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第五十話 人間の奥

 霞む視界に、谷田実也(たにださねなり)は思わず目頭を押さえつけた。パソコンの光を浴びすぎた目はじんじんと痛み、その奥では諦めにも似た疲労が募っていく。固まった背中をゆっくりと伸ばすと、全身からミシミシと音がしたかのようだった。定時の午後6時はとうに過ぎ去り、すでに2時間以上が経過している。実益のない、ただただ時間を浪費するだけの残業。はじめのうちは、こみ上げる怒りを抑えきれなかったが、今となってはそれも日常の一部として、冷めた心で受け入れている。


「お疲れ様でした……」


 乾いた唇から絞り出すように小声で告げると、実也よりもさらに深い疲労を刻んだ顔の上司が、力なく手を上げて応えた。その動作一つにも、彼らの間に横たわる、言葉にはならない共通の疲労感がにじみ出ている。実也はそそくさと私物を鞄に詰め込むと、まるで音を立てるのを恐れるかのように、静かにオフィスを後にした。


 鬱々とした日常の中で、息が詰まるような毎日を過ごすだけの人生。希望を失いかけ、ただただ時間が過ぎ去るのを待つだけだった。しかし、諦めかけていた「普通の暮らし」は、ここ一ヶ月ほど前から、以前ほど辛くはなくなっていた。むしろ、事態は少しずつ好転しているかのようにさえ思えるほど、実也の最近は変化していたのだ。心の中に、まるで一筋の光が差し込んだかのような、微かながら確かな変化。


「午後8時過ぎか……。今日も少し寄って帰ろう」


 腕時計に目を落とし、実也は決まりきった独り言を呟いた。その言葉には、かつてのような虚無感ではなく、ほんのわずかな期待が込められているようだった。日々の重圧に押しつぶされそうだった実也の心に、そっと寄り添うような、ささやかな楽しみが生まれていた。それは、彼の心を覆っていた厚い雲の隙間から差し込む、小さな光のようだった。


 スマートフォンの冷たいガラス越しに、親友、健二の名前が光るアイコンをタップした。


『これからあの店に行こうと思うんだけど、健二もどう?』


 メッセージを送信した瞬間に表示される時刻。しかし、既読のマークはいつまでもつかない。大学時代からの友人である宅間健二(たくまけんじ)に、あの店を紹介されたのはもう一ヶ月ほど前のことだ。彼は昔からオカルト系の話が大好物で、その繋がりから【アメシスト】というバーを教えてくれた。新宿の喧騒から少し離れた路地裏、ひっそりと佇むその店は、初めて訪れた時、確かに怪しげな雰囲気を纏っていた。最初こそ、俺はその薄暗い空間を訝しげに見回したものだが、気がつけば、いつの間にかほとんど毎日のように足を運ぶようになっていた。あの店の、あのカクテルの魅力に取り憑かれてしまっている。


【人間の裏側を映し出す不思議なカクテル】


 バーの看板カクテルは、店名と同じ【アメシスト】。薄紫色に妖しく輝くその液体は、グラスの中でどこか挑発的に揺れている。一度口に含むと、脳髄の奥底を駆け巡るような強烈な刺激が走る。それは意識とはまったく別の、奇妙な体験をほんのわずかな時間だけ味あわせてくれるのだ。そのあまりにも強烈な誘惑に、怪しげな薬物でも入っているのではないかと疑ったこともあったが、マスターはいつもやんわりとそれを否定するだけだった。曰く、カクテルを口にして体験する事柄は、すべてその本人の心の奥底が映し出されたものなのだ、と。俺は、その言葉の真偽を確かめるように、今日もまた【アメシスト】を求めてしまう。



 鬱屈とした日常から、唯一の逃避場所となりつつあるバー【アメシスト】。実也は慣れた足取りで店の扉を開けた。薄暗い店内はいつもと変わらず、しかし、その静寂が今日の心臓の音を一層大きく響かせるような気がした。


「いらっしゃいませ、谷田さん」


 カウンターの向こうで、白髪交じりのマスターが静かに微笑んだ。その表情は、いつ見ても底知れない深淵を覗かせているようで、実也はいつも一瞬たじろぐ。


「いつもの、お願いします」


 実也は、もはや躊躇なくアメシストを注文した。グラスに注がれた薄紫色の液体は、照明を吸い込んで妖しく輝いている。口に含むと、脳髄を直接掴まれるようなあの刺激。そして、意識の奥底に広がる奇妙な幻影が、今日の実也には一層鮮明に映し出された。それは、自分の過去、抑圧された感情、あるいは未来の断片なのかもしれない。しかし、そのすべてが、どこか現実離れした歪んだ形で提示されるため、実也は常に混乱と好奇心の間で揺れ動くのだった。


 カクテルを飲み干し、グラスをカウンターに置いたときだった。ふと、グラスの底に何かがあるのに気づいた。それは、黒い紙でできた小さなカード。名刺のようだが、手のひらよりも一回り小さく、厚みがある。表面はザラザラとした手触りで、漆黒の背景に、墨で書かれたような不気味な文字が浮かび上がっていた。


