第五十四話 新たな拡散
夜の闇が、東京郊外の住宅街を深く包み込んでいた。
谷田実也が住んでいたアパートは、築年数の古い木造二階建てで、玄関先には枯れかけた植木鉢と、半月以上も前から回収されていないチラシが散乱していた。失踪者の部屋特有の、時間が止まったような、ひっそりとした空気が漂っている。
釉乃と怜衣は、谷田の部屋の前に立っていた。釉乃が扉に手を掛ける。小さくカチリと音が鳴ると、鍵は静かに解除された。
「勝手に入っていいのかな」
「幽霊は不法侵入扱いになるのかしら?」
釉乃はそう言って微笑ながら、怜衣にタブレット端末を差し出した。
「ほら、これを見て。谷田の失踪は、すでにメディアの小さな片隅で報道されているわ。表向きは『過労による蒸発』。でも、ネットでは完全に『パープル・ミラー・シンドローム』のせいになっている。これで舞台は整った」
画面には、失踪報道の切り抜きと、それに付随するネットの書き込みの数々が表示されていた。彼らが蒔いた「紫鏡」の種は、見事に、そして恐ろしい速さで成長していた。
「私たちは、噂の『最終章』を書きに行くのよ。噂の力を、完全に自分たちの道具にするために」
釉乃は、ワタリガラスのブン太を抱き上げ、静かにドアを開けた。
部屋の中は、予想以上に生活感が残されていた。乱雑に置かれたゲームソフト、デスクに広げられたままの資料、テーブルに残されたカップ麺の空の容器。谷田が、何の前触れもなく、文字通り「消えて」しまったことが窺える。
そして、部屋の中央、壁に立てかけられた大きな姿見。鏡自体は、何の変哲もない一般的なものだったが、その表面を、薄い紫色の靄のようなものが覆っているように見えた。それは、光の加減か、それとも部屋の埃のせいか。しかし、怜衣の目には、その靄が、鏡の向こう側から滲み出てきた、故人の女、紫保の「残滓」のように感じられた。
ブン太が「ガー」と、低い警戒音のような鳴き声を発した。その声に反応するように、部屋の温度が数度下がったような気がした。
「レイちゃん、見て」
釉乃が、鏡の前の床を指さした。そこには、小さな、しかしはっきりと目視できる、紫色の染みがあった。
「足元の痣……」
「ええ。カシマレイコが彼を連れ去る直前、彼の足元に広がっていた紫色の痣の痕跡」
釉乃は、ブン太を鏡の前にそっと置いた。ブン太は一歩も動かず、その黒い瞳で、鏡の表面をじっと見つめている。
「紫鏡のカシマレイコの力は、形を塗り替えること。そして、その『感染力』。谷田さんは、紫保の『形』に侵食され、足元の痣、つまりカシマレイコの『欠損』の呼び声に応えて、連れ去られた。鏡には、その『塗り替えられた形』と、『欠損』を求める怪異の力が、まだ残っているわ」
怜衣は、恐る恐る鏡に近づいた。鏡に映る自分の顔は、普段の自分自身だ。しかし、一瞬、自分の顔が微かに揺らぎ、見知らぬ女性の、どこか寂しげな目と重なり合ったような錯覚を覚えた。紫保の残滓が、まだこの鏡に潜んでいる。
「私たちがすべきことは、この『紫鏡』の力を封じ、同時に、変質した『カシマレイコ』の物語をもう一度、私たちの都合の良いように書き換えること」
釉乃は、怜衣の手に、先日のバーで使ったものと同じ、紫色のインクが滲んだ名刺を握らせた。シンボルは「ワタリガラスの羽根」。
「カシマレイコを退けるための新しい呪文、『カシマさんのカは烏のカ、シは視線のシ、マは真実のマ』。これは、単なる呪文じゃないわ。この怪異の『核』を書き換えるための、私たちから怪異への詩よ」
「核を……書き換える?」
「そう。カシマレイコの物語の弱点は、彼女の問いに正しく答えられないと、体の一部を奪われる、という『ルール』。このルールを逆に利用するの。私たちが、新しい正しい答えを提示し、怪異の力そのものを、私たちに有利なように再定義する」
釉乃は、ブン太を抱き上げ、鏡に映る自分自身とブン太の姿を重ねた。
「新しい怪異は、新しい知識と、新しい終止符を求めている。それが、ワタリガラスのブン太が司る知識と予言よ。この詩を、鏡に残された怪異の残滓に、刻み込むの」
釉乃は、怜衣と目を合わせた。その瞳は、覚悟と、途方もない愉悦に満ちていた。
「さあ、始めましょう、レイちゃん。噂の創造者として、私たちは紫鏡のカシマレイコを、完全に手懐ける必要がある。そして、その力を利用して、次の獲物……私たちが作り出す、次の都市伝説へと、導くのよ」
