第四十九話 紫色の鏡
長引く酷暑もようやく終わりを告げ、秋の気配が感じられる風が吹き始めた頃、異常だった日常は、いつの間にかすっかり慣れ親しんだものへと変わっていた。
「ブン太……、お手!」
怜衣は、目の前の真っ黒な塊——カラスのブン太と真剣な面持ちで向き合い、右手を差し出していた。その問いかけにも、ブン太は「アー」と間の抜けた声で鳴くだけだ。
「レイちゃん、さすがにそれは無理でしょ……」
呆れたように、けれどどこか楽しげに釉乃が呟く。キッチンに立つ羽仁塚も、カラス相手に真剣になっている怜衣を見て苦笑いを浮かべているのが目に入った。途端に恥ずかしくなった怜衣は、ブン太と呼んだカラスをぎゅっと抱き寄せた。
「ブン太って、このカラスの名前なの?」
釉乃がカラスの黒い頭をそっと指で撫でながら尋ねる。
「うん、ワタリガラスのブン太……。自分でつけた名前を言うと、少しだけ恥ずかしいな」
そのわずかな戸惑いが表情に浮かんだ私に、釉乃は優しく微笑んでくれた。その眼差しは、私の心を見透かすように温かかった。
「ずいぶんレイちゃんに懐いたじゃない」
彼女の言葉は、まるで陽だまりのように心地よく、私の心にすっと染み込んだ。
「これならブン太も、私たち都市伝説に力を貸してくれるわね」
「都市伝説……、ブン太が?」
思わず聞き返した。釉乃は、それ以上何も言わずに片目を閉じて見せた。その仕草には、多くを語らずとも伝わる、いたずらっぽい含みがあった。彼女の唇の端には、何か面白いことを企んでいるような微笑みが浮かんでいる。私はその意味深な表情にとても言葉にすることの出来ない、不思議で複雑な感情を抱いた。ブン太が関わる都市伝説とは一体何なのだろう。そして、それは私たちにどんな影響をもたらすのだろうか。
「それよりレイちゃん」
釉乃はパッと明るく表情を変えて、再び口を開いた。
「私達の噂、少しずつだけど上手く広がりはじめてるの」
彼女の言う【私達の噂】とは、きっとこれまで脅かしてきた人達との出来事だろうか。聞き返すように怜衣は首を傾げた。
「でもこのままだとまだまだ認知が弱い。そこで考えたの……」
釉乃の顔がゆっくりと、怪しげな微笑みへ変わっていく。
「これから二人で向かいましょ?」
「向かうって、どこに?」
釉乃の不敵な笑みに、怜衣はごくりと唾を飲み込んだ。彼女の瞳には、好奇心とほんのわずかな不安が入り混じった光が宿っている。
◆
「向かうのはね……」
釉乃は声をひそめ、舞台役者のように芝居がかった口調で続けた。
「この街で一番、噂が生まれやすい場所。そう、夜の社交場よ」
「夜の社交場?」
怜衣は鸚鵡返しに呟いた。彼女の脳裏に浮かんだのは、煌びやかなネオンが輝く歓楽街の光景だ。しかし、そこに自分たちが足を踏み入れる姿は、どうにも想像がつかない。
「そう。人々が心を解放し、秘密を打ち明け、そして何よりも噂話に花を咲かせる場所」釉乃は満足げに頷いた。
「具体的に言うとね、とあるバーよ。そこには、ただのお酒じゃなくて、もっと面白いものが置いてあるの」
羽仁塚がキッチンから顔を出し、心配そうな表情で二人の会話を聞いていた。
「夜のバーって……。レイ子ちゃんは、あまり慣れない場所じゃない?」
「大丈夫よ、ハニーちゃん。ちゃんとレイちゃんは守るから」
釉乃はウィンクしながら言った。その自信に満ちた態度に、怜衣は半ば呆れ、半ば感心した。釉乃が何かを企む時、彼女の行動力はいつも想像の斜め上を行く。
「でも、そのバーってどんなところなの?」
怜衣は尋ねた。
「ふふふ。そこがポイントなのよ」
釉乃はにやりと笑った。
「そのバーにはね、『紫鏡』があるって噂なの」
「紫鏡?」
怜衣は眉をひそめた。どこかで聞いたことがあるような、ないような……。漠然とした既視感が脳裏をよぎる。
「そう、紫鏡。鏡にまつわる都市伝説は数あれど、そのバーの紫鏡は特別よ。なんでも、その鏡に映った自分の姿を見ると、願いが叶うとか、未来が見えるとか……。もちろん、悪い噂もあるけれど」
