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第八話 『十一階の部屋』 体験者:K.O(29) 会社員

 商業区域を通り過ぎ、いりくんだ細い私道を抜ける。

 ここまで来ると新宿の喧騒も殆ど届いてこない。疎らに灯る集合住宅の窓に何となく目をやる。こんな都会の外れでも自分と同じように生活を営んでいる人がいる。顔も名前も知らない他人だが、何故だか慰められた様に気持ちが楽に成る。


「週明けから残業なんてな……。まぁ……、日付を越えてないだけ、まだマシか」


 小穴浩介(おあなこうすけ)は独り言を溢して帰路に着いていた。皮肉は何の役にも立たない、それはわかっている。それでも心を保つ為には、何かを糧にしなければ正気でいられないのだ。


 俺は都会で上手にやってんだ……。あんな田舎者どもと同じじゃあない。


 頭に浮かぶのは幼少から学生時代を過ごした、あの町の、暗くカビ臭い昔の記憶。頭を振るまでもなく自分に言い聞かせた。田舎から東京に出て来て十年余り、忙しい毎日の中で自分は変わったのだ。


 そうさ。俺は、この街で……。


 視界が滲む気がした。残業終わりに上司との付き合いで数杯嗜んだアルコールのせいか、意識がほんの少しだけ揺れる。


 毎日変わらず通るこの道すがら、浩介は確かに生を感じていたのだ。


 暗がりを進む足並みは、すぐに目的地へと辿り着いていた。ここが俺の家だ。今年の四月、この街に来て根を下ろした場所だった。


 マンションのエントランスは煌々と輝いる。つまらない他の古ぼけた建物よりもはっきりと浮かんでいた。


 自動ドアの前に立つと当たり前のように迎えてくれる。ここに住んで一ヶ月と少し、この高揚に何度も喜びを浮かべたものだ。


「今日も都会の我が家に、帰って来てやったぞ……」


 いつも通りの無機質できらびやかな照明に皮肉を溢してみる。


「徒歩で帰れるだけ、他の奴よりは随分良い。やっぱり俺は都会に馴染んでいるじゃないか」


 新宿駅から徒歩で数十分、なんなら会社まで歩いて通えるほどの好立地。間取りは独り身には充分すぎる1LDK。普通なら生活を圧迫するであろうはずの家賃だが、ここは違った。単身向けの標準的な価格帯よりもずっと安く、おまけに更新料まで取られない。破格も破格、ここは理想を軽く越えた超優良物件だ。


 エレベーターのボタンを押す。上部の表示は四階から降りてきていた。


 俺の暮らす部屋は十階にある四号室。フロアにある四つの部屋のうち角部屋にあたる、これもついていた。


 静かに唸りをあげるエレベーターの表示は四階を示している。この時間に他の止まることは殆どない。いや、それどころかこのマンションで誰かと鉢合わせた記憶は一度もなかった。


「いつもながら迎えも早い。流石、()()()()()()()だな」  


 そう、破格の理由、それはここが事故物件だからだ。それも曰くの部屋は真上の十一階。それがまともな蓄えもない、冴えない俺がこの大都会で暮らせている最大の理由だ。


 相場の家賃よりも随分安く、かつ、好条件過ぎる環境。俺は内見をするまでもなく一発でここに決めた。


「逆に本当に幽霊でも出れば、まだ少しは楽しめるって……」


 望みもしていない冗談を独り言にして漏らす。このマンションへ越して来て一ヶ月あまり、代わり映えのしない忙しい毎日を惰性に過ごす。幸福とまでは言わないものの、文句のない人並みな生活を暮らせている。だが、心には何故か隙間が生まれていた。


 そう、欲を言えば刺激が無い毎日に飽き飽きしているのだ。



『……♪』


 到着を知らせる音が聞こえた。目の前でエレベーターの扉が開くと、中から煌々と灯りが漏れる。身体を引いて扉から避けてみるが、いつも通り誰も乗っていない。


 浩介が足を踏み入れると、エレベーターの床は僅かに揺れた。向き直って階数のボタンを押そうとした時、不意に微風が顔を撫でた。同時に悪寒の様な冷たい感覚を背中に感じる。


 エントランスの扉は閉まったままだ。誰か入ってきた形跡もない。不思議に思った浩介であったが、何事も無かった様に操作ボタンに手を伸ばす。


 規則的に並んだ数字の上から二番目を押した。オレンジ色の灯りが【10】のボタンに点る。


 エレベーターの扉がゆっくりとした動きで閉じられる。パネル上部の小さな液晶に二階を示す表示が滑る。


『……♪』


「は?」


 エレベーターは音を鳴らすと二階で止まった。二階に住む住人が【下】を押したのだろうか?