「……?」


 実也は思わずそれを手に取った。ひんやりとした感触が指先に伝わる。カードの表面には、読んだことのない奇妙な記号と、縦に並んだ数字が羅列されているだけだった。裏面には何も書かれていない。どこかで見たことがあるような、ないような……。

 

 その奇妙なカードに見入っていると、突然、背筋に冷たいものが走った。誰かに見られているような、そんな気がして、思わず顔を上げる。しかし、店内にはマスターしかいない。


「マスター、これ……」


 実也はカードをマスターに見せようとした。その瞬間、信じられないことが起こった。実也の手の中で、カードは消えてしまったていたのだ。


「えっ……?」

 

 呆然と手を見つめる実也。指先には、ほんのわずかなカードの冷たい感触が残るだけだった。


「どうかなさいましたか、谷田さん?」


 マスターが、いつもの穏やかな声で尋ねた。その表情には、一切の動揺が見られない。


「い、いや、今、ここに変なカードが……。名刺みたいな……でも、消えちゃって……」


 実也はしどろもどろになりながら、見たままを説明した。マスターはゆっくりと瞬きをすると、ふっと、これまで見たことのないような、意味深な笑みを浮かべた。


「ほう……。それは、珍しい。谷田さんは、あの紫鏡に呼ばれたのかもしれませんね」


 紫鏡。その言葉が、実也の脳裏に奇妙な響きを残した。


「紫鏡……ですか?」


「ええ。この店の奥には、いわくつきの鏡がありましてね。昔から、ある種の人間だけが、その鏡に誘われるという話です」


 マスターは、手元のクロスでグラスを拭きながら、静かに語り始めた。その声は、いつになく重く、低い。


「これは、私がこの店を引き継ぐずっと昔からの言い伝えでして。このバーの奥には、特別な個室があるんです。その個室の壁一面に、大きな鏡がはめ込まれていましてね。それが、紫鏡と呼ばれているものなんです」


 マスターは、そこで一度言葉を切った。実也は唾を飲み込み、続きを促すようにマスターを見つめる。


「その鏡は、通常の鏡とは少し違うんです。光の当たり方や、見る者の心境によって、鏡面が微妙に紫色に変化すると言われています。そして、その紫が最も濃くなった時、鏡は見る者の内奥を映し出すと同時に、現世とは異なる、別の何かを映し出すと……」


 マスターの言葉は、まるでどこか遠い昔の物語を語るかのようだった。しかし、その声には、単なる伝説ではない、実体験に基づくような生々しさが宿っていた。


「鏡に映し出されるものは、見る者によって様々です。ある者は、自分の未来の姿を見たと言います。しかし、それは必ずしも幸福な未来とは限りません。ある者は、過去の罪が具現化した幻影に苛まれたと言います。そして、またある者は、鏡の中に、決して存在しないはずの“何か”を見た、と」


 マスターは、実也の目を見据えるようにして言った。


「その“何か”に魅入られた者は、鏡から離れることができなくなり、やがて鏡の中に引きずり込まれてしまう……そんな恐ろしい話も、まことしやかに囁かれています。もちろん、都市伝説の類ですがね」


 そう言って、マスターは薄く笑った。しかし、その笑みは、実也にはどこか空虚で、恐怖を誘うものに感じられた。実也は、先ほど手の中で消えた黒いカードのことが頭から離れない。あれは、偶然だったのか? それとも、本当にこの紫鏡と関係があるのだろうか?


「これまで、その鏡を見たがった客はたくさんいましたが、私がその部屋に案内したのは、ごく一部の人間だけです。そして、今日、谷田さんの手元にあのカードが現れた。それは、鏡が谷田さんを呼んでいる証拠なのかもしれませんね」


 マスターの言葉は、実也の好奇心を強く刺激した。日々の閉塞感の中で、何か非日常的なものを求めていた実也の心に、紫鏡の話は深く突き刺さった。恐怖と同時に、抑えきれない興奮が湧き上がってくる。


「マスター……その紫鏡、俺にも見せていただけませんか?」


 実也は、前のめりになって懇願した。マスターは、実也の真剣な眼差しをじっと見つめた。そして、ゆっくりと、しかし、迷いのない口調で言った。


「……承知いたしました。では、どうぞこちらへ」


 マスターは、カウンターの奥にある、これまで一度も開かれたことのない重厚な木の扉を指差した。その扉は、まるで店内の薄暗さをも吸い込んだかのように、深い闇を湛えている。扉の向こうに広がるであろう未知の世界に、実也の胸は高鳴った。しかし、その高鳴りは、期待だけではない、得体の知れない不安も孕んでいた。


「ただし、谷田さん。忠告しておきます。その鏡に映し出されるものは、あなたが本当に見たいものではないかもしれません。そして、一度見てしまえば、もう元には戻れないかもしれませんよ……」


 マスターの最後の言葉は、実也の背筋を凍らせた。だが、一度芽生えた好奇心は、もはや抑えきれない。実也は生唾を飲み込み、マスターに続いて、闇へと続く重い扉の向こうへと足を踏み入れた。扉が閉まる音は、まるで、外界との縁を断ち切るかのように、鈍く響いた。



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