釉乃の声には、どこか蠱惑的な響きがあった。
「そんなものが本当にあるの?」
怜衣は半信半疑だった。
「さあ? でも、そういう噂があるってことが大事なのよ。噂の真偽なんて二の次。大切なのは、人々がそれを信じ、語り継ぐこと。私たちが都市伝説として力を得るためには、そういう場所が不可欠なの」
釉乃は立ち上がり、怜衣の腕を引いた。
「さ、怜衣ちゃん。おしゃれして出かけましょう。夜の帳が下りる前に、準備をしないとね」
怜衣はブン太をそっと床に降ろした。ブン太は「アー」と鳴きながら、怜衣の足元をちょこちょことついてくる。
「ブン太は……?」
怜衣が問うと、釉乃は悪戯っぽく笑った。
「ブン太は留守番よ。でも、安心なさい。今夜の私達の活動は、ブン太にとっても無関係じゃないわ。きっと、近いうちにブン太の出番も来るはずよ」
怜衣は納得しきれないまま、釉乃に促されるがままに部屋へ向かった。彼女の胸には、奇妙な高揚感と、言いようのない不安が同居していた。夜のバー、紫鏡、そして都市伝説としての自分たち。未知の扉が開かれようとしている予感に、怜衣の心臓は小さく跳ねた。
◆◆
夜の帳が下り、街には様々な光が瞬き始めていた。釉乃に選んでもらった、普段とは違う大人っぽいワンピースに身を包んだ怜衣は、足元が落ち着かない。ヒールの高い靴を履くのも久しぶりだ。
「レイちゃん、すごく似合ってるわよ! 美人さんだねえ」
釉乃は、普段着慣れているであろうシンプルな黒いワンピースドレス姿で、怜衣の隣を軽快に歩く。その姿は、まるで夜の街に溶け込むかのように自然だった。
「ありがとう……。でも、なんだかソワソワするよ」
「大丈夫、大丈夫。最初はみんなそうよ。でも、すぐに慣れるわ。それに、私たちの目的は楽しむことじゃないもの」
目的。その言葉に、怜衣は改めて気を引き締めた。自分たちは、遊びに来たわけではない。都市伝説の認知度を高めるという、明確な使命があるのだ。
二人が辿り着いたのは、路地裏にひっそりと佇む、一見何の変哲もないバーだった。しかし、その扉の向こうからは、微かにジャズの音色と、人々の楽しげな話し声が漏れ聞こえてくる。
釉乃がドアを開けると、そこは薄暗く、洗練された空間が広がっていた。琥珀色の照明が、店内に並ぶ酒瓶を幻想的に照らし出している。カウンター席には数人の客がグラスを傾け、ボックス席ではグループが賑やかに談笑していた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの向こうから、穏やかな声が響いた。バーテンダーは、年配の男性で、白髪交じりの髪をオールバックにし、丁寧な所作でグラスを磨いている。彼の瞳には、この街の様々な人間模様を見つめてきたであろう、深い知性が宿っているようだった。
「マスター、こんばんは。今日は二名です」
釉乃がにこやかに挨拶する。
「ああ、釉乃さん。いらっしゃい。そちらは?」
マスターは怜衣に視線を向け、にこやかに微笑んだ。
「私の友人のレイちゃん。彼女、ここの紫鏡に興味があるみたいで」
釉乃は怜衣の肩に手を置き、マスターに紹介した。
マスターは心得たように頷き、カウンターの隅を指差した。
「どうぞ、そちらへ。ちょうど空いていますから」
二人が通されたのは、店の一番奥にある、小さなブース席だった。その壁には、確かに一枚の鏡が飾られている。それは、通常の鏡よりも一回り大きく、重厚な木製の枠に収められていた。枠の至るところには、深い紫色の装飾が施されており、その独特な色合いが、薄暗い店内でもひときわ目を引く。
怜衣は思わず息を呑んだ。まさか、本当に紫鏡があるとは。
「これが……紫鏡」
怜衣は鏡に映る自分を見つめた。薄暗い照明の中で、自分の顔がいつもより少しだけ大人びて見える。瞳の奥には、好奇心と、わずかな畏れが混じり合っていた。
釉乃は怜衣の隣に座り、マスターに注文を促した。
「怜衣ちゃんは何にする? 私はいつものをお願いします」
「えっと……じゃあ、私も同じもので」
