表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/55

第五十一話 向こう側に在るもの

 四畳ほどの空間は四方を壁で仕切られていた。入ってきた扉以外には窓もなく、狭い店の奥の隅といった場所だった。


「これが、紫……、鏡……」


 思わすわず独り言ちて息を飲んだ。正面の丸テーブルに置かれたグラスの氷がカランと鳴く。そこではじめて部屋の中が無音な事に気がつく。バーカウンターに座っていた時は確かにジャズのBGMが聞こえていたはずだ。この部屋をそこまで隔離する理由はどこにあるのだろうかと、訝しく思いながらカクテルに口をつける。


「……、ん、なんだ、あれ?」


 真正面に冷たく自分を映す鏡が僅かに揺らいだように見えた。


 アルコールの余韻のせいか?


 鏡に映る自分の顔は吊り下げられた青い照明を浴びているせいか、やけに不健康に思えた。左手で顔を擦りながら、日々の疲れを思い出してしまう。忘れるために通っているはずなのに、いったい自分は何をしているんだと自嘲じみた笑い声が喉から漏れ出る。その時どこからか信じられない声が聞こえた気がした。二度目にそれが聞こえた時、谷田実也は狭い部屋の中を見回していた。


――実也?


「え……?」


 その声色の主の顔がすぐに頭を過る。それは決して聞こえるはずのない、二度と聞けないはずなのに……。


「実也、本当に実也なの? そこにいるの?」


 声は次第にはっきりと、何度も自分の名を呼んでいた。


「し……、紫保(しほ)、?」


「私よ、実也! どこにいるの、顔をみせて」


 谷田実也は、目の前の「紫鏡」と名付けられた鏡を見つめた。故人であるはずの紫保の声が、そこから聞こえてくる。信じられない、理解できない現象に、彼の心臓は激しく打ち鳴らされた。


「紫保、本当に君なのか? いったいどうして……」


 震える声で問いかけると、鏡の中の声はさらに鮮明になった。


「実也、私よ。ずっとあなたに会いたかった。会いたかったのに、もう会えないと思っていた……」


 紫保の声には、悲しみと安堵が入り混じっていた。その声は、生きていた頃と寸分違わず、実也の記憶に深く刻まれた愛しい声だった。しかし、だからこそ、この状況の異常さが際立つ。紫保は、一年前に不慮の事故で命を落としたのだ。


「紫保、君は……君はもういないはずだ。これは、一体どうなっているんだ?」


 実也は、グラスを置いた丸テーブルに両手をつき、身を乗り出した。鏡に映る自分の顔は、青い照明の下でさらに青ざめている。アルコールの酔いはとうに冷め、全身の毛穴が恐怖で逆立っていた。


「私はここにいるわ、実也。あなたと同じ空間に。ただ、少しだけ、形が違うだけ……」


 形が違う? その言葉が、実也の胸に冷たい不安を植え付けた。鏡の中の景色は、相変わらず何も変わっていない。青い照明に照らされた、見慣れない男の顔がそこにあるだけだ。


「どこにいるんだ、紫保? 姿を見せてくれ!」


 懇願するように叫ぶと、鏡の表面がわずかに波紋を広げた。まるで、水面に小石を投げ入れたかのように。その波紋の中心から、ゆっくりと、何かが浮き上がってきた。


 それは、煙のような、あるいは霧のような、ぼんやりとした輪郭だった。最初は不明瞭だったそれが、少しずつ形を成していく。細く伸びた腕のようなもの、やがて、肩、そして頭部らしきものが。しかし、それは決して、生前の紫保の姿ではなかった。


「紫保……?」


 実也は息を呑んだ。そこに現れたのは、ぼんやりと光る、人型ではあるが、肉体を持たない、半透明の存在だった。まるで、鏡の中に閉じ込められた魂そのもののように。その光の塊が、鏡の奥でゆっくりと手を上げた。


