第五十七話 タニダ
「タニグチ……タニダ……」
舞凛は繰り返した。そのありふれた響きを持つ名前が、突然、不気味な暗号のように感じられた。紫色のコート。冬でもないのに。やけに綺麗な靴。そして、「私の足はどこにあるか知っているか?」という不気味な言葉。
ユキは震える手でカフェの砂糖の袋を弄んでいる。舞凛は彼女の青白い顔を見つめた。
「ユキ、その『紫コートさん』って、シュウちゃん以外にも客として来たことある?」
「さあ……でも、うちの店、そういう客の情報は徹底して隠すから。ただ、シュウちゃんは、その人と会うようになってから、少し変わったって言ってた。『最近、自分の足音が聞こえない気がする』とか、『鏡に映る自分が妙に遠い』とか」
舞凛の背筋に、再び冷たい汗が伝った。足音。鏡。カシマさんの都市伝説が持つ、じめじめとした湿り気が、現実の輪郭を侵食し始めている。
「……じゃあ、シュウちゃんが最後に目撃されたっていう公園って、どの辺り?」
ユキはか細い声で答えた。
「庚申橋の近くの、古びた公園。あそこ、夜になると街灯が一つ切れてて、めちゃくちゃ暗いんだ」
「庚申橋…」
舞凛は頭の中で地図を広げた。庚申橋は、線路沿いの裏道から少し入った場所にある。サキが客を捕まえていた駅前とも、アヤやミカの生活圏とも、直線距離で繋がっているエリアだ。そして、舞凛自身も、何度か客待ちで利用したことのある、この街の「影」の部分だった。
「ユキ、今日のところは解散しよう。私はちょっと、その庚申橋の辺りを見てくる」
「えっ、舞凛、やめて!危ないよ!」
ユキは舞凛の手を掴んだが、舞凛は振り払った。この異常事態から目を背けることは、もはや自分自身の命綱を切るに等しい。
「大丈夫。何かあったらすぐ連絡する。ユキは、今日のところは誰かと一緒にいるんだよ。一人になるな」
舞凛は立ち上がり、ユキの心配そうな視線を背中に受けながら、カフェを出た。
◆
深夜零時。
舞凛は庚申橋近くの古びた公園に立っていた。昼間は子供の笑い声に満ちているであろう場所も、今は深い闇と静寂に包まれている。
公園の奥、ユキの言っていた通り、街灯が一つ切れている。その真下に、ブランコが二つ。微かな風に揺れ、「ギー……、ギー……」と、軋んだ音を立てている。まるで、誰かの骨がきしむ音のようだ。
舞凛はスマホのライトを頼りに、公園の地面や遊具を照らしていく。ただの公園の光景。だが、ここが四人目の女の子の最後の目撃場所だと思うと、空気が鉛のように重い。
「シュウちゃん……」
舞凛が呟いた瞬間、ブランコの軋む音がピタリと止んだ。
周囲の闇が、一瞬だけ、濃くなった気がした。舞凛は息を詰める。
誰もいない。風も止んだ。ただ、静寂が耳鳴りのように響いている。
(気のせいだ、疲れてるんだ)
そう自分に言い聞かせ、舞凛は公園の出口に向かって一歩踏み出した。
その時、足元で「カツン」という、乾いた音がした。
舞凛は反射的にしゃがみ込み、スマホのライトを地面に向けた。
--綺麗な、靴だ。
茶色の、編み上げられた革靴。光沢があり、泥一つ付いていない。まるで新品のように磨き上げられている。男物にしては少し小さく、上品な作りだ。
舞凛の心臓が、喉まで跳ね上がった。
ユキの言っていた「やけに綺麗な靴」
舞凛は恐る恐る、靴の周りを探った。持ち主はいない。靴だけが、ブランコの下、土の上に、不自然に置かれている。まるで、持ち主がその場で、靴だけを脱いで、消えてしまったかのように。
舞凛は震える指でその靴に触れた。革は冷たい。
「……タニグチ、タニダ」
その名前が頭をよぎった瞬間、公園の入り口に、微かな物音がした。
