第九話 幽霊達が願うもの
「やったー、大成功ッ!」
十一階のエレベーター前で釉乃は嬉しそうに跳び跳ねていた。チカチカと点滅を続けるエレベーターの到着灯の真下では、白目を剥いて気を失った男が倒れている。
目の前で巻き起こった出来事に理解が追い付かない。釉乃は何故、こんなに喜んでいるのだろうか?
「成功って……、いったい何が……?」
伺うように釉乃を見る。彼女は得意気にVサインを向けて口を開いた。
「見ての通りだよ、二人でこの男を驚かせた。これでまた、このマンションは恐怖の色がより濃くなった。きっとハニーちゃんも喜ぶよ」
彼女はまた知らない名前を口走る。エントランスで説明すると言っていた話はまるで出てこない。
倒れた男に目をやると、怜衣は真っ黒い顔を歪める。有無を言わさず手伝わされたエレベーターの操作、若干の罪悪感を感じていた。
「あの、さっきの、釉乃さんの目的の話は……? それにこの人、どうするの? このままにして置けないですよね」
「まぁまぁ、レイちゃん。その話は部屋でゆっくり話すから。うーん……、あれだけ鮮明に体験させたら充分かな?」
釉乃は倒れた男の耳元に顔を近付けると何かを囁いた。彼女が顔を放すと、白目を向いたまま男は突然立ち上がった。頭を垂れた男はフラフラと歩きだすと、開いたままのエレベーターへ乗り込む。扉が閉まるとエレベーターの表示は下降を示したのであった。
「え?! 今の、どうなってるの……」
「お家に帰って休んでいいよって、教えてあげたのよ」
釉乃はわざとらしく片目を瞑ると、怜衣の黒い手を取った。
「さぁ、私達も早くお家に帰りましょう? さっきの続きは中で」
「ちょ、ちょっと、釉乃さん、お家って――」
怜衣の手を引いたまま釉乃は歩きだす。十一階フロアの突き当たりで僅かに開いた扉がゆっくりと動くのが見えた。
◆
よくある地味なダークブラウンの扉を開けると、釉乃に引っ張られる怜衣は部屋の中へ入った。すぐに目に飛び込んできた室内の光景に思わず声をあげてしまう。
「うわっ、玄関なのに広っ……」
「中を見たらもっと驚くよ?」
釉乃は微笑むと、正面に伸びた廊下へと歩きだしていた。習慣的に靴を脱ごうとした怜衣であったが、今の自分の姿を思い出して苦笑いをしてしまう。
そもそも幽霊何だから、わざわざ扉開けて入らなくてもいいんじゃないのかな……。
「――ちょっとレイちゃん、何してるの? はやくおいでよ」
廊下の左に角から顔だけだして、釉乃が呼んでいる。怜衣は慌ててそれを追いかけたのだった。
「じゃーん! どう? スッゴく、お洒落じゃない?」
「うわぁ……、ドラマでしか見たことない部屋だ」
廊下を曲がった先には広々としたリビングが視界に飛び込む。大判のラグマットの上に無作為に並べられた、L字型の革ソファー。高い天井から釣り下がるシャンデリアの様な照明と、壁を囲うレールライト。向かいの壁一面に設けられた巨大な窓ガラスには、遠くで輝く新宿の夜景が広がっていた。
自分の暮らしていたボロアパートを思い出す怜衣は、住む世界の違うきらびやかな光景に目を輝かせていた。
「ハニーちゃーん、帰ったよー」
釉乃は何故か天井に向けて声をかけた。
『――はーい』
何処からか声が聞こえた。怜衣は部屋を見渡すが、声の主は見当たらない。
隣で肩を叩く釉乃が、あそことばかり指を指す。
「――えッ、何っ!? うッ、うわぁぁ!」
突然目の前に現れた黒い塊に、怜衣は叫び声をあげてしまう。
「――ギャアァーッ、ば、バケモノッ!!」
ボサボサの長い髪を振り乱し、目の前で怜衣と同じように叫び声があげている。揺れる二つの悲鳴が部屋に響いた。絶叫する二つの黒い身体を見て、釉乃は面白そうに笑っていたのであった。
