男が立っている。背後には複数の憲兵を付き従えて。

 貴族が戯れでやってくる奉仕視察。その付き添いとして見かける大人と同じ装いだ。

 ――つまりは神殿の人間。しかもこの尊大な態度から察するに、かなり上の立場の。


「話がある。……君の生い立ちについてだ」


 面倒事はごめんだった。

 だがその言葉は、否応なく耳を引いた。


 よほど他人に聞かせたくない話なのか。男は憲兵を下がらせると、ネスを人目の少ない路地裏へ誘い、声を潜めて切り出した。


「驚くかもしれないが……君は王家の血を継ぐ者だ」

「……はぁ? あんた、頭でもイカれてるのか?」


 吐き捨てると、男は一瞬だけ顔を歪めた。

 だがすぐに気を取り直し、子どもを諭すような口調で語り始める。


 回りくどい言い回しではあったが、要するに――

 自分は王子という立場にありながら、やんごとなき事情で王家から遠ざけられていた存在だということらしい。


 あまりにも荒唐無稽すぎて信じる気になれなかった。

 だが、服の裏に隠された生来の印を言い当てられて、初めて耳を貸す気になった。


「君は偉大なる女神の加護を持っている。極めて希少な力だ」

「女神? ……加護?」

「そうだ。君は――王になれる男だ」


 誇らしげに言い切る男を、ネスは黙って見つめ返した。


「安心しなさい。この私が後見となろう。相応しい教育も施す。……育ちはともかく、血筋は裏切らない。現に君は、この地で浮いているだろう?」

「そりゃ悪かったな。……で? 今さらどうして?」


 当然の疑問だった。

 もしそれが真実なら、なぜ今になって迎えに来るのか。


 男は苦虫を噛み潰したような顔をしたが、理由を明かそうとはしない。ただ「時が来た」と繰り返すばかりだ。到底、納得できる説明ではなかった。


 ――ネスの知る由もないが、男の娘は第一王子の婚約者の座を追われていた。

 瑕疵があったわけではない。より政略的に価値のある娘にすげ替えられただけのことだ。


 だが、嘆き悲しむ娘を抱きしめた夜、男は思い出した。

 かつて遠ざけた、加護を持つ王子の存在を。


 彼を王家に戻し、自らが後ろ盾となれば――

 娘の未来は再び輝きを取り戻すはずだ、と。

 

 その打算の匂いをネスは敏感に嗅ぎ取りながらも、脳裏に浮かんだのは、遥か彼方に聳える王城ではない。

 

 路地裏で笑う少女――シンディだった。


 あれほど貴族の世界に焦がれていた少女がいるというのに。

 信念も信仰も持たぬ自分にだけ、今さら救いの手が差し伸べられる。


 ――やっぱり、こんな世界はクソくらえだ。


「……一晩、待ってくれ」


 ネスはわざと勿体ぶるように言った。


「俺にもここでの生活があったんだ。整理をしてから行かせてほしい」


 男はもっともらしく頷いた。拒絶されなかったことへの安堵をわずかに滲ませて。


「……賢明な判断だ。明日、遣いを寄越そう」

「いや。あんたが直接迎えに来るのが条件だ。他の連中は信用ならない。裏の通りなら人目も少ないから、あんたも困らないだろう? ……ああ、その格好もやめておけ。奪ってくれと言っているようなものだ」