「誰かいるの?」
舞凛は声を絞り出した。声が震えている。
返事はない。ただ、闇の奥から、何かを引きずるような、「ズリ……、ズリ……」という、湿った音が近づいてくる。
舞凛は急いで立ち上がり、靴から目を離せないまま、後ずさりする。
「ズリ……、ズリ……」
音は、確実に、公園の闇の中から迫ってきている。それは、足音ではない。足がないものが、何かを地面に擦りつけて移動している音だ。
舞凛は意を決して、スマホのライトを音の方向へと向けた。
闇が、揺れた。
街灯の切れた場所に、何かが立っている。
それは、人影のようでありながら、決定的に何かが違っていた。コートを着ているようだが、その色は闇に溶けている。そして、コートの下には、本来あるべきものが、ない。
脚がない。
その人影は、胸から上だけが、宙に浮いているように見える。だが、確かに、その胸の下からは、長く、ぬめるような何かが地面に引きずられ、「ズリ、ズリ」と音を立てていた。それは、まるで、内臓が引き伸ばされたか、あるいは、肉の塊を無理やり地面に這わせているかのような、生理的な嫌悪感を催す動きだった。
そして、その人影が、顔を上げた。
舞凛は、その顔を見た瞬間に、すべての思考が凍りついた。
それは、冴えない中年男性の顔だった。
数時間前、舞凛が「キモ」と呟き、別れた、作品の最後の客。
なぜ、彼がここに?なぜ、彼は脚がない?
いや、違う。よく見ると、その顔は、ただの「冴えない中年男性」ではない。
その目は、見開かれ、虚ろで、生気がない。口元はわずかに開き、何かを渇望しているかのような、歪んだ笑みを浮かべている。
そして、その瞳の奥には、舞凛の姿が、恐怖に青ざめたまま、はっきりと映っていた。
人影は、ゆっくりと、しかし確実に、舞凛に向かって滑ってくる。
「ズリ……、ズリ……」
湿った、重い音。
舞凛は、恐怖で声が出ない。逃げなければ。だが、足が地面に縫い付けられたように動かない。
その時、紫色のコートが、闇の中で微かに光を反射した。
そして、その男、あるいは、その男の形をした何かが、かすれた、風のような声で尋ねた。
「ワタシノ、アシハ……ドコニアルカ……シッテイルカ?」
答えを間違えると、脚を失うか、真っ二つにされる。
都市伝説の呪文が、今、目の前の現実に、異臭を放ちながら立ち現れた。
舞凛の頭の中を、チャットのメッセージが駆け巡る。
「カシマさん」「脚がない女の幽霊」
女? だが、目の前にいるのは、あの客だ。
(違う!答えろ!答えを言わないと、殺される!)
舞凛は、かろうじて口を開き、震える唇で、都市伝説の「正解」を、絞り出そうとした。
しかし、その瞬間、男の顔が、わずかに横に傾いた。
「チガウ」
男は言った。
「ソレハ、マチガイダ」
声は、先ほどよりも、はっきりと、重みを増していた。
「ワタシガ、キイテイルノハ、カシマトイウ、オンナノコトデハナイ」
男の顔が、さらに歪む。その表情は、まるで、人間ではない何かが、無理やり人間の皮を被っているかのような、悍ましい違和感を孕んでいた。
「ワタシガ、サガシテイルノハ、タニダのアシだ」
舞凛の視界の隅で、ブランコの下に置かれた、綺麗な革靴が光った。
「オマエノ、ソノ、綺麗なアシデ、フミツケテイル。ソレガ、タニダノアシダ」
舞凛は、反射的に、自分の足元を見た。
何も、ない。
ただアスファルトがあるだけ。
しかし、男の視線は、舞凛の足元に、釘付けになっている。
「ドケ」
男が、低い唸り声を上げた。
そして、そのぬめる肉の塊のような下半身が、地面を激しく打ち、一気に舞凛に向かって突進してきた。
ズシャアアアアァッ!
