幸せな朝
朝の光は、思っていたよりも静かだった。
眩しさより先に、あたたかさが来る。
薄いカーテンの隙間から差し込む光が、埃を含んだ空気をゆっくりと撫で、部屋全体を起こしていく。
夜の名残を含んだシーツの温度が、まだ身体に絡みついていた。
……生きてる。
最初に浮かんだのは、それだった。
喉の奥で、かすかに息を吸う。
肺がちゃんと広がる感覚が、やけに現実的だ。
次に、隣。
規則正しい呼吸の音。
近すぎる距離で、穏やかに上下する胸。
そのリズムが、耳ではなく肌で伝わってくる。
(……夢じゃない)
そう理解した瞬間、胸の奥がじわりと熱を持った。
昨夜の出来事が、曖昧な輪郭ではなく、重さを伴って思い出される。
触れた感触。
近すぎた距離。
逃げ場のなかった視線。
照れ。
気まずさ。
それから――どうしようもない安心。
布団の中で、そっと身じろぎする。
シーツが擦れる、わずかな音。
すぐ隣で、彼女が小さく動いた。
「……ん」
喉の奥で転がる、眠りの名残みたいな声。
(……やばい)
一気に緊張が戻る。
心臓が、今さら仕事を始めたみたいに騒ぎ出す。
――起きるな。
――いや、起きてもいい。
――でも、起きたら……どうする。
思考が同じ場所をぐるぐる回り始めた、その時。
「……おはよう」
掠れた、小さな声。
まだ眠りに引っ張られている、やわらかい響き。
「……お、おはよう」
返事が、一拍遅れた。
自分でも分かるくらい、ぎこちない。
彼女はゆっくりと目を開け、こちらを見る。
一瞬だけ、状況を確かめるような間があって――
それから、ふにゃりと笑った。
「……朝だね」
「……朝だな」
それだけの会話。
なのに、空気が変に張りつめている。
けれど彼女の表情は、いつもより柔らかくて、
どこか、すっかり安心しきった顔だった。
その無防備さに、胸の奥がきゅっと締まる。
軽く、口付けを落とす。
昨夜の距離感が、まだ消えていない。
近いのに、触れていない。
触れていないのに、もう遠くない。
「……よく、眠れた?」
何気ない問いのはずだった。
それでも、声が少し低くなったのが分かる。
「うん。すごく」
迷いのない即答。
その一言で、胸に溜まっていた緊張が、少しだけほどけた。
「……そっか」
言葉が、そこで途切れる。
沈黙。
でも、重くない。
布団の中を満たすのは、静かな時間と、朝の光。
外から聞こえる遠い街の音が、日常を思い出させる。
彼女が、くるりと体勢を変えて、こちらを向いた。
距離が、またほんの少し縮まる。
「……ね」
「ん?」
「……昨日のこと、覚えてる?」
――直球。
一瞬、思考が止まる。
「……お、覚えてる」
嘘じゃない。
ただ、どこまでを指しているのか分からなくて、
正解を探してしまっただけだ。
彼女は視線を少し泳がせてから、くすっと笑う。
「よかった」
それだけ。
責めるでも、からかうでもない。
ただ、確かめるみたいな声音。
「……俺も、気持ち良かった」
思わず、零れた本音。
彼女は一瞬きょとんとしてから、頬を緩めた。
「……クオン、凄かった」
その言い方が、ずるい。
「……もう一回、する?」
自分でも分かる。
身体は、もう正直すぎるくらい正直だ。
彼女はそんな俺を見て、くすっと笑う。
「ちょっと……聞く前に始めてるでしょ」
そう言いながら、布団の中で縋りついてくる。
触れ合う熱が、朝の光の中で溶けていく。
――静かに、確かに。
それから。
息を整えながら、彼女がぽつりと言った。
「……今日は、どうする?」
「え?」
「朝ごはん。パンあるし、スープも作れるよ?」
……日常。
その言葉が、胸にすとんと落ちる。
「……一緒に?」
「当たり前でしょ」
何でもないみたいに言われて、
それが、何より嬉しかった。
「……じゃあ、俺は湯を沸かす」
「お願い」
また、笑う。
昨夜とは違う笑顔。
でも、ちゃんと繋がっている。
布団を出ると、少しだけ名残惜しい。
振り返ると、彼女は布団の中からこちらを見ていた。
「……なに?」
「いや……」
言葉を探して、結局、正直に。
「……幸せだな、って」
一瞬、驚いた顔。
それから、いつもの笑顔。
「うん。私も」
それで、十分だった。
朝の光は、もう部屋を満たしている。
新しい一日が、始まってしまう。
でも――
不安よりも、安心の方が大きい朝。
確かに、幸せな朝だった。