 一瞬、男の目が揺れた。

 人目をやたらと気にするのは、後ろ暗い思惑があるからに違いない。

 だからだろう。男は神妙な顔を作り、ゆっくりと頷いた。


 その晩、ネスは眠らなかった。


 男が立ち去ったあと、彼はいつもの顔ぶれがたむろする一画へ紛れ込んだ。

 荒くれ者。金に飢えた男たち。質の悪い連中。


「金を持った男が、明日、素性を隠して裏通りに来るらしい」


 それだけで十分だったのだろう。

 翌日、男がネスの前に姿を現すことはなかった。


 ……女神の加護など、心底どうでもいい。

 今さら自分が王子だなどと言われて喜ぶはずがない。勝手に捨てたばかりか、そんな話が通じる人間だと思われたこと自体も癪に障る。


 ――この身を苛み続ける渇きが、そんなくだらないもので満たされるわけがないのだ。



 貧民街での日常は、何事もなかったかのように続いた。

 迷い込んだ高貴なる人間が路地で死ぬことなど、この街では珍しくもない。噂は立つが、やがて別の話題に塗り潰されて誰の記憶にも残らなくなる。


 ネスもまた、何も変えなかった。

 何の役に立つのかも分からぬ「加護持ち」などという秘密を抱えはしたが、生き方そのものは以前と変わらない。


 それなのに、ネスが変わらなくとも世界のほうは勝手に変わろうとする。


 ――流行病が、貧民街を襲った。


 高熱と咳。

 重たい空気が街に澱み、路地を歩くだけで喉が焼けるように痛む。倒れる者は日に日に増え、呻き声は朝から夜まで絶えることがなかった。


 シンディの両親も例外ではない。数日のうちに相次いで息を引き取り、粗末な布に包まれて運ばれていった。

 布に覆われてしまえば他の遺体と見分けはつかない。シンディは泣かなかった。ただ、煙の上がる空を、焦点の定まらぬ目で見上げていた。


 そして、その翌日。

 不思議なことに、街の空気が変わった。


 重く澱んでいたものが、ゆっくりと薄れていく。

 息がしやすい。

 胸の奥の圧迫が、すっと引いていく。


 最初に異変に気づいたのは、ネスだった。


 視線の先に立つのは、シンディ。

 彼女は路地の隅っこで、空をぼんやり眺めながらただ静かに息をしている。

 だが、その周囲だけ、確かに空気が澄んで見えた。


 咳き込んでいた人々が次第に呼吸を整え、青ざめていた頬に色が戻る。

 ざわめきが、波紋のように広がっていく。


「病が……」

「楽になった……?」


 その日のうちに、流行病は目に見えて勢いを失った。


 翌朝、神殿の司祭が街に入った。

 流行病鎮静の祈祷という名目ではあったが、すでに惨状は収まりつつある。

 事前に聞いていた話とはあまりに異なる光景に、司祭は訝しげに周囲を見渡した。


 やがて、路地の隅に立つ少女へと視線が吸い寄せられる。その傍らにいるネスには目もくれず。


 ネスは何気ない顔で一歩退き、さりげなく彼女を前に押し出した。

 司祭の目が、はっきりと見開かれる。

 

「……この力は、浄化に違いない。君は、女神の加護を持っている」

「え? ……あたし?」


 きょとんと目を瞬かせるシンディを取り囲み、司祭たちは興奮を隠しきれない様子で口々に告げる。


「すぐに神殿で保護しよう」

「その力は正しく導かねばならない」

「ここは君のいるべき場所ではない。血筋も改めて鑑定する。女神の水晶があれば確かめられるはずだ」


 両親を失い、後見人もいない身の上では、拒む理由もない。話はその日のうちにまとまった。

 その方がいい。彼女の価値に目をつけた連中から守りきれる自信もない。


 別れは、驚くほどあっけなかった。


「じゃあね、ネス」


 鑑定とやらで後に判明したのは、彼女が名門貴族の娘だったということだった。

 どこかで聞いたような話だと、ネスは思う。

 ただ自分と決定的に違うのは、それが「女神の気まぐれ」だと説明されている点だろう。


 加護を与えて、立場を入れ替えて、人の運命を簡単にひっくり返す。

 それを天上から眺めているというのなら――何とも性悪な遊戯だ。


 馬車に乗せられる前、シンディは振り返って大きく手を振った。

 泣きもせず、なんの未練もなさそうに。


「流行病、あたしが追い払っちゃったんだって。すごいよね、あたし。これでいい暮らしができるようになるんだよね!」


 明るい未来が待っていると疑いもせずに信じている、なんとも無邪気な声だった。


 馬車が角を曲がり、姿が見えなくなる。途端に息苦しさを覚えたのは、きっと気のせいだろう。


 ――これでいい。

 あいつは貴族の世界を夢見ていたのだから。


 それならば自分は、陰謀渦巻く王室で政争に巻き込まれるくらいなら、この肥溜めの中で朽ち果てるほうが、よほど性に合っている。


 そう心から思っていた。

 あの日までは。


 レイチェル・アウレリアと名乗った少女が、この貧民街に迷い込むまでは。

 

 

 シンディが戻ったことで偽物とされた娘は、とんだ世間知らずだった。


 水の浄化という、命に直結する加護。それもシンディをはるかに凌ぐ強大な力を宿しているにもかかわらず、血の繋がらぬ兄の戯言を疑いもせず、自分には価値がないのだと思い込む哀れな娘だった。


 話を聞けば、護衛を騙ったゴロツキどもは家族が手配した者たちだったという。帰る場所はないのだと彼女は明言しなかったが、その声音と視線の揺れがすべてを物語っていた。


 同情心を抱いたのは事実だ。だがそれ以上に、得も言われぬ感情が胸の奥をじわりと侵していく。小さく震えるレイチェルは聞いた年よりも幼く見えて、どこへ置いても利用される未来が容易に想像できた。


 水を巡る騒ぎはいずれ上層へと届くだろう。自分の加護と彼女の力が重なれば、どんな効果をもたらすかも分からない。そう考えれば、本来ならば距離を置くのが賢明だ。


 それなのに。口から零れ落ちていたのは別の言葉だった。


「匿ってやろうか?」


 我ながらなんと意地の悪い提案なんだろう。誰かの悪意で命を狙われ、誰かの執着に縛られてきた娘に他の選択肢など残されていないと知りながら、それでも選ばせる形を取ったのだから。


