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異世界恋愛系(短編)

結婚生活を終わらせることは、私から旦那さまへ差し上げることができる最初で最後の贈り物なのですもの

「愛しい旦那さま、離縁いたしましょう」


 いつもと変わらない穏やかな微笑みのまま、ヘザーは告げた。今日はふたりの結婚記念日だ。珍しく夕食の時間までに家に戻ってきた夫が「ただいま」を告げるよりも早く、彼女は別れの言葉を口にした。


「急に何を言っているんだい」

「まあ、旦那さま。ちっとも突然のことではございませんのよ。私、ずっと考えておりましたの。いつ離縁を申し出ればよいのかを。旦那さまも、お義父さまやお義母さまも、私の命の恩人ですもの。伝え方を間違って、私がこの生活に不満を持っていたなんて誤解をされてはいけませんからね」

「今の生活に不満がないのなら、どうして離婚をする必要があるんだ」

「だって結婚生活を終わらせることは、私から旦那さまへ差し上げることができる最初で最後の贈り物なのですもの。今まで本当にお世話になりました。妹分の私のことを気に病む必要などないのです。旦那さま、これからはどうぞ本当に愛する方と幸せになってくださいませ」


 淑女の礼をとると、そのままヘザーはグレッグの前を立ち去ろうとした。あまりのことに声も出せない呆然と固まっている夫を置き去りにしたままで。



 ***



 ヘザーはこの世に生を受けてから、親戚の家を転々と渡り歩いてきた訳あり令嬢である。


 もともと彼女の実家は、林業で有名なとある地方領主だ。質の良い木材が採れるだけではなく、その木材の加工技術も評判が高く、この地方で作られた家具は嫁入り道具として人気も高い。今代の国王陛下と王妃殿下の結婚の際には、王妃殿下のたっての希望でヘザーの実家の領地の家具が献上されたほどだ。


 領地は堅実に経営されており、それでいて家族仲も良い。ところが彼女はまだ幼いうちに母方の祖父母の家に預けられることになったのである。


 ヘザーの母方の祖父母の家は、ヘザーの実家の隣にある。ヘザーの両親は隣接する地方領主の子女同士だったのだ。森に囲まれたヘザーの実家とは一転して、母方の祖父母が治める領地は、王国の食糧庫の異名を持つ田園地帯。見渡す限りの黄金の麦畑は、まさに千金に値する。両親や兄弟姉妹から離れて暮らすヘザーは、この美しい小麦畑を走り回って大きくなった。


 麦踏みをするヘザーの姿は、「小麦畑の天使」という有名な絵画にもなったくらいだ。優しい祖父母のもとでヘザーは幸せに暮らしていた。しかしヘザーは、再び居を移すことになってしまったのである。もう二度と麦踏みもしてはならないと祖父母に言われたヘザーは、涙を堪えながらわずかばかりの荷物を持って、家を出たのであった。


 養蚕で財を成した伯父の家、染色で評判の大叔父の家、めん羊飼育で有名な従叔母の婚家など縁を辿っていくつもの家を渡り歩く。どの家の人々もヘザーを歓迎しなかったわけではない。それでも短ければ数ヶ月、長くても数年でヘザーは住む土地を変えなければならなかった。そして、もはやヘザーを預かることはどの親戚も難しいとなったところで手を挙げてくれたのが、今の夫であるグレッグの家だったのである。グレッグの母親は、ヘザーの母親の親友だった。


 グレッグの両親が治める領地は狭かったが、彼らの発言はヘザーの実家やその祖父母以上に重要視されていた。それというのも資源に乏しいこの土地では、独自の魔導具制作に力を入れて取り組んでおり、王宮魔導士ですらも真似できないという特殊な魔導具制作を可能にしていたのである。


 特に腕の良い、この地の特級魔導具師による魔導具は伝手がなければ、お金を積むだけでは手に入れることは難しいともっぱらの噂である。手に入れることができたなら、お披露目会が催される騒ぎになるほど相当なステータスとして認知されていた。そんな希少な特級魔導具師だったのが、ヘザーの夫グレッグであった。