◆◆
「――なぁーんだぁ……、そうゆう事なら初めに話してくれれば良かったのに。まったく、あんなに笑って、おつやさんも人が悪いわよぉ」
「ごめん、ごめんって。二人の初対面、どんな反応するのかちょっとだけ気になっちゃって、ついね?」
釉乃は頭を下げて笑って言った。彼女と会話を続ける女性は、ボサボサのウェーブがかった長髪を掻き分ける。毛玉の様な毛髪の間から見えたのは、ごく普通のふっくらとした中年女性の顔だった。
呆気にとられる様子に気が付いたのか、釉乃は女性に手の平を向けて口を開いた。
「紹介するね、こちらがこのマンションの元大家さん。ハニーちゃんこと、羽仁塚尚美さんよ」
釉乃にハニーちゃんと呼ばれたその女性は人の良さそうな柔和な表情で近付くと、そっと手を差し伸べた。
「急に出てきてごめんなさいね。私ったらつい動転しちゃって、初対面でバケモノなんて言っちゃった……。うふふ。お互い似たような見た目なのに失礼しちゃうわよね、まったく。見ての通り狭い部屋だけど、ゆっくりしていって頂戴ね」
「い、いえ。私の方こそ急にお邪魔してしまい、その、すいません。せ、狭いなんて……、全然……」
気の効いた言葉も言えず呑み込むと、怜衣の黒い手は差し出された肉厚の右手を掴んだ。尋常ではない長さの縮れた黒髪が、フローリングに海草のように伸びている。羽仁塚と名乗るその人物の異様な出で立ちに思わず視線を外してしまう。
「あ、あの、羽仁塚……、さんも……」
「あらやだ、そんなに畏まらなくていいのよ。私の事はハニーって呼んで構わないわ」
床に拡がる長髪と同じくらい目が行くのは彼女の身体だった。異様に長い上半身を折り曲げるようにして顔を下げている。怜衣は頭の中で、昔、母が何処かの土産物屋で買ってくれた胴の伸びたキーホルダーを思い出していた。
「は、はあ。えと、ハニー……さんも、その、幽霊なんですよね……?」
「もちろんそうよ。このマンションでもう何年も地縛霊をやってる。自慢じゃないけど、そこそこ知名度も上がってきてる。それもこれもおつやさんのお陰でね」
羽仁塚は片目を瞑り釉乃の方を見た。
「私はほんの少し手を加えてるだけ、泊めて貰ってる恩を返してるだけよ? このマンションが恐れられているのはハニーちゃんの活躍があってこそでしょう」
「またまたぁー、そんな謙遜しちゃって……。貴女も運が良かったわね。おつやさんに手伝って貰えれば不自由なその身体も、きっとすぐにもと通りになるわよ」
二人は楽しげに談笑している。ひきつった顔で笑っているつもりの怜衣であったが、黒いヒトガタの表情は二人には見えないだろう。
「さてと、それじゃあ次はお待ちかね。レイちゃんの質問に答えようか?」
釉乃は僅かに微笑むと、真剣な面持ちで続けた。
「昼間の話の続きよ。私達みたいな霊魂は普通、生きている人には干渉できない。だけど不安定な存在である私達がその形を保つには、どうしても生きている人間からの強い恐怖心が必要なの。だからこの世にまだ未練がある霊達は思い思いのやり方で人を恐がらせてる、中には手荒な真似をして人を傷付ける霊だっているわ。でも私はそんなやり方を望んでない、もっと別の方法で恐怖を広めて行きたいの。レイちゃんの判断でいい、私のお願いを聞いてくれないかしら」
「え、と、釉乃さんの……、その、お願いって何………?」
息を呑む程淡麗な表情で彼女は口を開く。
「私と組んで欲しい。それで一緒に目指してほしいのよ」
彼女は少し溜めると、また口元を弛めた。
「新宿から、東京……いいえ、日本で一番になるくらい。誰もが畏れる都市伝説に、二人でなりましょう」
彼女の意外な願いに、怜衣は呆然と口を開けて聞いていたのだった。