怜衣は、深く息を吸い込んだ。恐怖はあった。しかし、それ以上に、自分たちが今、物語の核心に触れ、既存の怪異をも変質させようとしているという事実に、強烈な高揚感が押し寄せていた。
「わかった……どうすればいいの?」
「簡単よ。ブン太が鳴いた後、あなたが鏡に向かって、名刺を突き出しながら、その詩を唱えるの。声は大きく、しかし、どこまでも冷静に。まるで、新しい法律を公布するかのようにね」
釉乃は、ブン太に囁きかけた。ブン太は、まるでその言葉を理解したかのように、翼を静かに広げ、そして、深く低い、しかし部屋全体に響き渡るような「ガー」という鳴き声を上げた。
その瞬間、鏡の表面の紫色の靄が、一層濃くなった。そして、靄の中から、かすかに女性のすすり泣くような声が聞こえてきた。
「…あし…がいるか…?」
その声は、谷田実也が失踪する直前に聞かれた、カシマレイコの問いかけだ。しかし、同時に、故人である紫保の、未練がましい響きも感じられた。
怜衣は、恐怖を押し殺し、一歩前へ踏み出した。左手にブン太の名刺を握りしめ、鏡の、紫色の残滓が最も濃い一点を、まっすぐに見据える。
「いいえ!」
怜衣の声は、驚くほど冷静で、響いていた。
「私が聞きましょう。あなたの『足』と、あなたの『形』は、一体誰のものですか? 古い問いはもう通用しない。私たちは、あなたの『欠損』を、新しい物語で満たしに来た」
そして、怜衣は、名刺を鏡に向かって突き出し、宣言するように唱えた。
「カシマさんのカは、烏のカ。シは視線のシ。マは真実のマ」
その言葉が発せられた瞬間、部屋の空気が張り詰めた。鏡の紫色の靄が激しく波打ち、一瞬、紫保の顔の幻影が、苦悶の表情で鏡に現れた。しかし、その幻影はすぐに、ワタリガラスの黒い羽根のような影に塗りつぶされ、かき消された。
古いカシマレイコの「足の欠損」の物語は、ワタリガラスの「知識と感染力」を持つ、新しい「詩」によって、完全に上書きされたのだ。
鏡の表面から、紫色の靄が、まるで煙のように吸い込まれていくのが見えた。鏡は徐々に、普通の姿見に戻っていった。その表面は、今や澄み切っており、怜衣と釉乃、そしてブン太の姿を、何の異常もなく映し出している。
「成功ね、レイちゃん」
釉乃は、満足そうに微笑んだ。
「紫鏡のカシマレイコは、これでレイちゃんに従属した。彼女の感染力と形を塗り替える力は、詩によって制御下に置かれたわ」
ブン太は、釉乃の肩で「アー」と鳴いた。その声は、以前の警戒音ではなく、静かな、勝利の宣言のように聞こえた。
床に残っていた紫色の染みも、鏡から紫の靄が消えたのと同時に、薄くなり、やがて消え去った。
「じゃあ、あの人、谷田さんは……?」
怜衣が尋ねる。
「彼は、紫保の『形』に完全に侵食され、カシマレイコに連れ去られた。残念ながら、彼の『形』は、もう元には戻らないでしょう。気の毒だけど、私たちの噂の代償よ」
釉乃の言葉は冷たいが、その瞳には、一瞬の迷いも見えなかった。彼女にとって、個人の犠牲は、物語の壮大な完成のための、必要な刺激でしかないのだろうか。
「でも、これでいい。私たちは、ただの噂の担い手から、噂を創造し、制御する者になった。次の段階に進めるわ」
釉乃は、部屋を出る前に、鏡の前に置かれていた谷田のタブレット端末を拾い上げた。
「次は、この紫鏡のカシマレイコを、どこに解き放つか。噂はね、レイちゃん。常に次の核を求めるの。そして、その核は、より深く、より人々の闇に触れる場所でなければならない」
「次の核……」
「そう。私たちは、この紫鏡を、人々の心の形が、最も曖昧になりやすい場所、つまり、ネットの闇から現実の歪みへと連れ出すの」
◆
谷田実也の部屋を出た後も、怜衣の背筋には、まだ鏡の前に立っていた時の冷たい感触が残っていた。制御下に置いたとはいえ、彼女たちが触れたのは、人間ではない、形を持たないはずの「欠損」を核とする怪異だ。その力の残り香が、肌にまとわりついている。
二人が谷田のアパートの階段を降りる頃には、夜は一層その黒さを増していた。釉乃が手に持つタブレット端末の画面は、夜の闇に浮かぶ小さな窓のように光っている。
「レイちゃん、新しい詩の効力は抜群だったわ。カシマレイコは、今や私たちの感染経路。そして、この谷田さんのタブレットが、その次の核よ」