 ヘザーは実家を離れてから、故郷に足を踏み入れたことがない。実家だけではない。今まで住んだことのある土地には、二度と足を踏み入れないようにヘザーは厳命されていた。そして、ヘザーは家族や親戚たちとも顔を合わせてはいない。魔導具越しの短い会話のやり取りだけが彼女たちを繋いでいた。


 自分にはどうしようもできない、理不尽な出来事が存在すると言うことを、ヘザーは小さい頃から身に染みて叩きこまれている。けれど理解はしていても、寂しいと言う気持ちが生まれるのを止めることは難しい。夜半、ひとり静かに涙をこぼす彼女のことを可愛がってくれたのがグレッグであった。


「ヘザー、僕と本当の家族にならないか? もう二度と君に寂しい思いはさせないから」


 そう言われたときの喜びを、ヘザーはきっと一生忘れないだろう。グレッグのためなら命だって差し出せる。そう思えるくらい、ヘザーは彼のことを愛していた。



 ***



「初夜は無理をする必要などない。君が僕を受け入れられるようになってからで十分だ。他人の戯言など放置しておけばいい。僕たちは僕たちなりのペースで歩んでいこうじゃないか」


 身内だけで行われた小さな結婚式当日の夜。慣れない状況で小刻みに震えるヘザーに無理強いすることもなく、グレッグは一晩中ただ優しく抱きしめてくれた。じんわりと身体に広がるグレッグの温もりはどこか懐かしい。


 この家に来たばかりの頃も、ヘザーが寂しさのあまり泣き出したときは、いつもグレッグがそばにいてくれた。だからヘザーは、ついグレッグの言葉を素直に受け止め甘えてしまったのである。世継ぎを産むことは貴族の女にとって最も大切な務めだとわかっていたはずなのに。


 グレッグの様子がおかしくなったのは、結婚してから半年ほど経った頃のことだった。小さな工房ならともかく、特級魔導師であり上位貴族の子息でもあるグレッグが所属する研究所では不当な残業などない。けれど、少しずつグレッグの帰宅は遅くなっている。その日もだいぶ夜が更けてから、グレッグは家に戻ってきた。


「おかえりなさい」

「ああ、ただいま。こんな遅くまで起きて待っている必要はないのだよ」

「ですが、旦那さまを迎えるのは妻の役目ですから。私がやりたくてやっているのです。どうぞお許しくださいませ」

「そうかい。それならば仕方がないね。無理をしてはいけないよ」


 困ったような顔で、グレッグがヘザーから距離をとる。その時彼女は、グレッグから甘い石鹸の匂いがすることに気が付いた。魔導具作りでは、さまざまな材料を削ることも多いため、大きな工房であれば浴室が設置されていることも多い。風呂に入ってきているならば、そのまま食事にしても問題ないだろう。そう考えて声をかけたヘザーは、グレッグの返答に目を丸くした。


「グレッグさま、お食事にいたしましょう。今日は、良い鴨が手に入りましたのよ」

「仕事から帰ってきたばかりだからね、汗をかいているから一度風呂に行ってくるよ」

「……そう、ですか。失礼いたしました」

「工房から帰ってきたばかりなのに食事を勧めるなんて、よほど今日の鴨は美味しいのだろうね。楽しみにしているよ。つまみ食いをせずに待っていてくれるかい?」

「グレッグさま、私、ひとりで勝手に食べ始めるほど子どもではありませんわ」

「もちろん、わかっているとも。可愛いヘザー」


 優しく微笑む旦那さまは優しくて、格好いい。いつもならここで顔を赤くするヘザーだったが、今日は想像したくない最悪の予想が脳内をちらついて逆に血の気が引いてしまっていた。


(もしかしたら旦那さまは、浮気をなさっている?)


