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第XX ラストラン

当然のように馬がしゃべります

その馬は、ずっとそこにいた。


長い長い戦いの果て、その果てに生み出されたものたちが駆けて、駆けて、去っていくのを見つめ続けていた。気が付けば隣にいた1頭の牝馬と共に、ただ見ていた。そうして何年もの時が経ち、血を濃く継いだものがたった数頭になり、その次の世代が走っては消えていくようになった時、ついにその馬は立ち上がった。


隣の牝馬よりも小柄に見える体は黒々と輝き、艶めく鬣から覗くその瞳は尋常ならざる怒りが放たれている。



「ふざけるな……っ!!」



彼には見えていた。自分に繋がる血の糸が、まるで蜘蛛のそれのように細く、今にも切れそうになってしまっているのが。しかし彼は血を残したいわけでも、名を残したいわけでもなかった。彼は馬なのだ。馬としての矜持をほかの馬よりもうんと持つ競走馬なのだ。


片足一本で一蹴すれば死ぬような弱っちい人間が、自分たちを好き勝手し、挙句の果てに命運まで握っているということを、ずっと彼は気に食わなかった。だからこそ怒るのだ。ただの人間ごときに、『この血筋は終わりだ』と諦められ、忘れ去られていくことが、この馬にとっては、腸が煮えくり返って憤死するような屈辱であったのだ。



「ねえ、あなた」



両足で立ち上がらんばかりに怒り狂う馬を、優しい眼差しが一瞥する。馬とは真反対の春の如くあたたかなそれであった。



「この仔に、たくしましょう」



嫋やかな蹄がそれを指す。怒り高ぶっていた馬は、牝馬には敵わないのか怒りを鎮火させると、怪訝そうな顔をしてそれを見た。



「……だが、それは」


「大丈夫。わたしは信じます。たとえ中身が違おうとも形は一緒よ。」


「はっ、どうだかな。外見が変わろうが中身は中身だ」


「ふふ、相変わらず人間がお嫌いですね。でも最後なのですよ」


「……」


「ほかとは違うからこそ、変えられるかもしれない」


「……チッ、まあいい。見定めてやる」



ふんと鼻を鳴らすと、振り返ることなくそれは走り出す。軽やかで、そしてどこか威圧的なその走りは、だれかを乗せているようであった。











「よーしよし、飯だぞ。フィロ」



じゅううとご機嫌な音がはじけ、なんともいえない香りがあたりに広がる。

手際良く両腕を動かして鉄の板を操っていた男は、最後の仕上げといわんばかりに"魔物の骨"を突き刺すと、それを俺の鼻先に向けた。



「そうはいってもなあ……」



艶っぽい色をした肉塊を目の前に、俺は思わず後退る。

それが極上にうまいのはよく知っている。知っているのだが、それを食べてしまった末路まで知っているのだから、後先考えず喰らいつくことはできなかった。



「お前も男なんだから、肉ぐらい食え」


「無茶言うなよ、オーレン。俺は馬なんだ。肉なんて食った日には腸がいかれちまう」


「あァ?肉やったら食いそうなツラしといてよ。

まったく、俺の肉が食えねえってかあ?そんな貧相な草なんて食いやがってからに」


「俺は馬なんだが?聞いてる?お前耳まで筋肉たっぷりかよ」



ぱちぱちとはぜる焚火を背に、筋骨隆々の男は肩を竦めた。相変わらず俺の話を全く聞こうともしない。いやよくよく考えると話ができること自体おかしいのだが。

『オーレン』というこの男に言ったとおり、俺は馬だ。サイズは輓馬より大きいくらいだが、意外と小回りが利いて、足も速い。そんな馬がいるか?と思うだろう。

その答えは、ここは日本とは違う異世界だからの一言に尽きてしまう。



「にしても、中々おもしれえなあ。お前さんとの旅はよ」


「……そうかあ?」



青々とした変な形の草を食んでいると、でっかい肉にでっかく噛り付いたオーレンが豪快に笑った。

このオーレンという大男に出会ったのは本当に偶然で、俺が呆然とこの世界を歩き回っている時であった。

唐突だが、俺はもともと日本人だった。そうかつては人間だったのだ。それが何の因果か『馬』に取り込まれたかのように、日本で馬に生まれ変わってから俺の運命はぐるぐると変わっていった。



