第7走 王の名の下に
長く伸びたたてがみが、ふわふわと揺れる。
フィロの脚が地面を蹴るたびに、森の土が弾けるように舞い上がり、それはとても軽やかに見えた。
しかし、フィロには全力で走っているはずなのに、何かが身体を押さえつけているような感覚があった。
「な、なんか、こう、なに。変だあ」
「魔法のせいだ! 奴らの”遅滞魔法”だろうね!」
マーニの声が鋭く響く。
遅滞魔法とは、主に対象を捕らえるために用いる魔法だ。
空気中に編み込まれた魔力が、対象の動きを鈍らせる。それはまるで、見えない枷が足に絡みつくかのようだった。
「うそん、そんなもの使うとか卑怯すぎんでしょ!?」
「奴らは”王”の名の下に、どんな手でも使うのさ!!」
マーニは忌々しげに吐き捨てた。
その時である。
「止まれ!」
鋭い声と共に姿を見せたのは、鎧姿の人間たちだった。森の中で見るには異質な白銀の鎧を纏ったそれは、軍隊の如く厳格な動作でフィロたちの前に立ち塞がる。
「教会聖騎士団のやつらだ。めんどうだね」
教会聖騎士団とは、王の命に従い、異端を裁くことを使命とする教会直属の武装部隊である。
彼らの戦いは”討伐”ではなく”粛清”を目的とする。
異端者――すなわち、王を脅かす者や教会の秩序を乱す存在を排除するために動くのだ。
「聖女フロレンティアを引き渡せ」
「王に背く罪、ここで清算させてもらう」
「異端は粛清あるのみ……」
無機質な声が、夜の森に響く。
それは、まるで感情を失った機械のような声だった。
「なんだあ、中に何が入ってんだ?」
フィロは、目の前の騎士たちを凝視する。
白銀の鎧の胸には、太陽と十字架を組み合わせたような印が刻まれていた。
印の中央には、王の紋章が掲げられており、彼らが“王の手足”として動く兵士ということを現している。
「な、なんか強そうだあ」
「当然さ! 奴らは教会の騎士っていうより、王直属の処刑人みたいなもんだ。手加減なんて言葉はないよ」
マーニは剣を握りしめ、睨みつける。
騎士団の先陣に立つのは、ナイトハウルに騎乗した聖騎士たち。黒い狼の魔獣に跨り、獲物を狙う狩人のようにフィロたちを取り囲んでいた。
「アイツらのナイトハウル、普通のやつらよりも一段と小回りが利いて動きが素早い。気をつけな!」
「それチートってやつだろお。俺ぁ賢いから知ってるんだ」
さらに、ナイトハウルの後方には、もう一種の騎獣が姿を現した。アイアンホーン――巨大な突進型の獣だった。
「なんかやばくなぁい?」
「アイアンホーン……! 教会騎士団の重装突撃部隊が使う魔獣さ」
「もう軍隊じゃあん……」
アイアンホーンは、まるで巨大な野牛のような姿をしていた。
厚い鎧のような外皮を持ち、頭部には鋼鉄のように硬い一本角がそびえ立つ。
その巨体を活かした突進攻撃は、一度喰らえば並の戦士ならば瞬く間に砕け散るだろう。
フィロは知る由もなかったが、ナイトハウルが追い詰め、アイアンホーンが仕留める。それが教会騎士団の戦法だった。
「なんでそんなに殺意高いのお……」
「言ってる場合か! 走れ、フィロ!!」
森の奥深く、夜の冷たい風がフィロのたてがみをなぶった。
教会騎士団の包囲は完璧だった。
ナイトハウルが低く唸りを上げ、鋭い瞳でこちらを見据えている。その後方では、アイアンホーンが大地を揺るがすように蹄を鳴らし、重々しく身を揺らしていた。
その背には、銀の鎧を纏った騎士たち。
王の命に従い、異端を粛清するために生み出された”処刑人”たちだった。
顔を覆う兜の隙間から覗くのは、氷のように冷たい瞳。彼らの心には、迷いも躊躇もない。
目の前の”異端”を排除することだけが、彼らに課された使命だ。
「堕ちた聖女、フロレンティアを渡せ」
「王の秩序を乱すことは許されない」
「抵抗するなら、王の裁きをもって粛清する」
次々と無機質な声が響く。
まるで自らの言葉ではなく、“王の意思”を代弁する機械のように。
フィロの耳がぴくりと動いた。
全身が強ばるのを感じる。
「ど、どうするう……?」
「選択肢なんてないよ、フィロ!」
マーニの声が、鋭く飛んできた。
彼女は馬上のティアをしっかりと抱え、剣を抜いて構えている。その表情には迷いがなかった。
「戦うか、捕まるか。それだけさ!」
「いや、待て、他にも……たとえば、逃げるとか……」
「逃げる? そういうのは、戦える奴が言うもんだよ!!」
「まじぃ!?」
