消えた彼女は手のひらサイズになっていた
十一月――
外には冬の風が吹き、木々を揺らしている。
教室の中は相変わらず騒がしいけれど、ひとつだけポツンと静まり返る場所があった。
俺は隣の空になった席をぼんやり見つめる。
――今日も、来ない。
扇田咲。
俺がずっと片想いしている同級生。大人しくていつも窓際で本を読んでいた。
扇田さんとの出会いは一年前、高一の時だった。美化委員で掃除をしている時に、俺たちの目の届かないところまで綺麗にしているのを見て、彼女のことが気になった。
高二でも同じクラスになって、修学旅行で一緒の班になった。少しずつ話すうちに、彼女の真面目で落ち着いたところに惹かれるようになる。
そんな彼女の行方がわからなくなったのは、三週間前のことだった。
「扇田さんはしばらく学校を休みます」
担任からのその言葉だけが、妙に遠く聞こえた。
体調も普通だったし、特に辛そうには見えなかったのに……どうしてだろう。
それ以来、俺は毎日、気づくと扇田さんの姿を探してしまっていた。
※※※
ある日の夕方。
部活を終えて帰ろうとしたときだった。
「……たすけて……」
どこかから声がする。
小さいけれど聞き覚えのあるその声。
靴箱のあたりだろうか。
――いや、誰もいない。
聞き間違いかと思った。
でも、もう一度。
「……ねえ……」
ゆっくり視線を落とすと、そこに――
手のひらに乗るサイズの、扇田さんがいた。
白いワンピースのまま、肩を抱え、小さく震えている。
「え……扇田……さん?」
息をのんだ。
ゆっくりとしゃがんで彼女を見つめる。
すると扇田さんは弱々しく微笑んだ。
「ごめんね……こんな姿で」
「どうして、こんな……」
問いかける俺に、彼女はぽつりと呟いた。
「現実が、ちょっと辛いなって思ったら……気づいたら小さくなってたの。誰にも見つからないし、怒られないし……静かで、落ち着くの」
一体どういうことだ。
こんなファンタジーみたいなこと、あるのか?
「だから……ここにいたの」
胸の奥が締めつけられる。
まさかずっと一人で、ここに……?
もうすぐ十二月なので、寒さも厳しくなってきた。
こんなところにいたら凍えてしまう。
「……うち、来る?」
気づいたら、そう口にしていた。
扇田さんは驚いた顔で俺を見つめ、それから小さく頷いた。
大切にすくうように彼女を両手に乗せて、俺のカバンのポケットに入れる。彼女は小さな肩までそっと覗かせて、落ち着かない様子で周りを見ていた。
そのまま俺は、周りを確認しながら家に帰った。
※※※
俺の部屋の片隅。
古い本棚の上に、扇田さんのための“小さな家”を作った。
小さなチョコの箱でベッドを作り、ティッシュで布団を作り、大きめのクッキーの箱で部屋を作り、窓を描いた。
「わぁ……」
彼女はその中に座り、嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。ここ、すごい落ち着く……」
その姿を見て、俺もほっとする。
誰にも気づかれない場所で震えていたのかと思うと、守りたくてたまらなかった。
「寒くない?」
「うん。大丈夫」
「良かった」
「ありがとう。澄川くん」
そう言われて、胸の中に灯がともった。
扇田さんは、少しずつ話してくれた。
「……本当はね、学校が怖かったの。クラスのこととか、人の視線とか……私って地味だからさ。喋ってても面白くないんだって」
「え……」
そんなことないのに。
扇田さんはただ……真面目で素直なだけなのに。
「だけどね、小さくなると全部遠くなるの。音も、ざわざわも」
俺は聞いているしかできなかった。
自分が知らなかっただけで、本当の扇田さんはずっと悩んでいたのかもしれない。
「……俺も、そっちに行けたらいいのにな」
冗談のつもりで言った。
でも……。
最近、将来のことを親に言われて……悩んでるんだよな。
もうすぐ高三なので、進路を決めなければならない。
俺は自分が何になりたいのか、何をしたいのかが……わかっていない。
勉強はそこそこやってきたから、どこかの大学には入るんだろうけど。
塾のカリキュラムも増えて、モチベーションが上がらなくて精神的に辛いんだよな。
いっそのこと、逃げ出したい。
ほんの少しだけでいいから。
「澄川くん……」
そう言いながら、箱のベッドの上に座る扇田さん。
小さくても彼女の表情が揺れているのが、わかった。
※※※
ある朝、目を覚ますと――俺の視界が、やたらと高くて広かった。
「……え?」
起き上がると、布団の繊維一本一本がやけに大きく見える。
この大きな水色は、枕の色。
ということは――
自分の身体が、手のひらサイズになっていた。
「……なんで俺まで……」