「実也、私がわかる?」


 声は、先ほどまでと同じく紫保のものだった。しかし、その声が、奇妙なほどに反響して聞こえる。まるで、鏡の向こうの深い場所から届いているかのように。


「わ、わかる……でも、これは……」


 言葉を失った実也の視線の先で、半透明の存在が、ゆっくりと鏡の表面に近づいてくる。光の塊が鏡に触れる寸前、実也は身の毛がよだつような感覚に襲われた。触れてはならない、という本能的な警告だった。


「紫保、やめてくれ! それ以上近づくな!」


 実也は椅子から飛び退いた。しかし、彼の制止をよそに、光の塊は鏡の表面に触れた。すると、鏡全体が震え、きらめくような光を放ち始めた。実也の耳元で、紫保の声が囁きかける。


「実也、寂しかったわ。あなたに会いたかった。もう一度、触れたかった……」


 その瞬間、鏡の中にあったはずの光の塊が、鏡の表面を突き破って、ほんのわずか、この部屋の中に飛び出してきた。


「っ!」


 実也は悲鳴を上げかけたが、喉の奥で詰まった。飛び出してきたのは、半透明の腕だった。光でできた腕が、鏡の中から伸びて、実也の頬に触れようとする。その冷たさに、実也は後ずさりした。しかし、体はまるで金縛りにあったかのように動かない。


「実也、どうしたの? 怖がらないで。私よ、紫保よ?」


 紫保の声は、まるで慈しむように響く。しかし、実也の目には、鏡から伸びるその腕が、異様なものにしか見えなかった。指の形はしているものの、骨も肉もなく、ただ光の粒子が寄り集まっているだけ。それが、彼の頬に触れようとしている。

恐怖と、わずかながら残る紫保への愛情が入り混じり、実也は混乱していた。この腕が、本当に紫保なのか? もしそうなら、なぜこんな姿で……。


「実也、触れて。私を感じて……」


 誘うような紫保の声に、実也はゆっくりと顔を上げた。光の腕が、彼の頬に触れた。


 ひんやりと、そして、何も感じない。実也が予想していたような、温かさも、感触も、そこにはなかった。まるで、空気そのものに触れたかのようだった。しかし、その“何もなさ”が、逆に実也の恐怖を掻き立てた。


「実也、私、あなたの中に……入りたい……」


 紫保の声が、甘く囁いた。その言葉と共に、光の腕が、実也の頬から彼の耳へと這い上がってきた。ぞっとするような感覚が、実也の全身を駆け巡る。腕は、まるで液体のように形を変え、実也の耳の穴に吸い込まれようとした。


「やめろっ!」


 実也は絶叫し、両手で耳を覆った。体を震わせ、必死で後ろに下がろうとする。彼の必死の抵抗に、光の腕は一旦、鏡の中へと引っ込んだ。


 鏡の中の紫保らしき光の塊は、わずかに揺らめいている。まるで、悲しんでいるかのように。


「なぜ、実也? なぜ私を拒むの? 私たちは、永遠に一緒だと誓ったじゃない……」


 声が、先ほどよりも怒りを帯びて響いた。同時に、鏡の表面が激しく波打ち、光の塊がさらに大きくなった。まるで、鏡の中に嵐が起こっているかのようだ。


「お前は、紫保じゃない! 紫保は、もういないんだ!」


 実也は、自らに言い聞かせるように叫んだ。目の前の異形が、愛しい紫保ではないと。しかし、その声は確かに紫保のものであり、彼を激しく動揺させた。


「私よ、実也! なぜ信じてくれないの? 私がどんなにあなたを求めているか、わからないの!?」


 鏡の中から、今度は両腕が同時に飛び出してきた。光でできた腕は、先ほどよりも太く、力強く見えた。それらが実也に向かって伸びてくる。


 実也は必死で逃げようとしたが、狭い四畳ほどの空間では、逃げ場がなかった。壁に背中を打ち付け、震える体でそれらを受け止めるしかない。光の腕が、実也の肩を掴んだ。

感触は、やはり何もなかった。しかし、確かな重みが、彼の肩にのしかかる。そして、その重みは、徐々に増していくようだった。光の腕は、実也の体に絡みつき、彼を鏡の方へと引き寄せようとする。