一瞬の隙をついて、一頭のナイトハウルが跳躍した。暗闇の中、黒い影が鋭い爪を剥き出しにしながら、フィロの首に襲いかかる――
「くっ!」
マーニの剣が閃いた。
ナイトハウルの喉元に鋭い切っ先が突き刺さり、魔獣が悲鳴を上げながら地面へと叩きつけられる。
「ぼさっとしてんじゃないよ、フィロ!」
「う、うう、ごめえん!」
「まったく……。いいか、あたしが守る! あんたは全力で走りな!」
マーニが剣を構え直す。
その背後では、フロレンティアがまだ目を覚まさず、静かに眠っていた。
「……そ、そうだよなあ、やるしかない!」
フィロは深く息を吸い込み、両前脚を強く地面に叩きつけた。
「行くぞ、マーニ!!」
「よし、任せな!」
そして――戦いは始まった。
フィロは地面を蹴ると一瞬で加速し、疾風のように走り出す。
「ナイトハウルが回り込むよ!」
マーニの警告と同時に、黒い影が素早く森の中へと消える。闇に紛れ、獲物を追い詰める狩人のように。
「うわああ! こいつら、速すぎんだろ!!」
ナイトハウルたちは、ただの狼ではない。
異端を狩るために訓練された、闇討ち専門の魔獣だ。目にも止まらぬ速さで動き、死角から飛びかかる。正面から戦うことは、愚策だった。
「やっぱ逃げた方が……」
「いいから、さっさと走りな!!」
マーニが叫ぶと同時に、フィロは急カーブを切る。地面に深く蹄を食い込ませながら、一気に加速した。
「うおお!唸れ俺の脚ぃ!!」
フィロの走りが異世界の戦場で生きる。地形を無視するように、どこまでも駆け抜ける。蹄が大地を蹴るたびに、飛び散る土埃は煙幕のように視界を覆った。
そのまま、すさまじい速度で森を駆け抜ける。
しかし、それは立ちはだかり続けるのだ。
「アイアンホーン、前方から来るぞ!!」
「えええ!? どっちに行けばいいんだよぉぉぉ!?」
前方には、アイアンホーンの突撃隊がいた。
その巨大な角が、夜の闇に光る。
ナイトハウルが背後から迫り、アイアンホーンが前方から道を塞ぐ。
完全な包囲網。
逃げ場は――ない。
「……しょうがないねぇ!」
マーニの目が鋭く光る。
そして――。
「ぶち破るぞ!!!」
「ま、マーニさん!?なんか口調が、いやぁぁぁぁ!!」
夜の森に響き渡る、地鳴りのような蹄音。
巨大な魔獣――アイアンホーンの突進が迫る。
分厚い筋肉に覆われた巨体、鋼鉄のように硬い皮膚、そして何よりも、その額に備わる巨大な一本角が恐ろしい。
かつては戦場で敵陣を突き破るために使われていた戦獣であり、その角の突進を防げるものなど、ほぼ存在しない。
「死ぬう!!!」
フィロは叫んだ。
全力で走りながらも、前方の巨大な影に恐怖を感じる。アイアンホーンは、地を揺るがしながら一直線に突っ込んでくる。
「ちょっ……まっ……無理だってこれ!!」
「泣き言いってる場合かい!! ぶち抜くしかないんだよ!」
「なに!?なんなの!?頭オーレンなの!?」
マーニの声が響く。振り返ると、後方からはナイトハウルの群れが猛追してくる。
逃げ道はない。
前へ進むしかない。
「俺が、あいつと正面衝突!?」
フィロには絶望しかなかった、アイアンホーンの突撃と正面からぶつかれば、木っ端微塵である。
「馬のひき肉はまずいってぇ!」
「よっし、飛ぶよ!!」
「え?」
「よく聞きな、フィロ!! あたしが合図したら、思いっきり横へ飛べ!!」
「飛ぶって……俺にそんな機能ねぇよ!!!」
「バカ言うな、あんた跳べる馬だろ!!」
「障害破門にされた俺に跳べとかいう!?」
「あしたは知ってるんだよ!本に書いてあったんだからね!」
「う、うう、その作者、絶対はったおす!!」
アイアンホーン、接近。
分厚い前脚が大地を蹴り、巨体がフィロめがけて突進してくる。
鼻息が荒く、角が月光を反射して鋭く輝いた。
「いいか、フィロ!! せぇーのって言ったら跳べ!!」
「ふ、踏み切って、こう、脚を上げて……」
「せぇーの!!!」
「はえぇよ!!!」
フィロは絶叫しながらも、前脚を思い切り蹴り上げた。反射的に体が浮き上がる。アイアンホーンの鋭い角が、ちょうど下を通り抜けた。
ゴォォォン!!鈍い衝撃音が響く。
フィロの脚がアイアンホーンの頭上すれすれを通過し、宙を舞う。
鼻先が角に掠るほどの僅差だった。
「は、ハナ差ぁ!?」
フィロは悲鳴を上げながら、地面へと着地する。
後ろ脚が少し絡まりながらも、なんとかバランスを保つ。
「よっし、 よくやったよフィロ!!」
