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第五十二話 紫


 谷田実也は、その場に崩れ落ちた。街の喧騒が、一瞬にして遠のいていく。彼の心臓は、激しい音を立てていた。それは、恐怖だけではなかった。彼の左手の甲から、ゆっくりと、紫色の細い線が、血管に沿って広がっていくのが見えた。まるで、毒が体内に回るかのように。


 あれは、鏡の中にいた紫保の「形」の一部だったのか。そして、それは、彼の体に入り込んだ。実也の脳裏に、あの「紫鏡」の言葉が蘇る。

「形が違うだけ……」

 紫保は、形を変えて、彼の中に入り込もうとしているのか。彼の目に、恐怖の感情が色濃く浮かび上がった。そして、その瞳の奥には、わずかながら、紫色の光が宿り始めていた。


 翌朝、実也は自宅のベッドで目を覚ました。飛び起きた彼は、まず左手を確認した。昨夜、光の粒が付着し、紫色に染まり始めたはずの甲は、何事もなかったかのように元の肌色に戻っていた。


「夢……だったのか?」


 胸を撫で下ろすが、昨夜の恐怖が単なる悪夢で片付けられるものではないことを、全身が知っていた。起き上がり、洗面所に向かう。鏡に映る自分の顔は、寝不足のせいか、少し青白い。

顔を洗い、ふと、自分の瞳を見た。昨日、紫色の光が宿り始めた気がした、あの瞳だ。特に変わったところはない。安堵した実也は、そのままいつものように髭を剃り始めた。


 その時だった。鏡の中の自分が、僅かに、微かに、先に笑ったような気がした。

実也は手を止め、鏡の中の自分を凝視した。鏡像の顔は無表情に戻っている。気のせいだ、と実也は自分に言い聞かせたが、胸のざわつきが収まらない。

出勤のため、ネクタイを締めていると、鏡の中の自分が、なぜか見覚えのない紫色のネクタイをしていることに気づいた。実也が締めているのは、いつもの紺色のネクタイのはずだ。


「なんだ、これ……」


 実也が顔を近づけて目を凝らすと、鏡像のネクタイは、また紺色に戻っていた。アルコールが抜けていないのか、それとも疲労から幻覚でも見ているのか。不安を抱えながら、実也は家を出た。


 その日から、実也の日常は、徐々に侵食され始めた。


 会社での会議中、上司が熱弁を振るっているのを実也はぼんやりと聞いていた。突然、上司の顔が、一瞬だけ、故人である紫保の顔に変わった。その顔は、悲しげでありながら、どこか実也を責めているような、歪んだ表情をしていた。


「谷田君、今の話、どう思う?」


 上司の声にハッと我に返る。周囲の同僚たちが、一斉に実也に視線を向けていた。


「え、あ……申し訳ありません、少々、ぼうっとしていました」


 実也の謝罪に、上司は特に咎めることなく話を続けたが、実也の心臓は激しく鼓動していた。紫保の顔は、一瞬の出来事だったが、その鮮明さは現実そのものだった。


 その日の午後、実也は自分のデスクで作業に集中していた。キーボードを叩く指が、時折、勝手に別のキーを押してしまう。最初は単なるミスだと思っていた。しかし、何度も繰り返されるうちに、実也は気づいた。


「し……ほ……」


 打ち間違いではなく、指が意図的に「しほ」という文字列を打ち込んでいた。まるで、誰かに操作されているかのように。実也は慌ててそれを消したが、背筋に冷たいものが走った。


 夕食時、実也は一人、コンビニの弁当を食べていた。テレビではニュースが流れている。画面に映る女性アナウンサーの髪飾りが、一瞬、紫色の花に変わった。実也は箸を取り落とした。テレビを凝視するが、髪飾りは普通の白っぽいものに戻っている。


「紫……紫……」


 その言葉が、頭の中で反響する。すべては「紫鏡」から始まった。紫保がそこにいたから、「紫」の「鏡」。そして今、実也の視界に入るもの、触れるものに、「紫」が混入し始めている。