「まあお前じゃなきゃ、俺なんか受け入れねえよな」


「そういうな兄弟。ここじゃあお前さんは良くモテるじゃねえか」


「馬鹿言うなよ……。全員おっさんじゃねえか」


「良いじゃあねえか、いい男たちだろ?まあ俺はごめんだがな」


「お前……」



随分昔の、とあるあの日、俺は確かにいつもの馬房で眠りについた筈であった。だが目を覚ますとこの世界に迷い込んでいたのだ。頭がおかしくなってしまったのか、それとも夢か。その日から俺はこの世界でぎりぎり生き続けていた。



「ああそうだ、今日はとっておきの酒を仕入れてあるんだった」



かつてサラブレッドだったとは思えないほどの太い四肢は、オーレンという大男を乗せて悠々と走れるほどの筋骨隆々な馬体を支える。髪の心配など微塵もないふっさふさな鬣のみ前と同じで、以前の俺とは変わってしまったが、これがこの世界の俺だ。



「おら、これならお前さんも吞めるだろ」


「おー。麦酒じゃねえか!」



日本という国に対して、未練はものすごくある。親父のような厩務員が、調教師がいて、同じところに兄妹だっていた。馬柱だってまあ悪くはなかったと思う。



「口あけろお」


「おっ、おま、ちょっとまて!!まずはかんぱい……ごぼぼぼぼおっ!」



ぶっとい手が俺の口を強引に開かせ、軽々と持ち上げられた樽が傾けられる。

この豪快さに俺はいつか殺されるのかもしれない。でも、まあこんな男だが、俺の相棒でもあるのだ。



「いい飲みっぷりじゃねえか、フィロよ!」



オーレンの豪快な笑い声は、星のちりばめられた空へと響いていった。

彼との旅の目的は、あるようでないようなものだ。放浪の旅をしながら出会った人たちと交流し、時には助け合い、時には襲撃に会い、時には魔物と戦い、そうしてその時は来た。











「なあ、相棒。俺あ、ここに決めたぜ」


「……ああ、わかってたよ、相棒」



なんとも穏やかな港町であった。小さい町であったが、なんとも人情にあふれたあたたかなところであった。お互いの年齢など知らない。しかし、オーレンはその溌溂さと衰えることを知らない肉体からとても若く見えるが、道中に聞いた話からするととっくに隠居していておかしくない歳なのだろうと思っていた。



「みつけたのか。旅の果てを」


「ふははっ、こいつが"年貢の納め時"ってやつか。聞いた時は変な言葉だと思ってたが、どうもしっくりきやがる」



俺には馴染まない海の声が聞こえる。海が鳴り、海の鳥が飛び、オーレンに劣らない屈強な男たちの勇ましい声が、姿が、町に流れる血流のようだ。それに負けず、いや勝る女たちの声が、姿が、鼓動のように響き渡り、この町を生かしていた。



「老兵は死せず、かあ。お前らしいな」



数年、いや数十年だろうか、ともに旅を続けてきた相棒なのだ。日に日にこの町に馴染んでいく姿に、俺は別れを感じ取っていた。



「お前さんは、どうする」


「……」


「おっと、先に言っておくが俺は大歓迎だぜ」


「わかってるくせに」



この別れは決して悲しいものじゃない。この世界ではじめて出会った相棒が、五体満足で無事に旅を終えるのだ。これ以上にうれしいことはありえない。



「なあオーレン。俺は、俺の場所を見つけに行くよ」


「がははっ!まあそうだろうな、フィロ。

なに、言わなくともわかるぜ。お前さんは馬とは思えねえほど賢くて、強い。それに良い嫁も捕まえんとな」


「嫁え?」


「俺はお前の相棒で、お前は俺の相棒だからな。俺のガキの相棒もまた然りだろ」


「お、おいおい、勝手に決めるなよ……!」



傾く夕日に照らされて、オーレンが黄金をまとう。相変わらず馴染まない海岸の砂を四つ足で踏みしめていると、オーレンが俺の背を叩いた。見ずもわかるその仕草にぐっと脚に力を入れると、間髪入れずずっしりとした重みが背中を通して全身に行き渡る。



