新たな誓い、辺境伯の座にて
朝の陽光が石造りの廊下を照らしていた。
昨夜の宴の喧噪が嘘のように、城は静まり返っている。
……いや、台所だけは戦場だ。
「坊ちゃま、朝餉の用意が整っております」
メイド長リュシアが恭しく頭を下げる。
「おお、もうそんな時間か」
部屋に入ると、長卓の上に東方と西方の料理がずらりと並んでいた。
白い蒸し饅頭に、香ばしく焼かれた肉串、そして俺の特製スープまである。
昨夜同様、飯テロレベルの光景だ。
「ほう……これが東方の“点心”というやつか」
俺が一口かじると、もちもちとした皮から肉汁が溢れた。
「うん、悪くないな」
「……坊ちゃま、あーんしますか?」
リュシアが箸を差し出してくる。
「いや、俺自分で食えるから」
「遠慮なさらず」
「だから近いって!」
すでに左右から別のメイド二人も迫ってきている。
「坊ちゃま、こちらの甘味を」
「お口に合うかどうか、私が直に……」
「だから押し合うな! テーブル倒れる!」
――なぜ毎回、朝食が戦場になるんだ。
「お、おはようございます……」
扉から控えめな声がした。
振り向けば、エリシア姫が立っていた。
薄い朝衣に淡い金糸の刺繍。普段の気品に、どこか柔らかさが加わっている。
「姫様、お席を」
「ありがとうございます」
彼女が隣に座ると、メイド隊の視線が一斉に突き刺さる。
……こえぇ。
「アルノ様、昨夜は……お守りいただき、感謝します」
「礼ならメイドたちに言ってくれ。あいつらがいなきゃ、もう少し面倒だった」
「ですが、あの方――暗殺者の頭目を退けたのは、貴方です」
蒼い瞳が真っ直ぐに俺を見る。
「……心強かった」
その言葉に、なぜか心臓がわずかに跳ねた。
「姫様、膝枕でもして差し上げますか?」
リュシアがさらっと爆弾を落とす。
「な、なにをっ……!」
姫の顔が真っ赤になった。俺も思わずむせる。
「冗談ですわ、ふふっ」
冗談に聞こえないからやめろ、ほんと。
食事を終えた頃、リュシアが低く告げた。
「坊ちゃま……いえ、アルノ様。大広間にてお父上がお待ちです」
その声色に、普段とは違う緊張が混ざっていた。
広間には、父ジークフリートが立っていた。
昨夜と同じ、獣のような眼光。だが、その佇まいには不思議な静けさがあった。
周囲には臣下たち、そして東方のリュウレンとカイの姿もある。
「来たか、アルノ」
「ああ、父上」
「単刀直入に言う。今日をもって、俺は辺境伯を退く」
――やはり、その時が来たか。
分かっていたはずなのに、胸の奥がざわめく。
「この戦乱の時期に、退くつもりか」
「世代を譲るのは、嵐の中でこそだ。……違うか?」
父の声音は低く、しかし揺るがなかった。
侍従が銀盆を捧げる。その上には、重厚な指輪が載っていた。
辺境伯の証。
ジークフリートがそれを手に取り、俺の前に差し出す。
「アルノ。これでお前は正式に、この領を背負う者となる」
俺は無言で跪き、指輪を受け取った。
冷たい金属が掌に重い。
「……任せるぞ」
父の声が、驚くほど穏やかに響いた。
その瞬間、胸の奥に炎が灯る。
(俺が、この地を守る。父が築いたものを、もっと強くするために)
「アルノ=フォン=ヴァルグリッド」
重々しい声が広間に響く。
「今この刻をもって、辺境伯の位を授ける!」
臣下たちの声が重なり、剣が掲げられる。
エリシア姫が静かに涙を拭ったのが、視界の端に映った。
――俺は、もう“坊ちゃま”じゃない。
この地を護る“辺境伯”だ。
式が終わり、臣下たちが散った後。
父が小さく笑った。
「これで名実ともにお前の時代だ。だが、困ったら呼べ」
「……引退するんじゃなかったのか」
「引退だ。だが、剣はまだ錆びちゃいない」
その目は、嵐の夜でも光を失わぬ狼のようだった。
東方の使節団も一礼して去っていく。
リュウレンは立ち止まり、意味深に言葉を残した。
「辺境伯よ、盟約は結ばれた。……だが、試練はこれからだ」
「試練なら、まとめて迎え撃つさ」
俺の答えに、彼は笑みを深めた。
静かな広間に一人残り、指輪を見つめる。
(――必ず、守る。この地も、人も、そして……)
胸の奥で、何かが固く結ばれた。
一方その頃。
王都から遠く離れた暗き館で、仮面の男が跪いていた。
「……申し訳ありません。任務は失敗しました」
低い声で報告するヴァレンの前に、影が揺れる。
「想定外だったか」
「はい。奴は……辺境伯アルノは、怪物です」
闇の奥から笑い声が漏れた。
「面白い。ならば次は――炎蓮国との盟約ごと、潰してやれ」
「御意」
影が蠢き、夜がさらに深くなる。
嵐の前触れは、もう誰にも止められない。




