第五十八話 歪みはじめた
曇天の昼下がり。新宿歌舞伎町の片隅、まばらな人ごみを縫うように歩く。
「カシマサンの噂、最近めっちゃ広まっとるらしいやん?」
隣を歩く、私よりも少し目線の低い少女が独り言のように呟いた。彼女の方へ顔を向けると、何やら含んだような笑みを浮かべている。
「……ほとんど釉乃さんがやってくれてるだけ」
私はといえば、煮え切らない複雑な表情で答える。ぶっきらぼうな私の言葉に、鈴那は茶化すように笑った。
「けど、ほんますごいやん? 動画で呪いの歌を流したり、街中に噂を広める名刺をばら蒔いたり」
鈴那はパッと明るい笑顔で続けた。
「真面目な話、レイちが思ってるよりずっと広まっとるで? あー、うちも気張らんとなぁ……」
「気張るって……鈴那ちゃんだってもう十分やってるでしょ」
私は溜息混じりに視線を前方へ戻した。
歌舞伎町の空気は、昼間だというのにどこか澱んでいる。湿り気を帯びたアスファルトの匂い、排気ガス、そして看板から放たれるどぎつい色彩の残滓。
私――神子島怜衣は、この街の喧騒に溶け込みながら、自分という存在が希薄になっていくような感覚を覚えていた。
それもそのはずだ。私はもう、この世界の「表側」に属する人間ではない。
数ヶ月前、私は死んだ。そして今は、都市伝説「カシマサン」の器として、この現世に留まっている。
「うちの役割は、新しい『メリーさん』になることやからな! 噂は生モノや。常に新鮮な恐怖を供給し続けなあかん」
鈴那は楽しげに、ステップを踏むような足取りで歩く。彼女が持つスマホの画面には、SNSで拡散される「カシマサンの呪い」の文字が躍っていた。釉乃が仕掛けた呪いの動画、鈴那が撒いた不気味な名刺。それらがインターネットという血管を通じ、この街の地下を流れる毒のように浸透している。
「……でも、少し早すぎる気がする」
「ん? 何が?」
「噂が広まるスピード。まるで、誰かが後ろから背中を押しているみたいに……」
私が言いかけた、その時だった。
◆
「ねえねえ、そこのツインテールのお姉さん! ちょっとお話しない?」
背後から飛んできた軽薄な声に、私は思わず足を止めた。
振り返ると、派手なシャツを羽織り、髪をこれでもかと盛り上げた若い男が二人、ニヤついた顔で立っていた。典型的な、この街の「キャッチ」か「ナンパ師」だ。
私は反射的に鈴那を背に隠そうとしたが、男たちの視線はまっすぐに私を射抜いていた。
(ちょっと待って……なんで私が、見えるの?)
幽霊である私の姿は、通常、波長が合う人間か、霊感の強い者にしか認識できないはずだ。あるいは、私が意図的に姿を現している時だけ。今は力を抑え、ただの「通行人」に擬態しているつもりだった。
「お姉さん、スタイル良すぎ! モデルさん? どっかの店の子?」
男の一人が、馴れ馴れしく私の肩に手を伸ばしてきた。
その指先が、私の冷たい肌に触れようとする。幽霊である私に触れれば、普通の人間ならその「異常な冷たさ」に驚愕し、本能的な恐怖を抱くはずだ。
「触らないで」
私は男の手を払い除けた。
パシッ、と乾いた音が響く。男は一瞬きょとんとしたが、すぐにまた下卑た笑みを浮かべた。
「おっ、冷てぇ! 手、冷え性すぎだろ。温めてやろうか?」
男は怯えるどころか、さらに距離を詰めてくる。
おかしい。
私の存在から放たれているはずの「死の気配」を、この男は全く感じ取っていない。それどころか、彼の瞳の奥には、異常なまでの「熱」が宿っていた。
「レイち、行こ。こんなん構ってたら時間の無駄や」