「離せ! 離せよ!」


 実也はもがいた。だが、見えない力に抗うことはできなかった。鏡の中の紫保らしき存在は、ますます輝きを増し、その顔らしき部分が、歪んだ笑顔のように見えた。


「やっとよ、実也……やっと、あなたと一つになれる……」


 その言葉が、実也の耳元で響いた瞬間、鏡の表面から、紫保の顔が、ほんのわずかだが、はっきりと浮かび上がった。それは、生前の紫保の顔だった。悲しみに満ちた、だが、どこか狂気を宿したその顔が、実也を吸い込もうと口を開いた。


「いやだっ!」


 実也は、最後の力を振り絞り、鏡から伸びる腕を振り払った。その拍子に、彼の体がバランスを崩し、丸テーブルにぶつかった。テーブルの上のグラスが倒れ、氷とカクテルが床に散らばる。その音に、一瞬だけ、鏡の動きが止まった。


 その隙に、実也は部屋の隅にあるドアに駆け寄った。震える手でドアノブに触れると、ひんやりとした金属の感触がした。回る、回るんだ! 心の中で叫びながら、ドアノブをひねった。

カチャリ、と音がして、ドアが開いた。暗闇の中に、店のカウンターの明かりが見える。助かった、と思ったその時、背後から、凍えるような冷気が襲いかかった。


「逃がさないわ、実也!」


 紫保の声が、もはや人のものではない、怨嗟のような響きを伴って部屋中に木霊した。振り返ると、鏡の中から、紫保の全身が、完全に飛び出していた。半透明な体から、青白い光が放たれ、部屋を不気味に照らす。その顔は、もはや生前の面影はなく、ただ、歪んだ口元から、黒い穴がぽっかりと開いているだけだった。

光でできた無数の腕が、タコ足のように実也に向かって伸びてくる。実也は悲鳴を上げ、ドアを抜けて暗い廊下へと飛び出した。


 廊下は先ほどまで聞こえていたジャズのBGMが響き、店の喧騒も聞こえてくる。まるで、あの部屋での出来事が幻だったかのように。しかし、背後から追ってくる冷気と、肌を突き刺すような視線が、それが現実だと告げていた。


「実也、どこへ行くの? 私たちは、ずっと一緒よ……」


 紫保の声が、廊下の壁に反響しながら、実也の背中を追ってくる。実也は振り返ることなく、店の出口を目指して走り続けた。カウンター席には、カップルが楽しげに談笑している。彼らには、何も見えていないのか?


 出口のドアが見えた。実也は、一心不乱にそこへ向かって走り、ドアをこじ開けた。夜の冷たい空気が、彼の熱くなった体を冷やす。


 繁華街のネオンが目に飛び込んできた。車のライト、人々の話し声。生きた人間の喧騒が、実也の恐怖をわずかに和らげる。彼は振り返った。

店の入り口から、紫保の姿はなかった。


 ホッと安堵の息を漏らした瞬間、実也は自分の左手が、尋常ではないほど冷たいことに気づいた。そして、その手の甲に、薄っすらとだが、青白い光の粒が残っていることに。


 まるで、紫保の体が、彼の皮膚に付着したかのように。


 実也は震える手でそれを拭おうとしたが、光の粒は消えなかった。それどころか、皮膚の下に、ゆっくりと沈み込んでいくような感覚がした。


「実也、もう、どこへも行かせないわ……」


 紫保の声が、今度は、実也の頭の中に、直接響き渡った。


 実也は、その場に崩れ落ちた。街の喧騒が、一瞬にして遠のいていく。彼の心臓は、激しい音を立てていた。それは、恐怖だけではなかった。彼の左手の甲から、ゆっくりと、紫色の細い線が、血管に沿って広がっていくのが見えた。まるで、毒が体内に回るかのように。


 あれは、鏡の中にいた紫保の「形」の一部だったのか。そして、それは、彼の体に入り込んだ。

実也の脳裏に、あの「紫鏡」の言葉が蘇る。「形が違うだけ……」。紫保は、形を変えて、彼の中に入り込もうとしているのか。


 彼の目に、恐怖の感情が色濃く浮かび上がった。そして、その瞳の奥には、わずかながら、紫色の光が宿り始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