天井裏に堕ちる
こんな話を書くつもりじゃなかった。
だけど、誰かの怨みが、誰かの絶望が、どこにも行き場がなくて、天井裏に溜まっていく気がした。
見なければよかった。知らなければよかった。
けれど、知ってしまったなら、あなたはどうする?
これは、誰かの孤独と、誰にも見つからなかった悲鳴の物語。
1.
いつも須田が午前八時から午後六時半まで家を留守にすることを、神谷は調査済みであった。一週間ほど前から彼は須田につけて、行動を洗いざらい調べていたのだ。
神谷というのは須田が二年前にクビにした社員であった。金のつてが無くなった神谷は、金遣いの荒い妻と揉めて一年と半年前に離婚した。唯一彼の心を支えていた娘の親権は、妻に奪われることとなった。
彼はもう四十歳を超えていた。再就職先を探せど、労働力になりようがない白髪交じりの彼を雇うところなど、あるはずもなかった。
少ない貯金を切り崩し、憎き元妻に養育費を送る日々が続いた。それは砂時計のようであった。あと一粒で、金は尽きた。
だから神谷は須田を恨んだ。しかし須田も嫌がらせでクビにしたわけではない。というのも彼の経営する老人福祉施設、いわゆる老人ホームでコロナのクラスターが発生し、七人が息を引き取った。この噂が広がり、さらには根も葉もない噂も積み重なり、新たに入居する者がいなくなってしまった。元々地域密着型の小さな施設であったから、七人という収入源と、腫れ上がった噂は須田の首を絞めた。結局残りの入居者を最後に、ここを閉めることとなった。
だから神谷はクビになったのだ。この仕方のない理由は従業員であった彼が知らないはずもなかった。しかしそれでも彼は須田を恨んだ。クラスターも須田が設備をケチったせいだと決めつけていた。
貯金を切り崩すたび、須田の顔が脳裏に浮かんだ。そのたびに自分の頭蓋骨を剥がしたくなる欲求を抑えた。いつしか恨みは殺意に変わった。彼は近所のスーパーで包丁を買った。
午前八時となった。神谷は、須田が家を出るのを電柱の裏から覗いていた。壁の蔦と錆が目立つ平屋から古ぼけたスーツを纏い、ふらふらと出てきた。向かうその先に彼の経営する老人ホームがある。相当疲れている。吊るされ人形のよう。それでも彼に同情できるほど、神谷に余裕はなかった。
神谷は庭に入った。窓を見た。鍵は閉まっているようだった。窓を割ろうかとも思ったが、築五十年はとっくに過ぎたこの家の鍵は、強く引けば壊れた。そして窓は呆気なく開いた。
部屋の中は酷く寂し気があった。埃を被った蛍光灯。本来は白かったであろう壁紙。部屋の四隅には服が押し込まれて盛り上がっている。
予定として、彼は夜まで屋根裏に隠れて、寝ている須田を包丁で刺してやろうと考えていた。須田が身体を弱めているので、起きている須田と真正面から争っても勝てることを彼はわかっていたが、根底にこびりつく臆病という精神のせいでこの作戦に落ち着いた。
彼は畳の寝室をぐるぐると歩き回った。奴を殺すという妄想が現実に近づいている事実による、興奮と絶望を抑えきれていなかった。
彼は作戦実行を決意した。
まず寝室やらリビングやらを調べ、屋根裏に入り込む一番の場所を探した。そして辿り着いたのは、押し入れであった。押し入れには布団や雑貨がごった返していた。そんな中、天井がひしゃげていようと、誰が気にするというのだろう。また、ここは寝室である。ここで須田は寝るだろうから、例えば廊下を歩いてその軋む音でバレるなどというようなことはない。我ながら名案だと思った。
とりあえずこの天井板を力一杯突き上げてみた。彼の想定では勿論天井はびくともせず、持っている包丁か何かでこじ開けるはずだった。しかしそれは裏切られた。
天井板は打撃音とともに、天井裏へ跳び上がった。バレーボールのトスのようであった。
ああ、なんて古い家だろうか。そんなことを思った次の瞬間である。天井裏からどたんばたんと何かが暴れている音が響いた。彼は驚いて尻もちをついた。
音は数秒にして静まった。その後、過剰な無音と緊張感が部屋に張り巡らされた。
