記憶を鮮明にする魔術
幸せな日常は、気づけば三年が過ぎていた。
俺は、宣言通り――
彼女を大切にした。
何よりも優先して、守ると決めて、生きてきた。
その日々の中でも、
魔術陣の研究が途絶えることはなかった。
夜が更けても、朝が来ても。
試行錯誤を重ね、理論を書き直し、失敗を積み上げては修正する。
少しずつ、だが確実に――前へ進んでいる実感があった。
「……できた」
思わず、声が落ちる。
幾度もの改良を経て辿り着いた、
記憶を鮮明にする魔術陣。
理論上は、完成している。
だが――
これが、どの程度作用するのか。
どこまでを呼び起こし、どこまでを壊すのか。
それは、誰にも分からない。
被検体は……俺自身だ。
正直に言えば、怖い。
思い出したくもない記憶まで、
容赦なく、鮮明に蘇る可能性がある。
覚悟が、いる。
そうだ。
これは、覚悟の魔術だ。
「……完成したんだね」
背後から、柔らかな声。
紅茶を置きながら、
彼女はいつもの笑顔で、完成した魔術陣を見ていた。
「……ああ。これで、記憶が鮮明になれば……
あの魔術陣が、見えるはずだ」
本来、俺が生きていた時代。
古代遺跡ダンジョンの祭壇で踏み抜いた、
幾重にも重なって展開されていた魔術陣。
あれが分かれば――
未来へ、帰れる。
彼女を見ると、
完成した魔術陣を見上げて、迷いなく頷いている。
「凄いね。頑張ったね。おめでとう」
称賛の言葉。
疑いも、不安も、そこにはない。
……分かっているのだろうか。
研究が進めば、
いずれ――
いや。
研究を、やめるわけにはいかない。
彼女が、俺から離れないようにするためにも。
覚悟を、決めた。
「万が一、失敗した場合……
俺が、俺じゃなくなる可能性がある」
言葉を選ばずに、告げる。
脳が溶ける。
記憶が壊れる。
人格が崩れる。
どれも、笑えない。
「……えっ!? それはダメでしょ!」
即座に返ってくる反応。
「……成功したら、トワとの初夜も
鮮明に思い出せるぞ?」
わざと、軽い調子で言った。
冗談みたいに聞こえるように。
でも、視線だけは――
彼女から、逸らさなかった。
笑わせたいわけじゃない。
誤魔化したいわけでもない。
ただ、
それくらい大切なんだと、
言葉にしないまま伝えたかった。
「バッカだー!!!
変態がいる!!!」
勢いよく返ってきた言葉に、
思わず、息が抜ける。
……よかった。
ちゃんと、いつものトワだ。
俺の前で、笑ってくれている。
その笑顔を見て、
胸の奥で、静かに何かが固まった。
「よし!やるか…」
声は、低く落ちた。
ここからは、遊びじゃない。
覚悟を決める時間だ。
床に、魔術陣を展開する。
幾重にも重なり、淡く煌めく光の粒子が、
静かに空間を満たしていく。
俺は、もう一度だけ、
トワを見た。
それから、
一切の迷いを断ち切るように、
研究者としての思考に、完全に切り替え
魔術陣へと意識を沈めた。
鈴の音のような、澄んだ音が、
直接、脳内に響いた。
「……っ」
視界が、歪む。
ぐっ――
床へ膝をつく。
次々と、映像が流れ込んでくる。
両親の顔。
弟と妹。
友人。
学園。
ギルド。
先輩たち。
――古代遺跡ダンジョン。
大広間。
あった。
この記憶だ。
「……紙と……ペンを……たのむ……」
言葉が、途切れ途切れになる。
トワが慌てて、道具を差し出してくる。
記憶の中に浮かび上がる、
幾重にも重なった魔術陣。
線の重なり。
角度。
魔素の流れ。
大広間の構造。
空間の歪み。
可能性のあるものすべてを、
無我夢中で書き起こす。
何枚も。
何枚も。
汗が落ちる。
手が、震える。
それでも、止めない。
最後まで描き切り、
展開していた魔術陣を、解除する。
「……はぁ……はぁ……はぁ……」
視界が、揺れた。
次の瞬間――
慌てたトワの腕に、抱き留められる。
「クオン!」
呼ばれた声を、
遠くで聞きながら。
俺は、意識を手放した。