 扉はまたノロノロと開き始めている。


 正直、誰かと鉢合わせて会話をする事など今の浩介には億劫に感じられていた。


 会釈だけしてすぐに【閉】のボタンを押してしまおう。ボンヤリとそんなことを考えているうちに、扉は完全に開いていた。煌々とした二階廊下の照明に目が眩む。


「あれ?」


 浩介は思わず声を漏らしていた。開かれた二階の通路には誰の姿もない。


 住人の誰かがボタンを押して、待てずに階段で降りたのか?


 顔だけ出して辺りを見るが、やはり二階通路には誰もいなかった。浩介は首を傾げて【閉】のボタンを押した。


 鈍い機械音と同時に扉は閉まり、何事も無かった様に動き始めた。行き先を示すボタンは【10】を点したまま階層を昇ってゆく。


『……♪』


「はぁ? またかよ」


 順調に動いていた筈のエレベーターは、また到着を知らせる音を鳴らした。長方形の液晶パネルには【6F】と映っている。今度こそ誰かが向こう側にいるのだろう。無意識に浩介は右の親指を【閉】のボタンの上に置いていた。


 じれったい程、扉はゆっくりと開く。


「また、誰もいない……?」


 六階も先程の二階と変わらず、照明だけが誰もいないフロアの通路を照らしていた。今度は覗くまでもなく【閉】のボタンを押した。二度も続いた()()()()()()出来事に少しだけ気味悪く思う浩介は、気を紛らわせようとスマホを取り出したのであった。


 エレベーターが動き出す。振動が両足から伝わってきた。


『……♪』


 到着を知らせる音が鳴る。


 スマホの画面から視線を動かすと、浩介は一瞬固まっていた。


「……なんで」


 階数を示すパネルには【2F】と表示が出ている。このエレベーターは間違いなく上へ向かっていたはずなのに、到着したのは何故かまた二階だった。


 見間違いのはずはない、さっきは確かに六階で止まったはずだ。それが何故、また下の階へ下っているんだ?


 扉はゆっくりと開く。


 立て続けに起きている不可思議な現象に、浩介は息を呑んで身構えていた。当然のように扉が開いた向こうには誰の姿も見当たらない。


 おかしい、いくら酒を呑んでいるとはいえ確かに十階を押したはずだ。酩酊してるわけ訳でもない。さっきまでこのエレベーターは上に昇っていたはず、どうして二階に降りてきたんだ……?


 扉はまた静かに動き出す。浩介は無意識に【10】のボタンを何度も叩いた。


『……♪』


 意識が曖昧になる。今さら酔いが廻ってきたとでも云うのか?


 エレベーターは再び止まった。


 恐る恐る視線を向けると、今度は液晶に【10F】と表示されている。


 やっぱりただの気のせいだった。ひょっとすると俺は立ったまま居眠りをしていたのかもしれない。


 安堵した浩介は左手に持っていたスマホを背広の胸ポケットにしまおうと視線を下げた。


 その直後、身体は違和感を感じ取る。エレベーターが動いている……?


 十階に止まった筈のエレベーターは扉を開くこと無く、勝手に動き出している。慌てて液晶を見ると、階層は下へと向かっていた。


「なんだよこれ、おかしいだろ……」


『……♪』


 動きが止まった。表示は【5F】、扉はこれまでよりもゆっくりと開く。


「あ……」


 開いた瞬間、五階エレベーター前には人が立っていた。明るい茶髪を結い上げた、ワンピース姿の女性と思われるその人物は会釈をするように顔を伏せる。ほんの一瞬固まっていた浩介がすぐに身体を引くと、女性はエレベーターに足を踏み入れたのだった。


 俺が降りる前に、この人が五階で【下】を押したのか……?


 操作パネルの前に立つ浩介は無意識に【1】のボタンを押していた。この女性は降るを押していた、五階の住人が下に向かう理由は恐らく外出する為であろう。怪しく思われても癪だし、ここは俺も一階を目指してる風を装うか……。


 扉は再び動きだす。


 エレベーターは揺れる。


 液晶パネルに表示された数字が滑る。


【5F】の表示は一瞬消えると、新たな階層を示す。


【6F】


「え……?」


 エレベーターは上昇を続ける。数字が6F……、7F……、8F……と続け様に変わっていった。


 背中に感じた悪寒が再び浩介を襲っていた。さっき入って来た女は後ろに立っている。操作ボタンは【1】を点したまま、エレベーターは上昇を続けていた。


 降るはずのエレベーターが昇っているのに、なんで何も反応しない? 