彼はしばらく動くことができなかった。先ほどまで震えていた四肢が、一定の緊張を超えて自我を失い、震えることさえ出来なくなった。彼は時間を失い、石像と化した。
彼は天井の穴を睨みつけていた。彼は野生本能を思い出していた。
しかし、いつしか緊張の糸がほどけ始めたのは、たぬきか何かが住み着いているだけではという、いかにも現実的な理由を思いついたからだ。彼は少し安心した。荒れた呼吸を戻した。にやけ顔に引きつりながら立ち上がり、棚に足をかけて天井裏に顔を出した。
思いの外、天井裏は明るかった。壁や床に細かな穴が空いていて、日の光を通していた。これならたぬきも住みやすそうだと思った。しかしたぬきの姿はなかった。彼は天井裏に這い入った。そこはしゃがめば立てるほどだった。
埃臭いのが唯一の欠点か。周りを見渡してみた。すると背後の奥、壁際に段ボールが天井まで盛り上がっているのを見つけた。それは何かを隠しているようで、何かの隠れ場所に見えた。彼は近寄った。
段ボールらは黒カビの温床となっている。いつから放置されているのだろう。須田のごみ置き場だったのか。とにかく彼はこの段ボールは今にも崩れそうなので、今のうちに崩してしまおうと思った。彼は一番手前の段ボールに触れた、その時である。
かたり
金属が床に落ちた音がした。一応腰に忍ばせていた包丁が落ちていないか確認する。一応というのは、明らかにこの段ボールの中から音が聞こえたからである。やはりたぬきがいるのか。肌と服の間を湿った空気が揺れる。
彼は思いっきり掴んだ段ボールを引っ張った。彼の心が弾ける。
存在があらわになったのは、たぬきではなかった。三角座りをしている、長髪がばさばさと荒れている、謎の男であった。
2.
神谷にまず襲ったのは、自分が須田の家に忍び込んだのをこの男にばれてしまったという焦りであった。しかし次に襲ったのは、いるはずのない男の存在に対する違和感、そして割れんばかりの恐怖であった。
彼は男と見つめ合いながら、頭の中を巡らせた。何を巡らしているのか、分からなくなるまで。
彼は腰から包丁を取り出した。そして男に突きつけた。お前は誰だ、と聞いた。声が震えないように気をつけていたが、手は少しばかり震えていた。
すると男は急に、立ち上がりながら神谷に対し体当たりを試みた。恐らく気が動転した結果だろうか。いや違う。男は自分の胸を包丁に曝け出した。皮膚が裂ける。神谷の腕に肉を潰す感覚が伝った。
男は胸から血を垂らしながら、段ボールの山に倒れた。山は崩れ、黒カビの雨が降った。そして神谷も膝から崩れた。崩れたのは絶望のせいではない。絶望がやって来るのは状況を脳が整理し終わる、これから5秒後のことである。彼の心持ちは、根底にこびりつく臆病が反重力を暴走させて、彼の重心を傾かせたからなどと表現すべきか。表現に困る。ただそれ以上に彼は困っている。こんなに人と向き合うことが怖かったものか。男がこちらに飛び込んできたとき、たしかに目の前が真っ暗になった。
神谷は何もかもを失ってから、人と喋ったことすらなかった。ボロ家に閉じこもっていただけであったから。
今さっき久しぶりにこの男と対面したとき、身体中の血液が揺れる感覚があった。視界が遠くなった。彼は、自分が人を怖がるようになっていたことに、今になって気がついたのだった。
今から人殺しをする人間が、こんな臆病であってはいけない。小学生でも分かることだ。彼は掌に浮かぶ汗の湿っぽさを感じていた。
ふと視界のピントがあう。あってしまう。彼の目に飛び込んでくるのは、胸に手を当てて赤く染めている男の姿である。今になってこの異常事態による絶望がやって来たのだ。脊椎が凍ってゆくような感覚に身を潜めようとする。
彼は感情を殺すことにすべてを費やした。扁桃体を押さえつけていた。この男が誰なのか、この問題を解決するために、夢中になることにした。足元に散乱するダンボールをどかした。一旦男の上に被せて、見えないようにした。