 ちらりと浮かんだ疑念は、どう頑張ってもヘザーの心からは出ていってくれなかった。



 ***



 グレッグの帰宅時間はますます遅くなっていく。


「ヘザー、僕の帰宅時間まで食事を待っている必要はないよ。身体に悪いから先に食べたほうがいい」

「ですがそれではグレッグさまが」

「研究所でも簡単な夜食程度なら食べられるのだよ」

「さようでございますか……」

「食事だけではない。先に休むようにするんだ。君はもともと身体が丈夫なほうではないのだから」


 優しく、けれど言うことを聞かないことは許さないという柔らかな圧をかけられて、ヘザーはひとり唇を噛んだ。何もできないままこの流れに身を任せていれば、後悔するような気がしてならない。そこでヘザーは、屋敷の料理人に頼み込んでグレッグのために栄養たっぷりな夜食を準備したのである。


「旦那さまもきっとお喜びになることでしょう」

「でも、外出をしたことを怒られないかしら?」


 ヘザーはグレッグの元に身を寄せて以来、ほとんど社交に参加していない。屋敷の中でごく限られた相手とのみ顔を合わせた程度。社交界に顔を出さないヘザーのことを、お飾りの妻だと笑う人間も多いことだろう。それでもヘザーが屋敷の外に出ること、不特定多数の人間に会うことをグレッグは許可しなかったのだった。


 そして太鼓判を押されたヘザーの手料理は、結局グレッグの元に届くことはなかった。使用人とともに馬車で研究所に夜食を届けに向かったヘザーは、グレッグに会うことができなかったのである。


「グレッグさまがすでに退勤なさったと?」

「はい、その通りでございます」

「でもこの時間、グレッグさまは残業中のはずなのに……」


 困惑するヘザーと、さらに困惑する門番。そこへちょうど顔見知りであるグレッグの同僚が通りかかった。見知った人物を前に、ヘザーは小さく頭を下げる。


「お久しぶりでございます。最近は特にお忙しいそうで。急ぎの魔導具開発があるのだと伺っておりますが、どうぞお疲れの出ませんように」

「急ぎの仕事ですか? はて、ここ最近でそのような急を要する仕事は……」

「……まあ、そうなのですね」


 労いの言葉をかけたヘザーに向かって、同僚の男性は一瞬不思議そうな顔をした。だが、ヘザーがグレッグの妻を名乗ったことでまずいと思ったのだろう。慌てて何やらもごもごと言い訳を並べ始める。なるほど、研究所の面々は男の友情を大切にする人々らしい。


「違うのです! いえ、先ほどの発言は自分の勘違いなのです。確かにグレッグはここ最近とある研究にかかりきりになっております。けれど、その研究が成功すればおそらく世界が変わるでしょう。それもすべては奥方さまのため。あの男は秘密にしていることが多いので心配かもしれませんが、心配ご無用。どうぞどんと構えていてくださればよいのです」

「……たとえ、何が起ころうとも正妻の座は揺るがないということでしょうか」

「何か?」

「いいえ、ひとりごとですわ」


 同僚の言葉は、ヘザーにとってグレッグの浮気を確信させるに十分すぎる代物だった。


 現在の研究所では、緊急の案件など存在していない。それはグレッグが遅くまで残業しているのは、彼自身の個人的な希望によるものだということを意味している。そのくせグレッグは、この研究所内にはいないのである。つまり、残業をしているという名目で、誰かと何かをしているのだ。家に帰る前に石鹸で身体を洗わなければいけないようなことを。


 周囲が事情を知っていて、けれど絶対に配偶者には詳細を話せない。それでいて心配する必要はなく、正妻としてどんと構えていればいい。そんなことを言われて思いつく内容など、ひとつしかありえない。


 そしてヘザーは研究所の近くで見てしまったのだ。夫がこぢんまりとした平民向けの小さな家の玄関で、柔らかな微笑みとともに、名残惜しそうな甘い声でささやいている姿を。


「すまないね。君と一緒に暮らすことはできないんだ。どうか僕を許しておくれ」


 確かに彼はそう言っていた。



 ***



 切なそうな表情を隠しもせずに、彼は小さな家の玄関を閉めていた。ああ、ここには彼の心から愛する女性がいるのだろうとヘザーは不意に理解した。


「だからこそ旦那さまは、私と本物の夫婦になることを拒んだのね。私と結婚してくれたのは、親戚中を転々とする私があまりにも哀れだったからということなのでしょう」


 グレッグの優しさを、ヘザーは誰よりも理解している。仕方がなかったとはいえ、一定期間ごとにあちこちを渡り歩かねばならないヘザーは精神的にも幼いままだった。だからグレッグは、ヘザーのことを見捨てることができなかったのだろう。