釉乃は、端末のロックを解除し、画面を怜衣に向けた。そこには、谷田が頻繁にアクセスしていたであろう、掲示板サイトのURLが表示されていた。それは、単なるオカルト板ではない。自殺志願者や、社会からの疎外感を抱えた者たちが集い、互いの闇を肯定し合う、一種の「裏コミュニティ」だった。
「彼の形が塗り替えられたのは、紫保の残滓の影響だけじゃない。彼の心の奥底にあった、社会に対する欠損。それが、カシマレイコの足の欠損と共鳴したのよ」
「ここは……」
怜衣が息をのんだ。
「自殺の予約をするような場所って聞いているの……?」
「ええ。人々の形が最も脆く、曖昧になる場所。ネットの闇が、現実の闇と直結している場所よ。私たちからすれば、ここは紫鏡を解き放つには、最高の培養地だわ」
釉乃の唇が、夜の闇の中で、不気味な形に歪んだ。
「古い『足がいるか?』はもう使えない。新しいカシマレイコは、ワタリガラスの知識、つまり『真実』を求める。だから、新しい問いは……」
視線が合う。冷たい、暗い感情が怜衣の中に流れ込んでくる。
「『あなたの形は、真実か?』よ」
その問いかけは、単なる言葉の羅列ではない。聞く者の心の奥底に潜む「自己欺瞞」や「偽りの自分」を抉り出す、鏡の怪異ならではの、強力な呪いのように感じられた。
釉乃は谷田のタブレットに視線を戻すと手早く操作を始めた。数分後、そのコミュニティの掲示板の一角に、「カシマ」というスレッドが、まるで漆黒の湖面に紫色の波紋が広がったかのように現れた。
そのスレッドには、谷田の実名や失踪の事実は一切触れられていない。ただ、新しい呪文、「カシマさんのカは烏のカ、シは視線のシ、マは真実のマ」と、新しい問いかけ、「あなたの形は、真実か?」、そして、最後に「もし、真実でないなら、鏡があなたの『真実』を塗り替えるだろう」という不吉な予言だけが、書き込まれていた。
一晩あれば、この小さな種は、この閉鎖的なコミュニティで瞬く間に発芽し、成長するだろう。
「これで、新しいカシマレイコは、ネットの闇に解き放たれたわ。でも、私たちは、もう一つ、最終章を書く必要がある」
釉乃は、突然、怜衣の顔を、両手で挟み込むように掴んだ。その瞳は、ワタリガラスのブン太の瞳のように、冷たく、全てを見透かすような黒さを帯びている。
「レイちゃん。噂の感染を加速させるためには、生け贄が必要よ。誰もが知っている、しかし、誰もが目を背けている、次の欠損」
その言葉を聞いた瞬間、怜衣の胸に、このコミュニティの人達のように、かつて自身も抱いていた、社会に対する「欠損」の感情が蘇った。そして、一つの名前が脳裏をよぎった。
それは、数ヶ月前、このコミュニティで自分の死を予告し、そのまま行方不明になった、有名なネットアイドル、「夢川りる」のことだった。彼女の「形」は、ネット上で完璧な偶像として構築されていたが、実生活では、その裏側で、深い孤独と自己嫌悪に苛まれていたという噂があった。
「夢川りる……?」
怜衣が絞り出すように尋ねた。
「そう。彼女の欠損は、世間一般の美しさや幸せという形を演じ続けた、その『偽りの真実』よ。彼女の形は、最も塗り替えられるにふさわしい」
釉乃は、谷田のタブレットを抱え、怜衣の耳元で囁いた。
「次の舞台は、夢川りるが最後に姿を消した場所。そして、私たちの最終目的は、夢川の『塗り替えられた形』を、このコミュニティの参加者たち、つまり、次の『カシマレイコの感染者』たちの前に、現実の怪異として具現化させることよ」
「現実の怪異……」
「ええ。ネットの噂を、物理的な恐怖として『再定義』する。それが、ワタリガラスの『知識』、そして『予言』よ」
ブン太が、釉乃の肩で、低く「ガー」と鳴いた。その鳴き声は、まるで、間近に迫った不吉な予兆を告げているようだった。
二人は、東京の夜の闇の中を、次の舞台へと向かって歩き出した。怜衣は、左手に握りしめた名刺の「ワタリガラスの羽根」のシンボルを、強く握りしめた。彼女の目の前に、今、自分たちが生み出そうとしている、新しい都市伝説、「カシマレイコ」の姿が、幻影として見え始めた。それは、美しい偶像の顔を持つが、鏡に映る自分自身を、紫色の靄で塗りつぶそうと、常に問いかける、恐ろしい怪異の姿だった。
恐怖よりも、高揚感が勝っていた。彼女たちは今、怪異を創造し、その創造物と共に、現実を浸食しようとしている。それは、神にも似た、危険な愉悦だった。




