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第四十八話 ある男の夜

 新宿の片隅で、それは人目につかないようにじわりじわりと広がっていた。賑わいを極める繁華街。その眩いネオンの裏側には、比べ物にならないほどの闇が這いずり回る。


 新宿駅東口、商業ビルの喧騒から少し離れた路地裏。昼間でも薄暗く、生ゴミと腐敗したような甘い香りが混じり合う、忘れ去られた空間だ。その日、僕は友人の健二から呼び出され、この路地裏に足を踏み入れていた。


「面白いものを見せてやるよ」健二は不気味に笑った。彼は普段からオカルトや都市伝説に傾倒しており、よく僕を奇妙な場所に連れて行った。


 路地の奥には、ひときわ異彩を放つ古びた雑居ビルがあった。窓は黒ずみ、壁には意味不明な落書きがびっしりと描かれている。一見すると廃墟のようだが、かろうじて開いているらしい一階の扉からは、微かな光が漏れていた。


「ここだよ」健二が指差す。


 そこは、小さなバーだった。「アメシスト」という看板が、かろうじて読める程度に薄れていた。

扉を開けると、そこは外界の喧騒とは全く異なる、時間の止まったような空間だった。カウンターには老齢のマスターが一人、ゆっくりとグラスを拭いている。店内には客が誰もいない。埃っぽい空気に、古びた家具の匂いが混じり合う。そして何より、妙に重い空気が漂っていた。


「いらっしゃい」マスターが顔を上げた。その目は濁っていて、どこか遠くを見ているようだった。

健二は慣れた様子でカウンターに座り、「いつもの」と注文した。マスターは無言で、透き通るような紫色の液体が入ったグラスを彼の前に置いた。それは、まるでアメシストが溶け込んだような、美しいカクテルだった。


 僕も同じものを頼んでみた。口に含むと、舌の上で微かに痺れるような感覚があり、その後に微かな甘みと、今まで嗅いだことのない奇妙な香りが広がる。それは決して不快ではないが、どこか脳の奥を刺激するような、不思議な味だった。


「ここはな、特別な場所なんだ」健二が囁いた。


「ここに集まる客はみんな、何かを『見て』しまうんだよ」


 僕は内心で「また始まったよ」と思ったが、彼の表情は真剣だった。彼はこのバーに来てから、妙に饒舌になっていた。


 健二は話し始めた。このバーには夜な夜な、新宿の闇に紛れて現れる『客』がいるという。彼らは皆、何かしらの『異形』を抱えている。それは物理的な形を持つものではなく、まるで人間の感情や記憶が凝り固まってできたような、目には見えないが確かに存在する『影』のようなものだ、と。



「ある日、ここに一人の男が来たんだ」健二が言った。「スーツを着たサラリーマン風の男で、顔色は悪く、ひどく憔悴していた。彼はこのバーの『アメシスト』を一口飲むと、突然震え出したんだ」


 マスターは相変わらず黙々とグラスを拭いている。彼の表情からは何も読み取れない。


「男は、自分が見たものを話し始めたんだ」健二は続けた。


「彼は毎晩、新宿の夜道を歩いていると、電信柱の影に、まるで張り付くように細長い『影』を見るようになったと言うんだ。最初はただの錯覚だと思っていたらしい。でも、その『影』は日を追うごとに大きくなり、まるで男を追いかけるように動き出すようになった。そしてある晩、その『影』が男のアパートの窓から、じっと彼を見つめていたらしい。その瞬間、男は恐ろしさで声も出なくなり、次の日、このバーに駆け込んできたんだ」


 健二は一息つくと、紫色のアメシストを飲み干した。


「マスターは、その男にこう言ったそうだ。『それは、あなたが長い間、心の中に押し込めてきた『諦め』の姿です。光を求める心を捨てた時、それは影となってあなたを蝕むのです』と」


 僕はぞっとした。そのマスターの言葉は、まるで僕自身の心を見透かされているようだった。僕にも、ずっと心の中に抱えている『諦め』があった。


「男は、マスターの言葉にただ頷いたらしい。そして、アメシストを飲み干すと、少しずつ顔色を取り戻していったそうだ。そして次の日、彼は職場の同僚に、ずっと言えなかった本音をぶつけ、長年抱えていた問題に立ち向かったらしい。その途端、彼を追い回していた『影』は、まるで煙のように消え去ったそうだ」


 僕はその話を聞きながら、自分が飲んでいるアメシストに目をやった。このカクテルは、本当に人の心に作用するのだろうか。


「ここには他にも、奇妙な話がたくさんあるんだ」健二は続けた。


「ある若い女性は、ここに通うようになってから、自分の姿が鏡に映らなくなったと言っていた。彼女は、SNSのフォロワー数に囚われ、現実の自分を蔑ろにしていたらしい。マスターは彼女に『あなたは、あなたの『虚栄心』に囚われている。他人の評価ばかりを気にしていると、本当の自分が消えてしまうでしょう』と言ったそうだ。彼女はアメシストを飲み続けるうちに、SNSを辞め、自分の本当にやりたいことを見つけることができたらしい。すると、いつの間にか鏡に自分の姿が映るようになったそうだ」


 僕は鳥肌が立った。このバーは、ただのバーではない。人の心の闇を映し出し、それを浄化するような、不思議な力を持っているのかもしれない。

僕がアメシストを飲み干すと、マスターが静かに口を開いた。


「お客様は、何を求めてここにいらっしゃいましたか?」


 その声は、深くて静かで、まるで僕の心の奥底を揺さぶるようだった。僕は一瞬、言葉に詰まった。何を求めて、僕はここにいるのだろう。僕は普段、自分の感情をあまり表に出さないタイプだ。だが、このバーに来て、アメシストを飲んでから、不思議と心が軽くなっているような気がした。


「…僕は、ずっと前に失くしたものを探しているのかもしれません」と、僕は答えた。それは、かつて僕が持っていた、純粋な好奇心や情熱だった。都会の喧騒の中で、いつの間にかそれらを忘れてしまっていた。


 マスターは何も言わず、ただ静かに僕の目を見た。その目は、何もかもを見通すかのような、深い光を宿していた。


 その夜、僕は健二の話を聞き、アメシストを飲みながら、自分の心の中にある『影』と向き合った。それは、かつて僕が夢見ていた未来を諦め、現実から目を背けてきた、僕自身の『後悔』だった。


 バーを出ると、新宿のネオンは相変わらず眩しく輝いていた。しかし、僕の目には、その光の裏側に蠢く、無数の『影』が見えるような気がした。それは、欲望、嫉妬、後悔、絶望…人間のあらゆる負の感情が形になったものだ。しかし、同時に、その『影』の中には、微かな光も見えるような気がした。それは、きっと、希望の光なのだろう。


 僕はその日から、時折「アメシスト」に足を運ぶようになった。そして、その度に、マスターの言葉と、アメシストの不思議な力に導かれるように、自分の心と向き合い続けた。新宿の闇は、確かに深く広がり続けている。だが、その片隅には、人々の心に寄り添い、希望の光を灯し続ける、秘密のバーが存在する。


 そして、今もなお、新宿の路地裏では、新たな『影』が生まれ、そして消えていく。あなたは、あなたの心の中にある『影』に、気づいていますか?


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