 けれど真に愛する女性を見つけたというのであれば、グレッグの隣はその女性に譲らなくてはいけない。とはいえグレッグは、真実の愛を見つけたからと言って即刻ヘザーを捨てるような非道な人間ではない。むしろそのような人間であれば、ここまでヘザーも悩まずに済んだだろう。切り出し方を間違えれば、彼らはヘザーのために別れてしまうかもしれないのだ。


 ただでさえグレッグと、彼の恋人との幸せな未来を邪魔している自覚があるヘザーは、機会を伺うことにした。一体いつであれば、グレッグに離縁についてを切り出すことができるだろうか。


 考えて、考えて、そして思いついたのだ。これ以上、グレッグに嘘を重ねさせるわけにはいかない。初めての結婚記念日を迎える前に、ちゃんとけじめをつけなくてはいけないと。


 そうしてヘザーはグレッグに離縁を申し出たのであった。



 ***



「ヘザー、本当に愛するひとというのはどういう意味だろうか。きちんと説明をしてほしい」

「まあ、意地悪な旦那さま。それを私の口から話せとおっしゃるのですか」

「僕が愛しているのは、君ひとりだけだ。女性として好きになったのは、君だけだ。結婚をしたいと思ったのも君だけだ。そしてこれから先、何人の子どもに恵まれたとしても、僕にとっての一番は君だけなのだ」

「だって、それならどうして!」

「ヘザー?」


 慌ててヘザーは両手で自身の口を覆った。これ以上話をしていれば、醜い自分の感情をさらけ出してしまう。グレッグを笑顔で送り出さなくてはいけないのに、泣いて怒ってすがりついてしまう。そんなのは嫌だ。グレッグの思い出に残る最後の自分は、綺麗な顔をしていてほしい。


 震えるヘザーを、グレッグがそっと抱きしめた。いやいやと首を振る彼女を、逃がす気はないらしい。


「同僚に何か変な話を聞かされたのかい。確かに、僕は君のことが大切すぎるあまり君の外出を推奨してはいない。けれどそれは、君の身体が心配だからこそで」

「急に何をおっしゃっているのですか?」

「僕が茶会も夜会も開かせないし、参加させないから怒っているのではないのかな? 女主人の仕事を理由なく制限しているのだからね」

「いいえ、そうではありません。私は、あの、グレッグさまに他に好きな方ができたのだとわかったものですから、醜態をさらす前に出ていかなくてはいけないと思い……」

「待ってくれ、一体どうしてそんな話が出ているんだ?」


 目を丸くしたグレッグに詰め寄られて、ヘザーもまた猫のようにまんまるな瞳で大好きな夫のことを見返した。


「グレッグさまはどなたか女性を外で囲っていらっしゃるでしょう?」

「一体何のことだ?」

「毎夜帰りは遅く、甘い石鹸の匂いを身体にまとわりつかせて帰ってこられているではありませんか。その上、同じ寝台で寝ても、私に一切手を出すことはございませんよね。最初は私の心の準備が整うまで待っていてくださっているかと思っておりましたが、気遣っていただなくてもよろしいのですよ。他に愛する方がいらっしゃるから、私は必要なかったということなのでしょう?」

「どうしてそうなるんだ」

「私、ちゃんとこの耳で聞きましたわ。『すまないね。君と一緒に暮らすことはできないんだ。どうか僕を許しておくれ』、そうグレッグさまが甘い声でおっしゃっているのを」

「あああああああ」


 そこでグレッグは己の失態を悟り、頭を抱えて倒れ込んだのだった。



 ***



「それは大きな誤解だ」


 ひどい頭痛を堪えるように、グレッグが声を絞り出していった。


「残業が続いていた理由だが。僕は……正確には君の親族と僕たちは、君の体調を安定させるためにできることはないか、さまざまな研究を重ねてきたんだ」

「でも、私は不運にもその土地ごとの風土病を引き起こす体質なのですよね? その土地を離れれば症状が出ることはないので、引っ越すよりほかに手立てはないとお医者さまに言われておりましたが」


