第六話 居場所
乗り慣れたメトロの改札を通り、いつも乗っていた銀色に赤いラインの入った電車を待つ。午後21時を過ぎたホームには疲れた顔の大人達が、これまたいつも通りに列をなす。
ほどなくして到着した車両のドアが開くと、中から同じような顔つきの乗客達が降りてくる。乗降口の横に並び順々に足を進める乗客に続いて、怜衣も車両とホームの段差を跨いだ。
いつもと違うのは私だけだ。
始動音と同時に動き出す乗降口のドアが閉まると、電車はゆっくりと動き出す。暗がりの車窓に映る自分の顔を見て溜め息を短く吐いた。
人魂から姿を変われたのはいいけど、これじゃただの影じゃん……。
窓に映る地下鉄の暗闇と同化する自分。顔にあるべき場所には何の部位も見えない。初めて客観的に見えた自分自身の姿に少しだけ恐怖した。他の乗客達には怜衣の姿は見えていない。それでも何故か自分を避けるように、皆距離をとっているように思える。
帰宅ラッシュの車内に違和感を覚えてしまうほどぽっかりと空いたスペース。怜衣はまた短く息ついたのであった。
『さてと、これからどうするの。行くところ無かったら家に来ない?』
先刻、釉乃から投げ掛けられた言葉を思い出す。彼女の誘いを怜衣は反射的に断ってしまった。それは彼女に対して疑念を抱いているとかではなく、ただ単純に怜衣のこれまでがそうさせていたのだった。
悪い人、いや、悪い幽霊じゃなさそうだけど。これ以上、釉乃さんにも迷惑掛けられない。
無意識に他人の親切を疑ってしまう。これは悪い癖であり、同時に自分を守り生き抜く為に培った術だ。頭の中で連想される昔の記憶、母が亡くなり身寄りの無い怜衣は遠縁の親戚からも疎まれた。
口では快く怜衣を迎え入れようと言ってくれていた母の兄妹も、縁を切ったはずの父方の親族も、皆、内心私の事を気味悪がってた……。仕方ないってわかってる。それでも本当は、少しだけ期待していた。誰か一人でも手を差し伸べて欲しかった。
母と暮らしていたアパートにこのまま暮らさせてほしいと、怜衣は大人達に頭を下げて懇願した。口では反対したものの、大人達はあっさりとその願いを受け入れた。経済的な支援を行わない代わりに名義を貸し、保証人となって怜衣をそのままボロアパートに住まわせてくれたのだ。
異常な契約ではあったものの、アパートの大家は快く怜衣を住まわせた。もともと神子島親子以外空き部屋になっていた築数十年の木造ボロアパート、ましてや自殺による事故物件となれば二つ返事で喜んだことだろう。
それから一年と数ヶ月、怜衣は一人で生活を営んだ。文字通り必死に生きていた。惣菜屋のバイト帰り、帰宅した部屋はいつもじっとりとした陰鬱な空気を漂わせる。初めこそ気が滅入った怜衣であったが、いつの間にかそれも日常に変わっていた。
電車は西新宿の駅に到着する。ドアが開くと同時に、流れるように進み出す多様な靴を履いた足。
同じように歩き出す。いつもの改札、地上へ向かういつもの冷たい色の階段。
気がつくと怜衣はあのアパートの前に立っていた。
馬鹿だな私。死んでも帰る場所が、ここしかないなんて……。
錆びだらけで朽ち欠けた階段を上る。灯りの灯る事の無い隣の部屋の前を通り、消えかけの202と記された部屋の扉の前に立つ。いつも通り部屋の鍵を探そうとしたものの、自分の黒い右手を見て思い出す。
この身体じゃあ鍵なんて必要ないか……。
自嘲気味に嗤ってみると、急に気持ちが沈む気がした。泣いている筈なのに黒い顔には涙さえ流れない。両手で顔を覆うとその場にしゃがみこんだ。
私も死んでる……?
ある閃きが浮かぶ。頭の片隅では都合の良い自分の願望であるとわかっている。それでも今日一日体験した、異常な経験に期待せずにはいられない。
ひょっとして……、死んじゃったお母さんも……、ここへ帰って来ている……?
立ち上がると部屋の扉に近付いた。木製の薄っぺらい扉をすり抜けて中に入る。鼻も無い顔は何故だかいつも通りの匂いを感じている。
「お母さん……、そこにいるの……?」
ワンルームの部屋は扉を隔てて全てが見渡せる。暗がりの中、怜衣は思わず絶句してしまった。
「なにこれ……。なんで……、私の居場所が……」
カビの生えた黄ばんだ砂壁。色の変わった畳がしかれた六畳の小さな居住空間はがらんどうだった。あるべく場所にあるはずの怜衣の唯一の家財は何処にも見当たらない。
あるのは部屋の中央に敷かれた古臭いデザインの絨毯だけ。母親の最後の痕跡を隠すそれだけが部屋の中に取り残されていた。
なんでよ……、お母さんも何処にも居ない……、私の荷物も、想い出も、全部無くなってる……。こんなのって……、あんまりだよ……。
悲しみが引き潮のように大きく変わり返ってくる。心の中まで真っ黒に変わっていく気がした。もう自分の居場所は何処にもないのだと、突きつけられた現実に声も出なかった。
「あちゃー、全部持ってかれちゃってるか。死んじゃった途端すぐ捨てちゃうなんて、ここの大家さんてけっこう薄情な人なんだね」
突然聞こえた声に怜衣は驚いて顔をあげた。狭い玄関に佇む女性の姿が目に入る。
「釉乃さん……、どうして」
数刻まえに別れた筈の釉乃が何故か此処に居る。黒い顔を左腕で拭う怜衣は、険しい表情で眉を寄せる彼女に問いかけた。
釉乃は昼間と同じような優しい笑みを浮かべると、すぐに困ったよう両手を合わせて口をひらいた。
「ごめんね、やっぱりレイちゃんが心配でこっそりついてきちゃった」
「釉乃さん……」
頭を下げた彼女は顔をあげると再び笑って続けた。ただ、不思議と彼女の顔はさっきより頼もしく見える。
「やっぱりウチにおいで。でっかいベッドもあるし、ゆっくり休めるよ。初めての事ばかりで疲れてるだろうから」
久しぶりに触れた他人の優しさに、気がつけば怜衣は何度も頷いていたのであった。