 初対面の男からこんな密室で、しかも深夜に急に話しかけてきたら不審に思われるかもしれない。だが、今はそれで少しでもこの異常な現象に言い訳ができるなら、その方がマシだった。


 浩介は意を決し、女性に話し掛けるように振り返った。


「あの……、これなんか、変ですよね――」


 振り向いたエレベーターの箱の中には誰もいない。浩介の声だけが狭い空間に響いた。


「……う、嘘だろ。さっき、確かに乗ってきたはずなのに」


 エレベーターは動き続ける。表示は【9F】を越えた。


『……♪』


 部屋がある【10F】に到着すると動きは止まった。既に頭の中は混乱していた。開閉のボタンを何度も叩く。



 扉は開かない。それどころかエレベーターは再び動き出している。液晶に映る数字がまた変わってゆく……


『……♪』


「どうして、なんで、ここ、何処だよ……?!」


 液晶の表示は『11F』。使用不可のシールで塞がれた【11】のボタンがうっすらと橙色の光を点している。


 このマンションの十一階、元大家が自殺した最上階の部屋があるフロア。


 浩介の頭に不動産会社から聞かされた事故物件の詳細が思い出される。


『――前の大家さんが最上階の部屋で亡くなりまして、その部屋だけは誰も弄れないんですよ……』


 その時の担当はなんとなく歯切れの悪い説明をしていた。気にも止めなかったあの時の、視線を泳がせた担当者の顔が目に浮かぶ。


 エレベーターの扉が開いた瞬間、視界が真っ白に染まった。しばらくして視界が回復すると、そこは深い闇に包まれていた。耳を澄ますと、どこからともなく女の声が聞こえてくる。足元はぬめり、冷気が肌を刺す。恐怖に震えながら、ゆっくりと顔を上げると、天井から無数の目がこちらを見つめていた。


「――うワァッ、わぁぁぁ」


 転げ回るように慌ててエレベーターから降りる。


 真っ暗の十一階のフロアにエレベーターの機械音だけが響いた。


「あ、あ、あ……」


 声が漏れる。


 暗闇の向こうに何か得体の知れない気配を感じる。


『……♪』


 エレベーターが開いたまま、音を鳴らす。


 何かの合図のようにフロアに灯りが一斉に点いた。


 短い廊下の先、一つだけ扉が見えた。


「ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい……はやく、はやくッ――」


 本能的にボタンを滅茶苦茶に押していた。ここにいたらいけない。直感的に浩介は動いていたのであった。


『……♪』


 拍子の外れたエレベーターの音が鳴る。


 扉は開いたまま動こうとしない。


「早く、はやッ……、あ……」


『――ガチャン』


 ドアノブが動く音が聞こえた。向こうに見える扉が開く。


 隙間から光が漏れだし、細く伸びていた。


「あ、あ、……あああ……」


 開かれる扉の向こうから丸い何かが見える。光を背負った()()が何かは分からない。


『……♪』


 エレベーターは動かない。機械音だけが十一階フロアに響く。


 漏れだした光の向こうからナニカが動いている。


 ゆっくりと、ゆっくりと、部屋の扉が動いた。






『……♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪』




「あああああああアア――」


 鳴り響いた到着を知らせる機械音と、浩介の絶叫がフロアに響いた。













「う……ううん」


 目が覚めると、そこは自分の部屋だった。ベッドに仰向けに倒れたまま、天井を見つめる。


 さっきのは……夢、だったのか……?


 Yシャツにスーツ姿のままベッドに寝転ぶ浩介は、つい先程までの出来事を思い出していた。びっしょりと汗にまみれた額と首をシャツの袖で拭い、安堵したように両手で顔を覆った。


 帰るなり、そのまま寝ちゃってたのか。そうだよな、あんな事、現実に起る訳がない。疲れて悪夢にうなされてただけか……。


 安堵した直後、浩介は飛び起きていた。


「時間は? 今はいったい何時だ?!」


 枕元に放り投げられたスマホを確認する。時刻は6時42分。いつも起きる目覚ましタイマーが鳴る三分前だった。


「焦ったぁ……」


 安心したように身体をまたベッドに投げ出す。


 今日は火曜日、いつも通り仕事が溜まってる。遅刻なんてしたら大目玉だ。


 身体を起こす浩介は着ていたシャツのボタンを外した。さっさとシャワー浴びて、身支度を済ませてしまおう。


 スマホの液晶が決められた時刻を知らせるアラーム画面へと変わった。


 時刻は6時45分。液晶は数字だけが大きく映し出される。


 アラームの音が聞こえた瞬間、浩介は青ざめた顔で固まっていた。バイブ機能にして音が出ない様にしていたはずのスマホから、鳴るはずのない、あの音が聞こえる。



『……♪』


 何処かでエレベーターの扉が開く音が聞こえた……





 


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