「もうだめだぁ……。この鼻が良いって、ケンちゃんいっぱい撫でてくれたのにぃ、俺の鼻があ」
アイアンホーンはフィロを突き抜けたと思った瞬間、勢いが止まらず、そのまま前方の大木に激突した。
ズドォォォン!!!と木が軋み、大きく傾ぐ。
しかし、アイアンホーンはよろめきながらも体勢を立て直し、すぐにこちらへ向き直った。
「な、なにあいつ!? まだ動くの!?」
「そりゃそうさ! でも今ので時間稼ぎはできた!」
「ほんとにぃ!?」
後ろからナイトハウルの群れが迫る。
横ではアイアンホーンが再び前掻きを始めた。
「どうするよ、マーニ!」
「決まってんだろう! 突破するんだよ!!」
「はへぇ!?」
「いいかい、フィロ。今度は正面突破だ!!」
「好き過ぎてオーレン憑依してなぁい!?」
「そいつは光栄だね!!」
マーニはそう言い放つと、フィロの背中で剣を構えた。
「さあ、見せてみな、あんたの脚の本気を!」
「え、でも、俺」
「いいから走りな!!」
「いたぁい!」
ぱしぃん!とマーニに尻を叩かれ、フィロは全力で地を蹴った。
ナイトハウルの群れが四方から迫り、背後にはアイアンホーンが巨体を揺らしながら突進の準備をしている。
「やるしかないよ。前を見ろ、フィロ!」
マーニがフィロの背で剣を振りかざし、迫りくる敵に向けて目を光らせる。
「正面、ナイトハウル3体、 左右に2体ずつ。こりゃあ、派手にいくしかないね!」
「俺は、走るしかできねぇからなぁ!」
「充分だよ。それだけでいい!」
「ほんとにぃぃ!?まあ、ちょっと蹴るくらいはするけど」
「スピードに乗れば、あたしが全部やってやる!」
「うおお!第4コーナーだぜ!!ひゃっはー!」
地を蹴る。イメージするのは最終直線だ。
フィロは自分でも驚くほどの加速で、敵のど真ん中へ突っ込んでいった。
「差し切ってやらぁ!!」
ナイトハウルの群れが牙を剥く。
闇に馴染む漆黒の毛並み、赤く光る眼光――
しなやかで素早い狼型の魔獣は、獲物を仕留めるために最適な形状をしていた。
「ククク……この距離なら確実に喉笛を噛みちぎれる……!」
騎乗する教会騎士たちが、兜の奥から嘲笑する。
「まさか真正面から突っ込んでくるとはな……愚か者が!!」
「この距離なら避けられはしない!! 突撃隊、囲め!!」
ナイトハウルが一斉に動いた。
五体がフィロの進行を阻むように配置され、包囲網が狭まる。
――確実に仕留められる距離だった。
教会騎士の一人が、ナイトハウルの手綱を強く引いた。
「囲んだ!! もう逃がさ――」
「ざまぁないねぇ!!」
次の瞬間、眼球を閃光が突き刺した。
直撃した騎士たちは呻きながら、目を抑える。
マーニの剣が振り抜かれ、先頭のナイトハウルの喉元を切り裂く。
「グギャッ!!?」
「油断したね!!」
振り返る間もなく、マーニはさらに剣を回転させ、反対側の騎士の腕を斬り落とす。
「ぎゃああああ!!!?」
騎士がナイトハウルから転げ落ち、悲鳴を上げたが、無惨にも後続のナイトハウルに轢かれ、姿も見えなくなった。
「ゴール、ゴールはどこだぁ!!」
「フィロぉ、前!!!」
「うわぁ!他馬接触ぅ!?」
ナイトハウルが飛びかかる――
その瞬間、フィロは反射的に前脚を振り上げた。
バキィィィィィ!!!という派手な音を立てて蹄が直撃した。ナイトハウルの顎が粉砕され、血しぶきが舞う。
「お、俺の黄金の前脚!?」
「決まったじゃないか!反撃脚」
「なんてぇ?いや、本人が知らないのマジ芝2000」
マーニは剣を振るい、次々と襲い来る騎士たちをなぎ倒していく。踊り子のような鮮やかな身のこなしであった。
彼女の夕陽の髪が、暗い夜を彩る。
「全隊! 突撃用意!!!」
不意に野太い声が轟いた。
あれが隊長格だろうか。一際豪奢な装備をした騎士が、忌々しげにフィロを睨みつけていた。
「ふざけるな……!! たかが一頭の馬と一人の女に、我らが押されるなど……!!!」
「我ら教会の聖騎士団! 王の御名の下に!!」
「魔女と異端者をここで仕留めるのだ!!!」
騎士たちがナイトハウルに指示を飛ばし、さらに動きが統制されていく。
「まずい。フィロ!! ここからが正念場だよ!!」
「お、おい、もう、帰ろうぜ……」
「馬鹿言ってないで、走るんだよ!」
「し、仕掛けが早すぎたんだよぉ!!
もたねぇぞお!!」
フィロはそう言いながらも、さらに加速した。
地を裂くような蹄音が響き渡る。