鈴那が私の腕を引く。彼女の顔にはいつもの余裕はなく、僅かな困惑が浮かんでいた。彼女もまた、この男たちの放つ違和感に気づいているようだった。
「待てよ、冷たくすんなって。今夜さ、面白い集まりがあるんだ。カシマサンの儀式、って知ってる? 今、界隈で超流行ってるんだけど」
その言葉に、心臓が凍りつくような感覚が走った。……いや、私に鼓動する心臓など、もうないのだが。
「……カシマサンの、儀式?」
「そうそう! 噂の名刺を持って、特定の廃ビルに集まるんだよ。そこで『脚』を捧げる真似事をすると、願いが叶うんだって。お姉さんみたいな美人が来たら、カシマサンも喜んじゃうかもよ?」
男はヘラヘラと笑いながら、ポケットから一枚のカードを取り出した。
それは、釉乃さんが配っていたはずの名刺だった。だが、何かが違う。私たちが作ったものにはない、どす黒い紋様が縁取られ、奇妙な悪臭を放っている。
「……それ、どこで手に入れたの」
私の声が、自分でも驚くほど低く響いた。周囲の空気が急速に冷え込み、街路樹の葉がカサカサと震える。
「え? ネットで知り合った奴から……。おい、なんだよ急に寒く……」
男が異変を察知し、身をすくめた瞬間。私は鈴那の手を引き、人ごみの中へと滑り込んだ。
「走るよ、鈴那ちゃん!」
「わ、わかった!」
背後から「待ちなよ!」という声が聞こえたが、無視して路地裏へ駆け込む。入り組んだ雑居ビルの隙間、影が濃く落ちる場所まで来ると、追っ手の気配は消えていた。
私は壁に背を預け、荒い呼吸を整える鈴那を見つめた。幽霊である私に息切れなどないが、精神的な動揺が、自身の輪郭を揺らさせていた。
「……今の、見た?」
「うん……。あの名刺、うちが見たやつとデザインが微妙に違ってた。それに、あの男たちの目……。なんか、薬やってるのとは違う、もっと別の何かに当てられてるみたいな……」
鈴那が震える指で自分の腕をさする。
カシマサンの噂を広めているのは、私と釉乃さんだ。
恐怖を集め、私の存在を確定させ、この街に「カシマサン」という怪異を定着させる。それが釉乃の計画であり、私が存在し続けるための糧だった。
だが、今の男が言った「儀式」なんて、私たちは仕掛けていない。
「願いが叶う」という改変も、私たちの意図とは正反対だ。カシマサンは奪うものであり、与えるものではない。
「誰かが……混ぜ物をしてる」
私は呟いた。
純粋な恐怖の噂に、別の、もっとどろりとした「欲望」を混ぜ込み、私たちの制御を超えた方向へカシマサンを誘導しようとしている存在がいる。
「レイち……。うち、あの男たちの持ってた名刺に似たやつ、最近掲示板でも見た気がする。『本物のカシマサンに会える場所』ってスレッドで」
鈴那の言葉に、私は歌舞伎町の空を見上げた。
鉛色の雲が、摩天楼に突き刺さるように低く垂れ込めている。
私たちが蒔いた種は、いつの間にか、私たちの知らない毒の花を咲かせようとしているのかもしれない。
あの男たちの無機質な熱狂。
幽霊を恐れない、狂った適応力。
「カシマサン」という怪異が、私の意思とは無関係に、この街の闇と共鳴して変質し始めている――。
「……釉乃さんに連絡してみよう。広まり方が、おかしい」
私の言葉に、鈴那は神妙な顔で頷き、スマホを取り出した。
街の雑踏が、まるで巨大な獣の咀嚼音のように聞こえる。
私は自分の透けた手を見つめた。
その指先が、少しだけ、先ほどよりも黒く濁っているように見えた。
都市伝説は、人々の口を介するたびに姿を変える。
今、この新宿の地下で、私であって私ではない「何か」が、産声を上げようとしていた。