怜衣はメニューを見ずに答えた。普段お酒を飲む機会があまりないため、何を頼めばいいのか分からなかったのだ。
マスターが用意してくれたのは、薄紫色に輝くカクテルだった。甘い香りが微かに漂い、口に含むと、ふわりと広がる芳醇な味わいに、怜衣は小さく感動した。
「美味しい……」
「でしょう? マスターのカクテルは絶品なのよ。特に、この『アメシスト』はね、ここに集まる人たちの間で、『真実を映し出すカクテル』って呼ばれてるの」
「真実を映し出す……?」
「そう。このカクテルを飲みながら紫鏡を見ると、自分の本心が見えるとか、隠された真実が明らかになるとか……。これも、このバーの都市伝説の一つね」
怜衣はカクテルをゆっくりと飲み干し、再び紫鏡に目を向けた。鏡の中の自分は、相変わらず怜衣のままだ。しかし、その瞳の奥には、今まで気づかなかった感情の揺らぎが映し出されているように感じられた。それは、都市伝説としての自分を受け入れ、新たな世界へ踏み出そうとする、微かな決意の光だったのかもしれない。
「さて、と」
釉乃が楽しそうに笑った。
「そろそろ、本題に入りましょうか」
釉乃は、鞄から一枚の小さなカードを取り出した。それは、一見すると何の変哲もない名刺のように見える。しかし、その表面には、奇妙なシンボルが描かれていた。それは、まるで目のような、あるいは渦巻きのような、見る者の視線を引きつける独特の模様だ。
「これ、何?」
怜衣が尋ねた。
「私たちの名刺よ。このバーに集まる人たちは、みんな噂好き。だから、ここでこのカードをこっそり置いていくの。そうすれば、誰かの目に留まって、私たちの噂が広がるきっかけになるかもしれないでしょう?」
「なるほど……。でも、これをどうやって?」
「心配いらないわ。自然な流れで、誰かの手に渡るように仕向けるの。例えば、会計の時にそっとカウンターに置いていくとか、お手洗いに行くふりをして、テーブルの端にさりげなく残すとか」
釉乃は得意げに笑った。
「私たちの目的は、『噂を自然発生させること』。不自然な広め方は、都市伝説としては逆効果よ。まるで本当に自然発生したかのように見せかけるのが、一番効果的なの」
二人は、マスターに迷惑がかからないよう、細心の注意を払いながら、それぞれの役割を分担した。怜衣は、お手洗いの際に、わざとらしくハンカチを落とすふりをして、その下にカードを滑り込ませた。釉乃は、グラスを空にして席を立つ際、さりげなく隣のテーブルの客の視界に入るようにカードを置いた。
しかし、二人が仕掛けたカードは、果たして本当に誰かの目に留まるのだろうか。そして、そこから自分たちの噂が、この街に広まっていくのだろうか。怜衣の心には、期待と不安が入り混じっていた。
数分後、怜衣がお手洗いから戻ると、先ほどカードを置いたはずのテーブルに、一人の若い女性が座っていた。女性は、怜衣が置いたカードを手に取り、まじまじと見つめている。そして、隣に座る友人らしき男性に、何かを囁いた。
「ねえ、これ見て。変なマークのカードなんだけど……。なんか、ゾクゾクしない?」
女性の言葉が、怜衣の耳に届いた。怜衣は思わず、釉乃と目を合わせる。釉乃は、満足げに小さく頷いた。
「フフフ……。どうやら、私たちの計画は順調みたいね」
釉乃の瞳は、夜の闇の中で妖しく輝いていた。怜衣は、自分たちが今、まさに都市伝説を「創造」しているのだという、奇妙な感覚に包まれた。この紫鏡のバーから、自分たちの存在が、まるで波紋のように広がっていくことを想像すると、鳥肌が立つような興奮を覚えた。
都市伝説の力を借りて、この異常な日常を、より自分たちにとって有利なものに変えていく。その第一歩が、今、このバーで踏み出されたのだ。
◆◆◆
その夜、怜衣と釉乃は、バーを後にした。夜風が火照った頬を撫で、心地よい涼しさをもたらす。
「ねえ、釉乃。本当に、これでいいのかな?」
怜衣はふと、立ち止まって尋ねた。
「何が?」
釉乃は不思議そうに首を傾げる。
