影を追え
夜風が頬を撫でる音が、不気味な静けさを連れてきた。
執務室で書類を片付けていた俺のもとに、リュシアが足音も立てず現れる。
「――報告があります」
彼女の声には、普段以上に冷たい色が混ざっていた。
「暗殺者どもか」
「はい。再び動き出しました。痕跡はごく僅かですが、複数の暗殺が王都で発生。生き残った証言では、連中は“影喰い”を名乗っていたそうです」
影喰い。
聞いた瞬間、背筋を冷たい刃で撫でられたような感覚が走る。
「……影すら喰らう、か。物騒な名前だ」
「そして――」
リュシアは俺をまっすぐ見た。
「狙いは、おそらくアルノ様」
「なるほどな」
面倒だが、驚きはない。この辺境を守る俺を殺せば、国境は崩壊する。敵にとっては最高の一手だ。
「対応策を」
「諜報に長けた戦力が必要です」
俺は頷く。戦力ならメイド隊で十分だが、情報戦は別。
「……用意があると?」
「はい。紹介します」
案内されたのは城の奥まった一室だった。
開け放たれた窓から夜風が入り込み、白いカーテンを揺らしている。
その窓辺に、女が腰掛けていた。
深い紫の瞳に艶やかな黒髪。脚を組み、酒瓶を片手に退屈そうに揺らしている姿は、メイドというより夜の女王といった趣だ。
「来たわね、アルノ様」
低く響く声は、耳に心地よい艶を帯びている。
「……誰だ」
「ベルティナ。今はリュシアの部下。でも昔は――影に生きてた」
彼女は唇の端をわずかに上げる。
「元暗殺者、か」
「ええ。影喰いとやり合えるのは、私しかいないわ」
挑発的な眼差しに、剣呑な気配が混ざっている。
「ただし条件があるの」
「条件?」
「――私をもっと側に置いて。だって……」
頬杖をつき、紫の瞳が甘く細められる。
「貴方に仕えたいの。心も、体も、全部」
「……」
リュシアが無表情のまま咳払いした。
「ベルティナ、任務中だ」
「あら、冗談よ」
本気か冗談か分からない笑みを浮かべながら、ベルティナは小刀を弄ぶ。
「情報は?」
「影喰いの残党が、廃鉱山跡に拠点を築いたわ。十数人規模。幹部クラスが一人いる」
「人数が多いな」
「正面突破は自殺行為よ。潜入で首を狩る。私と貴方ならできる」
即答した俺に、ベルティナの笑みが深まった。
「やっぱり……そういうところ、好き」
深夜、月明かりの下。
俺とベルティナは森を駆けていた。
彼女の動きはしなやかで、木々の影と同化するように消える。
「やっぱり凄いわね、アルノ様。気配がまったく揺れない」
「お前もな。まるで風だ」
「そんな褒め方したら、惚れ直すじゃない」
「元から惚れてるだろ」
「ふふ、バレてた?」
軽口を交わしながら進むと、岩山の麓に黒い穴が口を開けていた。
「ここね」
「気配は?」
「十三。……奥に一人、強いのがいる」
「幹部クラスか」
「ええ。どうする?」
「――首を落とす」
ベルティナの唇が艶やかにほころぶ。
「そう来なくちゃ」
俺たちは闇に溶け、鉱山の奥へと足を踏み入れた。
湿った空気。血の匂いに似た金属臭。
奥で焚き火の赤が揺れ、笑い声がこだまする。
瞬間、鋭い殺気が走った。
「来る!」
暗闇から閃いた刃を、俺は反射で弾く。火花が散り、影が二つ、壁を蹴って飛び退く。
「外の見張りか」
「任せて」
ベルティナの双剣が光り、一閃。首が音もなく転がった。
「……美しいな」
「血の匂いは嫌いじゃないけど、アルノ様に褒められる方が好き」
不敵に笑うと、彼女は再び影に紛れた。
奥の広間に出た瞬間、空気が張り詰める。
焚き火の光に浮かび上がったのは、黒装束の暗殺者たち。そして中央の岩に座る仮面の男が、ゆっくりと立ち上がる。
「ようこそ、辺境伯」
仮面の奥から低い声が響く。
「ヴァレン……」
「ほう、名を覚えていたか。嬉しいな」
奴の声は愉悦に満ちていた。
「影喰いは死なない。影がある限り、何度でも蘇る」
「戯言だ」
「そう思うなら――殺してみろ!」
号令と同時に、暗殺者たちが一斉に飛びかかってきた。
刃が闇を裂き、殺気が肌を焼く。
俺は剣を振るい、迫る影を斬り伏せる。
一人、二人――骨が砕け、血が飛ぶ。
ベルティナの双剣は舞うように閃き、喉を切り裂く。
「坊ちゃま、後ろです!」
聞き慣れた声。
振り返れば、入り口に立つメイド隊。
ミリアの槍が黒装束を貫き、セレナの魔導銃が火を吐く。
「勝手についてきたか」
「坊ちゃまを危険に晒せませんから!」
ノエルが華麗に巴投げを決め、敵の首を地面に叩きつけた。
混戦の中、ヴァレンは笑いながら後退する。
「今日は試しだ。――本番は、これからだ」
「逃がすか!」
俺が踏み込むより早く、爆炎が視界を覆った。
煙が晴れたとき、奴の姿は消えていた。
血と鉄の匂いが充満する鉱山に、沈黙が落ちる。
ベルティナが紫の瞳を細め、呟いた。
「やっぱり……あの男、ただの暗殺者じゃないわ」
「背後に、もっと厄介なのがいる」
そのとき、奥の岩壁に刻まれた紋様が目に入った。
炎を象ったそれは、東方の大国――炎蓮国の紋に酷似していた。
嫌な予感が胸を締め付ける。
「……戦場は、まだ影の中だ」
俺は低く呟き、剣を鞘に収めた。
嵐の幕開けを告げる風が、冷たく吹き抜けていった。