 その夜、実也は眠れなかった。ベッドに横たわり、天井を見つめていると、耳元で「実也」と囁く声が聞こえた。


「紫保……なのか?」


 実也は飛び起き、部屋を見回した。誰もいない。しかし、声は確かに紫保のものだった。


「どうして……どうして俺を許してくれないんだ……」


 震える声で呟くと、声は返ってこなかった。ただ、部屋の隅に置かれた、小さな手鏡の縁が、月の光を反射して、わずかに紫色の光を放っているように見えた。


 実也は手鏡を掴み、中庭に投げ捨てた。手鏡が地面に落ち、砕ける音が響いた。

その瞬間、実也の左手の甲が、ズキリと痛んだ。慌てて見ると、昨日、光の粒が付着していた場所に、まるで内出血のように、薄い紫色の痣ができていた。痣はゆっくりと、まるで生きているかのように、血管に沿って伸びていく。


「やめろ……俺の中から出て行け……!」


 実也は痣を擦り、壁に打ち付けたが、紫の線は消えるどころか、さらに濃くなっていくだけだった。

翌日、会社を休んだ実也は、皮膚科を受診した。医師は首を傾げ、血液検査やアレルギー検査を行ったが、「異常なし」という結果だった。


「疲労とストレスからくる一時的な内出血かもしれません。様子を見ましょう」


 医師の言葉は、実也を安心させるどころか、さらなる不安に突き落とした。医学では説明できない。これは、紫保の仕業だと、実也は確信していた。

自宅に戻った実也は、シャワーを浴びるため、浴室の鏡の前に立った。全身を映す鏡を見て、実也は息を呑んだ。


 鏡の中の自分の体に、ところどころ紫色の斑点が現れていた。それは、左手の痣と同じ、生々しい紫色だった。しかし、鏡の外、実也の実際の体には、そのような斑点は一つもない。

実也が鏡に近づくと、鏡像の顔が、ゆっくりと、歪み始めた。


「実也、私に会いに来てくれたのね」


 鏡の中から、紫保の声が聞こえた。その声は、甘く、誘うようでいて、どこか底冷えするような響きを持っていた。


「お前は、紫保じゃない! 俺を騙すな!」


 実也が叫ぶと、鏡像の紫色の斑点が、まるで血管のように太くなり、実也の心臓の位置で一つに集まり始めた。


「私はあなたよ。そして、あなたは私。私たちは、永遠に一緒だと誓ったでしょう?」


 鏡像の顔が、生前の紫保の顔に変わり、そして、その顔は口元を大きく裂いて笑った。その裂けた口からは、光の粒子が漏れ出している。


 実也は、鏡に映る自分の体が、紫色の斑点に覆われ、やがてその色が全身を染め上げるのを、恐怖の中で見つめていた。まるで、紫保の存在が、実也の「形」を内側から塗り替えているようだった。

そして、鏡像の紫保の目が、ゆっくりと、実也の目を覗き込んできた。

その瞬間、実也は強烈な寒気と、頭を直接鷲掴みにされるような激しい痛みに襲われた。


「あ……、が……!」


 実也は鏡から後ずさり、その場に倒れ込んだ。目の前が真っ暗になり、意識が遠のく。

次に実也が目を開けたのは、床の上だった。どれくらいの時間が経ったのか分からない。体は冷え切っていた。


 起き上がり、恐る恐る鏡を見た。鏡像の体から、紫色の斑点は消えていた。実也の実際の体にも、紫色の痣は残っていない。すべてが、元の状態に戻っていた。


「終わったのか……?」


 安堵の息を漏らすが、その瞬間、実也は違和感に気づいた。

違和感は、自分の内側からくるものだった。

実也は、鏡の中の自分を見て、微笑んだ。その微笑みは、どこか優しげで、しかし、実也自身が今まで見せたことのない、奇妙な、深い愛情に満ちたものだった。


「寂しかったわ、実也……」


 実也の口から、紫保の声が漏れた。その声は、自分のものではないはずなのに、なぜか自然に響いた。


「これで、もうどこへも行かせないわ。ずっと一緒よ……」


 鏡の中の自分の顔は、実也の顔のままだ。しかし、その瞳の奥には、確かな紫色の光が宿っていた。そして、その表情は、紫保が生前、実也に向ける最後の笑顔と寸分違わぬものだった。

谷田実也は、鏡に向かって、再び深く微笑んだ。



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