「私たち、なんだか人を騙してるみたいじゃないかなって……。都市伝説を広めるって、そういうことなのかな?」
怜衣の心には、わずかな罪悪感が芽生えていた。自分たちの都合で、人々の好奇心や不安を煽っているのではないか、という思いが拭いきれない。
釉乃は、怜衣の顔をじっと見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「怜衣ちゃん、それはね、視点を変える必要があるわ。私たちは、ただの『噂』を流しているだけじゃない。人々が信じるに足る『物語』を提供しているのよ」
「物語?」
「そう。人間はね、物語を求める生き物なの。特に、日常の中に潜む非日常、説明のつかない不思議な出来事に、心を惹かれる。都市伝説っていうのは、そういう人々の『物語への渇望』を満たすものなのよ」
釉乃は、怜衣の手をそっと取った。
「私たちが広める都市伝説が、誰かにとっての欲を満たすかもしれない。あるいは、誰かの不安を解消する鍵になるかもしれない。紫鏡だってそうでしょう? 願いが叶うとか、真実が見えるとか、そんな噂を信じることで、人は前に進む力を得られることもある。私たちは、そのきっかけを作っているだけ」
怜衣は、釉乃の言葉にハッとした。確かに、自分たちはこれまで、人々を脅かす存在として認識されてきた。しかし、都市伝説としての「力」を得ることは、ただ人々を恐怖に陥れるためだけではないのかもしれない。
「それにね、怜衣ちゃん」
釉乃は続けた。
「都市伝説っていうのは、ある意味で集合的な無意識の現れでもあるの。人々の心の中に漠然と存在する不安や願望が、形となって現れたもの。私たちは、それを少しだけ、手助けしているに過ぎないわ」
「集合的な無意識……」
「そう。だから、罪悪感なんて感じる必要はないわ。私たちは、この異常な世界で生き抜くために、自分たちにできることをしているだけ。そして、その『できること』が、結果的に誰かの役に立つかもしれない。そう考えれば、少しは気が楽になるでしょう?」
釉乃の言葉は、怜衣の心に温かく染み込んだ。彼女の言葉には、怜衣が抱えていた葛藤を解きほぐす力があった。自分たちの行いは、単なる悪戯や欺瞞ではない。この世界に新たな「物語」を紡ぎ出し、人々に何らかの影響を与えることなのだ。
「うん……。そうだね」
怜衣は頷いた。心の中にあった重荷が、少しだけ軽くなった気がした。
「さ、帰りましょう。ブン太もハニーちゃんも待ってるわよ」
釉乃は笑顔で怜衣の背中をポンと叩いた。
二人は再び歩き出した。夜空には、満月が煌々と輝いている。その光は、まるで二人の未来を照らすかのように、静かに街を包み込んでいた。
家路を急ぐ道すがら、怜衣の脳裏には、先ほどの紫鏡の光景が蘇っていた。あの鏡に映し出された自分自身の姿。そして、カクテル「アメシスト」を飲み干した後に感じた、心の奥底からの変化。
もしかしたら、あの紫鏡は、本当に何かを映し出していたのかもしれない。それは、自分自身の深層にある願い、あるいはこの世界における自分の役割。
そして、ブン太。あのワタリガラスのブン太が、今後、都市伝説とどう関わっていくのか。釉乃の言葉が、怜衣の胸に小さく響いた。
『――きっと、近いうちにブン太の出番も来るはずよ』
ブン太の出番。それは一体、いつ、どのようにして訪れるのだろうか。怜衣は、来るべき未来に、ほんの少しの期待と、確かな覚悟を抱き始めていた。都市伝説を巡る自分たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ。
この世界が、異常な日常へと変わってしまった今、自分たちは、その変化の波に乗り、新たな存在として生まれ変わろうとしている。そのプロセスは、決して平坦な道のりではないだろう。しかし、隣には釉乃がいて、家にはブン太が待っている。そして、見えないところで、自分たちの「噂」が、少しずつ形を変えながら広がり始めている。
怜衣は、夜空を見上げた。月光が、彼女の決意を、静かに、そして力強く照らしていた。