舞凛は恐怖で叫び声を上げ、その場を飛び退いた。
男がいた場所の地面には、コンクリートに深く、血と泥が混じったような、黒い引きずり跡が残っていた。その粘着質な痕跡は、カシマさんという都市伝説の「幽霊」とは違う、もっと生々しく、現実的な「何か」の存在を訴えかけていた。
舞凛は、振り返ることもせず、公園を飛び出した。全速力で、夜の街を駆ける。ヒールの高いブーツが、アスファルトを叩きつける音が、自分の足音なのか、それとも後ろから迫る「ズリ、ズリ」という音なのか、もう判別がつかない。
息を切らし、舞凛は線路沿いの裏道、いつもの溜まり場へと逃げ込んだ。非常階段を駆け上がり、錆びた手すりに身を預ける。
夜明けまで、あと数時間。
舞凛は震える手で、スマホを取り出した。グループチャットを開く。
「ねぇ、ヤバくない?」「また増えたんだって」「絶対アレだよ、アレ」
ざわついたメッセージが、ただの都市伝説の噂話ではなく、自分たちのすぐ隣にある現実の恐怖を語っていたことに、今更ながら気づく。
「……タニダの、アシ」
舞凛は、その言葉を、反芻した。
タニダという男は、本当にいたのだろう。そして、何らかの理由で脚を失い、誰かがそれを隠した。彼の足は、どこか別の場所に「置かれている」。
そして、「紫コートさん」と客に呼ばれていたあの男は、タニダではない。タニダの「皮」を被り、タニダの足を探して、この夜の街を彷徨っている、「何か」だ。
なぜ、あの「何か」は、夜の街の女の子ばかりを狙うのか?
舞凛は、ふと、視線を足元に落とした。
非常階段の床。錆びた鉄板の隙間に、何かが挟まっている。
舞凛は、恐る恐る、それを拾い上げた。
それは、小さな、銀色のロケットペンダントだった。安っぽいアクセサリーだが、開けると写真が入っている。
中には、まだあどけなさの残る、中学生くらいの少女のぎこちない笑顔があった。
そして、そのペンダントの裏側には、細い文字で、こう刻まれていた。
「K.R. 3/15」
K.R.……カシマ・レイコ?
3月15日。一体、何の日だ?
舞凛は、自分の心臓が、もう二度と正常なリズムに戻ることはないだろうと悟った。
あの「何か」は、タニダの足を探しているのではない。
カシマレイコの伝説を、意図的に現実化させようとしている、別の何かなのだ。
そして、その目的は、夜の街の、居場所のない女の子たちの身体を使い、都市伝説の呪いを、この街の「影」に根付かせること。
舞凛は、ペンダントを強く握りしめた。夜の闇は、まだ明けない。
(……次は、たぶん、絶対……、私だ)
非常階段の、古い鉄板の床に、舞凛のブーツの底が、「カツン」と、乾いた音を立てた。
その瞬間、舞凛は気づいた。
彼女が、ユキと別れた後、公園で拾い上げた、あの綺麗な革靴。
あんなものは、存在しなかった。
あの時、地面には、何もなかった。舞凛が触れたと思ったのは、ただの土の塊だった。
では、あの時、自分の足元に「カツン」という音を立てたものは、一体、何だったのか?
舞凛は、もう一度、足元を見た。
見覚えのある、茶色の、綺麗な編み上げ革靴が、非常階段の床に、不自然に置かれていた。
そして、その靴の片方は、何かが強く引きずられたように、つま先が、ぐにゃりと、歪んでいた。
「ズリ……、ズリ……」
非常階段の下から、再び、湿った、重い音が響いてきた。