彼は、ダンボールをどかした時に足元に落ちたそれを拾い上げた。小さな円形の、指輪であった。小さなダイヤがくっついた、チープな指輪である。さっきの音はこれが落ちた音だったのだろう。
それから彼はダンボールをひっくり返しては、缶詰めやバナナなんかも見つけた。確実に男はここで生活をしていた。そして結論に至った。
恐らくこの男はホームレスで、須田の家に忍び込んだ。須田が家を留守にしている時に、屋根裏から出てきて食料やらを盗んで生きながらえていたのだ。この指輪も売って金にしようとしていたのだろう。さっき天井が簡単に外れたのは、男の出入り口だったからに違いない。
結論に至った、だから何だというのか。男はダンボールの裏で血を流し続けているし、彼はもう逃げることは出来なくなった。もし今逃げてしまえば、男の死体が見つかった時、警察は指紋やらを証拠に神谷を捕まえてしまうだろう。
彼はとりあえず天井裏から出てきた。この異質な空間は人を狂わす。また畳を歩き回った。さっきから7分と経っていない。彼は逃げ出したくなった。どうせ逮捕されようとそれでもいいから逃げたくなった。朝は須田を殺す気満々だったというのに、彼はそのことをとっくに忘れていた。
彼は玄関に走った。靴を履いた。ドアノブに手をかけた。ああ、外はもうすぐであった。
カカカ、ガチャリ
扉の向こうでは、須田が鍵を差し込んでいた。須田が帰ってきたのだ。
神谷は慌てて、足音など気にせずに寝室へと走った。忘れ物か、もしや彼の存在に気がついたのか。押し入れを開け、開いたまんまの天井から這い入った。彼は震えた手を重ねて口を塞いだ。初めて本気で死にたいなんて思った。耳を澄ました。一人じゃない。二人だ。
というのも最近、須田は買ったはずの食べ物が無くなっていることに不信感を持っていた。しかし自分が疲れでボケてしまっただけだと思っていた。ただどうやら違うらしい。指輪が無くなったのだ。指輪は妻と別れた時に価値を失ったから、売ってしまおうと思い、木箱に入れて机の上に置いておいた。しかし仕事から帰ってくると、その木箱は開けられていて、中身が無くなっていたのだ。そこで泥棒を初めて疑い、初めて警察に相談をした。今日家の状況を確認するために、様子を見に来てくれるということだった。
神谷は須田の話し声で相手が警察であることに気がついた。心臓の上の方で冷たいものが蠢いている。血管がばらりばらりとはち切れそうだ。四肢や五感や何もかもが鬱陶しい。
神谷は目を充血させ、腕を痙攣させながら。
喉に包丁を突き立てた。
3.
警察が様子を見に来てからだろうか。食料や指輪が無くなることはなくなった。返ってきてはないが、仕方ない。もう失うものはない。金があろうとどうでもいい。静かに生きられればそれだけでいい。
朝、須田はコーヒーを啜っていた。温かさが身体に染み渡る。唯一の救いであった。
突然蛍光灯が点滅を始めた。古いものだから仕方ないと思った。その時、彼は気づいた。蛍光灯のあたり、天井に薄く広く染みが広がっていることだった。この前テレビでやっていた。天井裏にたぬきが住み着いて、そいつの尿が天井に染みついてからそのことに気づいたという住人の話。
今度天井裏を覗いてやろう。たぬきがいたら脅かしてやろう。
コーヒーを飲み干したあと、布団をたたみ忘れていることに気がついた。寝室に行って、たたんだ。押し入れを開けた。無造作に押し込んだ。すると天井に穴があいていることに気がついた。やはりたぬきが住み着いていて、ここから出入りしているのだろうと考えた。
彼は天井裏を覗いた。
終
書き終えても、胸のどこかがざわついている。
これは罪の話であり、孤独の話であり、救いのなかった人たちの話だ。
誰かが悪い。でも、誰も悪くなかったのかもしれない。
それでも、何かが壊れてしまった事実だけは、もう元に戻らない。
そういう話だった。
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