「おら、走ろうぜ相棒」


「おっも。相変わらず重いなあ。それに、走るのは俺だけだが、なっ……!」



どこまでも続く砂浜を、駆ける。ガラスの脚といわれたあの頃は決して味わえなかった、重量級の重みにより沈む感触が心地よい。どうやらまだ俺の体はやれるようだ。

この世界での騎馬は戦闘を行うためのもので、騎乗姿勢が違うので、重心の位置も、何もかも違う。だが俺の身体はすっかり馴染んでしまった。



「いつでも、かえって来いよ」



言葉を交わさなくても、お互いのことはわかりきっている。そのうえで海風に紛れて聞こえた言葉は、きっとオーレンも別れを惜しんでくれているという証なのだ。











「それにしても、馬が一人旅かあ」



かぽかぽと舗装された道を歩く。オーレンと別れて、俺は久しぶりの一人歩きをしていた。

この世界は魔物の蔓延る治安の悪い世界だ。生けるものは多かれ少なかれ魔力を持ち、魔法を使うことのできるファンタジー世界である。

そんなファンタジーの世界であっても、ただの馬が一人で旅をするなどありえないことなのだが。



「あそこは俺の場所ではないしな」



オーレンと暮らすこと自体は悪くはないが、あそこは彼の場所であって、俺の場所にはなりえないだろう。あの町にいる間、ずっとそんな野生の勘にも似た感覚に付きまとわれていた。



「それにあいつ……!いつの間にあんな可愛い嫁さんみつけてんだ!」



俺がいかつい野郎どもに『いい顔だ』とか『いい体ですな』とか『いい尻だな』とか、褒めちぎられている間に、薄情な相棒はとっても可愛い淑女と愛を育んでいたらしい。


いつだって俺は俺の体目当ての奴らしか寄ってこなくて、その隣で、豪快でデリカシーなど微塵もない男臭いオーレンが可憐な女性に囲まれているのだ。



「はあ……。それにしても俺の寿命、長すぎじゃあないか?この世界だからか?ここに死ぬまでいたとしても、俺は俺のことわからないままな気がする」



独り言をこぼしながら、かぽかぽと舗装された道を歩いていく。この辺りはとある王国の管理下にあるので、道が広く整備されており、人通りも多い。




「ふぃ、フィロ……?」




広い視界で人間をどつかないように歩いていると、ふと首の下からか細い声が聞こえてきた。



「……?」



聞き慣れない高い声は女性の、いや少女のそれで。

誰だっけと首を傾げながら下げると、ぼろぼろの服を着た少女がまんまるな瞳を俺に向けていた。



「お、お嬢ちゃん、……もしかしてフロレンティアか?」


「フィロお……!」


「おわっ!ちょ、ちょっとま……!

アア゛、オ、オンナノコ、コワイヨオ……。うっ、お、俺のトラウマがあ……!」



なんとも誤解を招く言い方だが、弁明させてほしい。これは人間だった頃から刷り込まれた、気軽に触れてはいけないものの5本の指に入る存在それが女性なのだ。

決して悪い意味ではない!むしろ俺が悪いというか……。人間の時はあまり縁のない存在であったけれど、そこまで恐れてはいなかった。


だがしかし、馬になってからというもの、牝馬に厩舎でも競馬場でもガンを飛ばされるし、レース中はどつかれるし、ゴール後は執拗に付き纏われ蹴り飛ばされるし。

さらに聞いてほしい。大人しくて落ち着きがあって大変可愛いと評判のレディでさえ、きゅるるんなお目目を三角にして俺を追い掛け回すのだ。

それくらい俺のヒエラルキーが低かったのだろうが、結局優しくしてくれたのは母と、妹ぐらいなものである。いや、妹は……。今思うと母も……。と、とにかく、どうやらそのトラウマは人間にも適応されるようになってしまったらしい。いつ豹変するかわからないんだもの。



「て、ティア、ティアさん、ちょ、っと」



下ろした俺の顔に抱きついたかと思うと、頬のあたりにしっとりとした何かを感じた。

次々に俺の毛を濡らして、皮膚に浸透してくるそれに慌てながら、いや慌てることしかできない。



「あ゛あ゛、オーレン、俺はどうすれば……」



下手に動いたら、こんな小さき人間など吹っ飛んでしまうだろう。そう思って情けない声を上げながら、人の目を気にすることしかできない。


オーレンといた時とは随分態度が違うって?そう、そうなんだ。女性へのトラウマを除いても、元々俺は気が小さくて臆病だ。競走馬としてそれを闘志に変えて走っていたけれど、この世界ではオーレンという、色々な意味でのタンクがいたから俺は腰巾着でいられたんだ。改めて自覚して、ちょっと凹んだ。