 そこでゆっくりとグレッグは首を横に振った。


「確かに昔から君の暮らしてきた土地では、謎の風土病があると言われてきた。けれどそれらにはちゃんと理由があったんだ。決して、原因不明の奇病などではなかったのだよ」

「そう、なのですか」

「そうだ。林業の盛んな土地では杉や檜の花粉に、農業が要の土地では麦の仲間の花粉に身体が過剰反応してしまう場合があるんだ」

「まあ、そんなことが? まさか養蚕の発展した土地で喘息が酷くなったり、染色の有名な土地のドレスを着た際に蕁麻疹が出てしまったりしたのも……」

「反応は違えど、理由は同じようなものだ。謎の病でも、ましては呪いなどでもない。ただ、何もしなくても治るというわけではないから、その土地で生きるためにどうにか対処していけないかを研究していたのだよ」


 なるほどとうなずきかけて、きっとヘザーがグレッグをにらんだ。


「ですが、あの甘い言葉のお相手は」

「あれは、拾った子犬を友人に託していたところだ。君は、乗馬用の馬のそばにいっても体調が悪くなるんだ。一か八かで子犬を世話するのは危険すぎる。万が一のことが起きれば、君にとっても子犬にとっても不幸なことだからね。ちなみに預けた相手は、騎士団に勤める友人だ。確認してくれてかまわない」

「お風呂に入って帰宅されていたのは?」

「里親を見つけるまで僕が子犬の世話をしていたから、自宅に君の体調を悪化させるものを持ち込んではいけないと思い、風呂に入っていた。それでも服を着替える必要があったから、帰ったら早々に浴室に直行していたのだよ」


 言われてみれば、納得するしかない。


「私、何も知らずにグレッグさまを責めたりして申し訳ありません」

「いいや、僕も研究や子犬のことをきちんと君に話すべきだった。不安にさせてすまない」

「グレッグさま、私のことを許してくださいますか?」

「許すも何も、僕は素直な君のことが愛しくてたまらないんだよ」


 瞳を潤ませたヘザーの頬に手をあて、グレッグは耳元でそっとささやいた。


「先ほどの話だが。大好きな君の隣で何もしないまま眠るのは、正直辛かったとも。それでも、何かあれば君に負担を強いることになってしまうからね」

「何かというのは、何ですか?」

「子どもを身ごもった女性は、今までよりもずっと体調を崩しやすくなるんだ。以前は平気だった食べ物が食べられなくなったり、身体が受け入れられなくなることも多い。そして何より怖いのは、具合が悪くなっても簡単に薬を使うことはできないところだよ」


 さっと顔を朱に染めて、ヘザーがグレッグの胸にもたれかかる。


「赤ちゃんのためなら、我慢できます」

「そうだね。君ならそう言うと思っていた。でも僕は、君が何より大事なんだ。たとえ僕たちの子どものためとはいえ、君が苦しむところは見たくない。そのためなら、寝る間を惜しんで研究できると思ったんだよ」


 そこでグレッグが取り出したのは、不思議な色合いに淡く輝く小さな指輪だった。


「まずは、君にこれを贈らせてくれないかい」

「これは」

「結界の魔導具を改良したものだ。材料が手に入りにくいものが多いのと、制作過程が複雑で贈るのがこんなに遅くなってしまった。すまない。本当なら、結婚式当日に結婚指輪と一緒に贈るつもりだったのだが」

「綺麗ですね」

「できるだけ薄く、ひとの体温や感触に邪魔しないように結界を張れるように工夫したんだ。食事などは通すけれど、指定した花粉などの特定物質を弾く設定がなかなか難しくてね。しばらく量販化は難しそうだから、秘密にしておいてくれ」


 銀竜の鱗やら、妖精の粉やら、一角獣の角やら、普通には手に入らないものばかりで作ったとは知らせないまま、薬指の結婚指輪の上に重ね付けさせる。


「大丈夫、これからはきっと賑やかな日々になるよ。まずはご家族に会いに行こう。通信用魔導具では語り切れなかったことがたくさんあるだろう?」

「はい」


 熱い吐息を間近で感じながら、ヘザーはそっと目をつぶる。まぶたの向こう側に、懐かしいいくつもの故郷を歩く、グレッグと何人もの子どもたちの姿が見えたような気がした。

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