 案の定、彼女は小さく頷いた。仄かに頬を染め、ネスを見上げる瞳には打算も疑念もない。初対面の男にあっさりと身を預けてしまうその無垢さに恐怖すら覚え、思わず笑ってしまうほどだった。


 彼女を救ったのは偶然に過ぎない。しかしそれもまた運命に違いないとネスは思った。


 ――あの場に留まる選択をした自分に対する、女神が与えた気まぐれなる褒美なのだと。

 

 

 *


 

「レイチェル。……後悔してないか?」


 旅の途中、水辺で祈りを捧げるレイチェルに問いかける。彼女は言葉の意味が分からないとでも言いたげに、困ったように首を傾けた。


 王室と神殿の手から逃げるように王都を飛び出し、彼女とふたりで貧しい村々を巡る日々。

 各地で力を振るい続ければいずれ王室の耳にも届くだろう。だが今の王都では、第五王子が暗殺されたという話で持ちきりなのだという。


 ――実は第五王子は加護を持っていたらしい。だから第一王子派に消されたのだろう。

 

 ――王族の責務も果たさず放蕩三昧だったそうだ。密かに処理されたに決まっている。

 

 ――奇跡の娘を巡る、王子同士の毒殺劇だったんじゃないかしら?


 尾ひれのついた憶測は、やがて真実のような顔で語られる。水質汚染の混乱も相まって、王都は「消された王子」を巡る陰謀論に踊らされているらしかった。


 王子に仕立て上げられた元貧民街の子どもは、随分と周囲に疎まれていたようだ。他の兄弟と異なる己に焦りを覚え、居場所を守る術も知らぬまま、少しずつ自らの価値を削っていったのかもしれない。


 ――なんとも哀れな末路だ。


 レイチェルのことも、シンディのように司祭へ引き合わせることは出来ただろう。そうすれば、それなりの庇護と名誉は与えられたはずだ。


 だが……あの力はいずれ高貴な者の手に渡る。

 利用されるか、祭り上げられるか。

 あるいは、何人いるかも分からぬ王子のひとりに、当然のように差し出されるか。


 その光景を思い浮かべると、胸の奥が確かに軋んだ。

 この世界にはもう何も求めていなかったはずなのに。

 名も顔も知らぬ兄弟の手に彼女が渡るかもしれないと思うと、どうしても彼女の保護を求める気にはなれなかった。


 だからこそ、こんな酔狂な二人旅を続けることになったのだが――

 ネスの問いかけに、レイチェルはふるふると首を振った。

 

「後悔だなんて。……皆さんが喜んでくださるから……私、とても嬉しいんです」


 心から嬉しそうにはにかむ彼女を見ていると、仄暗い感情に呑み込まれそうになる。

 だが、それを堰き止めるのもまた彼女の存在だった。

 あまりにも純粋で、あまりにも無防備なレイチェル。彼女の隣に立ち続けるためには、自分もまた清廉でいなければならなった。


 ――シンディの傍にいると、息がしやすかった。

 ただそれだけだった。


 けれどレイチェルの隣に立つと、喉の奥をひりつかせていた渇きそのものが静まっていく。

 ひび割れていた大地へ、ようやく水が浸み渡るように。


「ネスさんこそ、良かったのでしょうか。その……私なんかに付き合わせて……」

「いいんだよ。……俺が必要なんだろう?」

「それは……はい。もちろんです。私ひとりでは、国を出るなんて思いつきもしませんでした」


 そうだ。俺を捨てた国を、彼女を囲おうとした家族を、俺たちは捨ててやったのだ。

 俺たちの価値を見誤った連中を、こちらから切り離してやったのだ。


 彼女の価値が損なわれぬよう、自身の力は常に調整している。すべてを浄化しきってしまえば、彼女は奇跡を起こす存在ではなくなってしまうからだ。

 必要とされる奇跡は常に少し足りない場所にこそ宿る。……そう考えれば、レイチェルにとっても自分の存在は不可欠なのだ。


 これまでにないほどの高揚が、胸の奥から広がっていく。

 込み上げる嗤いを奥歯で噛み殺しながら、ネスはレイチェルへと柔らかく微笑みかけた。


 

 ――無知で、愚かで。


 それでも愛おしい、俺だけのレイチェル。

 


 ネスはその日、初めてこの世界と女神の存在に心から感謝した。


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― 新着の感想 ―
お疲れ様でした。 とても面白かったです。 前後編とネスを混ぜて読むと少し仄暗い感じがまたいい味出してましたね。 正直もう少し先まで読んて見たいですね。 個人的にはネスと言うキャラがとても良く、魅力的で…
シンディがただただ不憫
この国と宗教も滅ぶがいい
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