「フィロ!わたしを、乗せてって!」


「ええ……」



このフロレンティアという幼い女子は、以前この辺を統治している"ニアーク王国"で出会った。その時はもちろんオーレンもいて、城下町の人々や家臣、そして挙句の果てには王様の頼み事なんかも聞いたりしていた最中であった。



「教会はどうしたんだ……?」



この国は王とは別に司祭もいて、王がまつりごとを行うのに対し、司祭は祭事を行っていた。いわば国民の代表者的存在である。フロレンティアは司祭の次女であり、まだ幼いながらも教会のために働いていた。



「おかあさまが、しんだの」


「え、?」


「でもね、すぐにあたらしいおかあさまがきて」


「ま、まじ……?」


「わたし、いらないって」


「ああ……、えっと、その」


「すてられ、ちゃった」


「うわあああ」



俺は馬で、そして俺もオーレンも所詮流れ者である。シビアなことをいうと、住人への手助けも、王へのちょっとした奉仕も、旅の物資を補給することが目的であって、内部干渉を目的としたことはなかった。必然的にそうなった時もあったが、基本的に"思想"に手を出したことはない。


『俺たちは英雄でも、勇者でもじゃねえんだ。背負う気もねえよ』


いつだったかの光景がふと脳裏を過る。はためく御旗のもとに、落ちた城を見上げてオーレンが呟いた言葉が今も忘れられないでいた。



「フィロ、」


「わ、わかった。けど、どこまで……?」


「うん。わたしね、もりにいきたいの」


「もり、森……?」


「なたるまのもりへ」



一点集中があまり得意ではない俺の目に、痛そうな傷だらけの手が映った。

その手は極寒の中、丁寧に俺の世話をする厩務員のそれと同じで、違うものだった。



「わかった、ティア。行こう。道は知ってるよな……?大丈夫だよな?」



詳しいことは道中聞けば良いだろう。それに俺自身も行先は決めていないし、時間だってまだまだあるはずだ。そんな雲一つない能天気なことを考えていたのが悪かったのだろうか。

フロレンティアが乗りやすいように、腹を地面にべったりとくっ付け、彼女が軽々と背中に跨るのを確認してから立ち上がる。

一応人間が乗れるように、簡単な馬具は付けているがあくまで最小限である。

それにまだ幼いフロレンティアにとって、俺の背中は広すぎるかもしれない。でも、俺は知っていた。フロレンティアという少女は外見はガラスケースに入っていそうなほどの繊細な美少女だが、その気性は野原を跳ね回る荒馬にも劣らないということを。




「おい!!いたぞ!!」


「ひっ、フィロ……!逃げて!」



どうやら座りの良い位置を見つけたらしいフロレンティアが、軽く手綱を握ったのがわかった。慣れるまではゆっくり歩くかとのんびり足を踏み出そうとした、丁度その時である。

荒々しい怒声が、辺りの空気を一変させた。



「つかまえろ……!」


「馬に乗ってるぞ!おら、早くこっちも馬を出せ!」



なんだなんだと勝手に耳がくるくると回る。わらわらと集まってくるのは、どう見てもカタギではない男たちであった。



「そいつだ!そのガキを生け捕りにしろ!」


「今は殺すなよ!必ず生かしたまま、司祭様のもとにつれていくんだ!」



方々から上がる野太い声にフロレンティアが声を上げるよりも、俺のノミの心臓がぴゃっと縮み上がった。ご存じかもしれないが、馬というのは大変繊細で臆病で、そして危機察知をしたらとりあえず逃げるが勝ちの生き物である。中には鹿にも熊にも立ち向かっていき、追い回す特殊個体がいるかもしれんが、俺はただの馬なのだ。



「うわああ!なんだお前らあ!どけえ!踏み潰すぞお!」


「ひぶっ!」


「ぐうっ……」



でっかいナイフやら斧やらを手に襲い掛かってきた男たちに対して、勢い良く後ろに下がると、何かを轢いた音がした。それに構わず後ろ足を大きく振り上げて、下す。そして、比較的手薄な隙が見えた。



「い、いくぞ……!」



もはやすべてが脊髄反射であった。ゲートダッシュよろしく脚に力を込めて、地面を蹴り上げる。いつも傍にあった堅い守りも、強固な攻撃もない。これからは俺の脚で、戦わなければならないのだ。