呆然としていると、棚の方から音がする。
そこから扇田さんが走ってきてくれた。
「澄川くん、来てくれたんだね」
泣きそうな笑顔だった。
小さな手が、そっと俺の手を握った。
「うん、よくわからないけど……君に会えて嬉しい」
「え……」
ここには俺と彼女しかいない。
今だけは、自分の好きなように生きたかった。
「……咲って呼んでいい?」
彼女は小さな顔を真っ赤にして頷く。
「わ、わたしも……湊くんって呼ぶね」
咲に手を引かれ、小さな家にふたり並んで座った。
「湊くん、世界って広いね……」
「うん。けれど、ここだけはあったかい」
こうして俺たちは、毎日小さな世界で過ごした。
デスクの上でかくれんぼをしていると、本当にどこに隠れたのかがわからなくなって、二人で笑い合った。
マグカップは巨大な建物みたいに見えて、窓の外の風は嵐みたいに聞こえた。
だけどここには、誰も俺たちを傷つけるものはいなかった。
※※※
それから数日経った。
少しずつ――小さなクラスメイトたちが集まり始めた。
なぜか皆、俺の水色の枕の上で目が覚める。
「僕も……疲れちゃって……」
「こっちの方が楽で……」
「少しだけ……休みたいの……」
親の期待で押しつぶされそうな人、SNSで疲れ果てた人、恋で傷ついた人……皆がそれぞれの事情を抱えている。
最初は驚いたが、不思議と自然に受け入れられた。
みんな息をするように、ここへやって来る。
俺たちが作った小さな秘密基地は、少しずつ広がってゆく。
笑い声が絶えなくて、気づけば咲も笑顔になっていた。
「湊くん、私……楽しい」
「俺もだよ」
「こんな毎日が続くといいな」
「そうだね」
そんなある日のことだった。
気づけば、笑い声が徐々に少なくなってきていた。
――人が減ってる?
みんな、ここに来る前より少しだけ軽い顔をして消えていくような気がした。
「湊くん」
「どうした? 咲」
「ここで……“生きやすい自分”を見つけた人から、元の世界に戻ってるみたいなの」
「え……?」
確かにそうだ。
「僕、もう一度親と話してみるよ」と言ってた人は、もうここにはいない。
「SNSがなくても大丈夫だってわかったの」と言ってた子の声だって聞こえない。
「新しいこと始めようかな」と言いながら、いなくなった人もいた。
みんな、現実から逃げたんじゃなかった。
休んで、少しだけ変わって、戻るんだ。
「私は……まだ不安だよ」
「咲……」
俺は何もすることができなかった。
だけど咲のそばにはいたい気持ちは、変わらなかった。
※※※
やがて、再び俺たちだけになった。
咲の小さな家に座りながら、静かに時が流れていく。
「……寂しいね」
「そうだな」
最初に二人っきりになった時は嬉しかったのに、今では自分たち以外に誰もいないのが妙に寂しく感じる。
そして冬本番なのか、部屋が徐々に冷えていくのが余計に俺たちを不安にさせた。
咲が震える声を出す。
「……戻りたいな」
俺は優しく彼女の手を握る。
「……一緒に戻ろう」
「え……?」
「僕は咲の全部が好きだよ。小さくても、大きくても、どっちでもいい」
彼女は小粒の涙を溢れさせる。
「本当……? 私で……いいの?」
「君がいいんだよ、咲」
「湊くん……ありがとう」
彼女は俺の肩にちょこんと頭を乗せていた。
寒さがましになり、心まであたたかくなってきた。
※※※
翌朝、俺が目を覚ますと――
見覚えのある部屋の中。
「元に……戻った?」
ベッドから起き上がって、棚にある小さな家を覗くと彼女はいなかった。
その代わりに微かに声が聞こえた。
『ありがとう』
この声は――きっと幻なんかじゃない。
そう思いながら学校の支度をした。
いつも以上に寒い中、急ぎ足で登校する。
教室に入るとみんなが迎えてくれた。
そして俺の隣の席には――
咲がいた。
彼女は少しだけ表情が柔らかくなっていた。
目が合うと、小さく笑う。
「ねぇ……もしかしたら……休めたからかな」
「うん、たぶんそうだよ」
「私、“現実に戻ってもいい”って、自分で思えたから」
咲は、小さく息を吐いた。
「……湊くんと話してるうちにね。“私一人だけじゃなかったんだ”って思えて……」
俺は胸の奥が熱くなり、名前を呼んだ。
「咲」
「ん?」
「戻ってきても……また困ったら言って。小さくなる前に、俺が聞くから」
彼女の目に、ゆっくりと涙が浮かんだ。
「……うん」
その涙は、前よりもずっとあたたかかった。
世界は相変わらず大きくて、たまに眩しい。
でも、俺たちは知っている。
小さな世界で休んでもいい。
そして、戻りたいと思えたら――ゆっくり戻ればいいんだ。
俺は照れながら言う。
「今度は……現実のサイズでも、ちゃんと隣で」
終わり