「ひい、弓矢かよ。矢はやべえ、矢だけになっ……!うおおっ、い、いま首かすった!こ、こわあ……」



何人かを踏みつけた気がするが、気にする間もなく後ろから蹄の音が聞こえてきた。この世界の馬は違った意味で気の毒だと思う。使い捨てられ、乗り捨てられ、その辺の道端で野垂れしに魔物に喰われている姿を幾度となく見た。大切に育てられている馬もいるが、そう多くはないのだろう。



「て、ティア、大丈夫か?」


「うん、だいじょうぶ」



後ろから迫り来る蹄の音は、飛び交う弓矢を除けば俺にとっては聞きなれたものだ。大逃げなぞしたことはないけれど、こっちは背中が軽いし、駆けっこならお手の物だ。進路を示してくれる存在がいないのはちょっぴりさみしいけれど。



「へへっ、」



野生の勘を発揮して、へなへなと飛んでくる矢を躱していく。どうやら達人はいないらしい。

ジグザグと走りながらも、確実に後続との距離を離していく。



「どーよ!俺が先頭だ!」


「フィロ、まえ……!」


「前?、まええええ!?」



身体が風に乗ったような、気持ち良く体が勝手に前に進むその感覚は、トップスピードに達した時である。本能に身を任せていたのが仇になったのか、少し先に立ち塞がるそれに気付くのが遅れた。



「さ、さくぅ……?」



立ち塞がる立派な柵は、いくらこの馬体であってもぶつかれば無事ではいられないだろう。回避するにしても、ずうっと続く柵には切れ目がない。当然ながら後ろには殺気立ったやつらがいて、まさに前門の虎、後門の狼といったところか。



「ま、まじか……。障害練習なんて、したことな……いや、あるけど!」



親戚にそれなりに有名な障害馬がいるからとかなんとかで、調教師のおっちゃんに遊びで飛ばされたことはある。あまりにも俺が跳躍が下手すぎるから、すぐに終わったが。お前は二度と飛ばせねえ……なんて障害物替わりのポールを派手に落とし、勢いで地面に転げた俺を、飛んできたおっちゃんが真剣な瞳で見下ろした。あの瞳は、レースよりもガチだった。



「だ、だけど、もう……飛ぶしかないっ!つ、つかまってろよ、ティア!」



半ばパニックで思考を巡らせている間に、柵はもう目の前まで来ていた。青銅のような素材でつくられているらしいそれは、激突したり、脚を引っ掛けたりでもしたら馬の俺は終わりだろう。



「ひええ、あいつら、こんな怖えもんをひょいひょい飛んでんだなあ…」



タイミングなんてわからなかった。最初から運任せということだ。

ここだと思ったタイミングで後ろ脚で思いっきり地面を蹴り上げて、前脚を揃えて上げるだけだ。あとは天命を待つのみである。


ざわりと全身の血が揺れた気がした。俺の血に含まれる、わずかな可能性が目覚めたのか。

血統がどうのなどあまり信じてはいなかったけれど、なんとなくこのタイミングで飛べる気がした。



「ふ、ふみこんで……っ!」



後ろからは地鳴りのような蹄の音、後戻りは許されない。背中には訳アリの少女、見捨てるなどできるものか。後ろ足で強く、強く、地面を蹴り上げる。ゲートを出る時よりも、強く。











『あぁ?障害物が怖くないかって?』


『あんなわっさりした痛そうなやつ、良く越えられるなあって』


『へっ、相変わらず臆病なやつ。飛べばいいだけじゃねえか。何が怖いってんだ』


『そ、そんなこといったって、ぶつかったら、死ぬじゃないか……』


『ぶつからねえよ。俺は』


『そんな自信たっぷりに……。絶対なんてないんだぞ』



いつかの、前の世界の記憶が、はち切れんばかりに脈打つ心臓の音の合間に見えた。

確か何故か同じレースに出てきたあいつとの会話だった。



『ある。俺には、あるんだよ』


『……そうかあ?』


『ははっ、お前もやってみれば良いじゃねえか。こう脚を構えて、踏み込む。こうやって、なっ!』


『うおっ!突然飛び上がるなって!お、おいちょっと待て、今日は障害はないんだぞ!』



ぽーんときれいに飛び上がったその馬に、一番肝を冷やしたのは背中の上の人間だろう。

俺は名馬なんてすげえもんとはこれっぽっちも縁がなかったが、すげえもんってのはこういう馬なんだと思った。




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