第四十七話 『奈落の詩』 体験者:T.T(17) 学生
幼い頃から、私の周りでは日常の常識を覆すような出来事が頻繁に起きていた。
それはまるで、薄い膜の向こう側に存在する別の世界が、時折顔を覗かせているかのようだった。鬼ごっこの最中、友達と笑いながら駆け回っていたはずが、ふと気づくと誰もいない空き地に迷い込んでいる。辺りはしんと静まり返り、陽の光だけがやけに鮮やかに感じられた。またある時は、誰もいないはずの場所で、突然ひやりとした感触が腕を掴む。振り返ってもそこには何もなく、鳥肌が全身を駆け巡った。
そんな不思議な体験は、日常の中でも度々起こり、特に「曰く付き」と呼ばれる場所では、九分九厘の確率で遭遇した。古びた神社、朽ちかけた廃屋、そこかしこに漂う陰鬱な空気は、まるで私を招き入れているかのようだった。
恥ずかしさを押し殺し、この人には話しておきたいという強い思いに突き動かされて、そのことを母に相談したのは中学校に入学したばかりの頃だった。夕食後のリビングで、私は震える声でぽつりぽつりと話し始めた。母はテレビの音量を少し下げ、私の言葉を一言一句逃すまいと、真剣な眼差しで耳を傾けてくれた。笑われるか、あるいは精神的なものだと決めつけられるのではないかと覚悟していた私は、母のその真摯な態度に張り詰めていた心がすっと軽くなるのを感じた。
私の話をすべて聞き終えた母は、そっと私の手を握り、穏やかな声で語りかけた。
「お母さんもね、昔からそういうことあるのよ。大丈夫、千奈が気持ちを強く持っていたら、怖いことは起こらないから」
母の言葉は冷たい水が乾いた喉を潤すように、私の心に染み渡った。自分の悩みが、ただの妄想や思い込みではなかったのだと、ようやく確信できた瞬間だった。その安堵感は、まるで重い鎖から解き放たれたような深い自由をもたらしてくれた。私は、自分は独りではないのだと、心から安心することができたのだ。
◆
高校に入学してすぐ、私は小林佳南と友達になった。彼女とはいつも一緒にいて、私の学生生活にはいつも佳南がいた。しかし、二年になってクラスが別れてしまい、私の心にはぽっかりと穴が空いたような寂しさが募った。それでも私は、佳南の教室へ足繁く通い、何かと理由をつけては彼女の側にいるようにした。佳南の隣が、私の一番落ち着ける場所だったのだ。
佳南は、あまり積極的に誰かと話す方ではない。それは、物事を深く深く考える彼女の良いところだと、私はずっと感じていた。他人を不快な気持ちにさせないよう、佳南はいつも相手の気持ちを慮り、結果として口下手になってしまうのだろう。そんな佳南の優しさが、私は大好きだった。
「千奈、一緒に帰ろう」
その日、珍しく佳南が私の教室までやってきて、少しはにかんだように私の名前を呼んだ。その声を聞いた瞬間、私の胸に温かいものが広がった。
「うん。今いくね」
私は慌てて鞄を手に取ると、佳南のもとへと駆け寄った。あれから二週間。佳南の周りで起きていた不可解な現象は、ぴたりと止んでいた。あの恐ろしい出来事が嘘だったかのように、穏やかな日々が戻ってきたのだ。
「帰りにどこか寄り道する?」
佳南が、まるで弾むような声でそう言った。彼女から誘ってくれるのは本当に珍しいことだ。あの霊媒師のところへ行ってから、佳南は見違えるほど明るく、そして積極的になった。その変化が、私には何よりも嬉しかった。私たちは顔を見合わせて、自然と笑みがこぼれた。夕焼けに染まる教室の窓から差し込む光が、私たちの未来を祝福しているようだった。
……ただ。
何かがおかしい。そんな予感が、私の胸の奥底にずっとあった。
鼻歌まじりにスキップする佳南の背中を、一歩後ろから見つめる。その軽やかな足取りは、私が知る佳南とはかけ離れていた。胸に浮かんだ一抹の疑惑を、私は必死で否定しようとする。
「千奈、カラオケとかでもいい?」
佳南が、こんな風に私に気を遣うなんて。その言葉は、私の心にさざ波を立てる。違和感に目を背けたい気持ちと、彼女の変化が嬉しい気持ちが複雑に混ざり合う。一体、何と聞くべきなのだろう。言葉を探して、私は黙り込んだ。
「千奈、どうしたの?」
心配そうに首を傾げる佳南の瞳は、しかし、どこか楽しげに輝いているように見えた。
「ううん、そうしようか……」
結局、私は曖昧な同意を返すことしかできなかった。私のこの疑心暗鬼な状態が、佳南にどう伝わったのかはわからない。ただ、私の心はざわめき続けていた。
「駅前より遠いところの方が空いているかな?」
佳南は本当に楽しそうだった。こんな表情、私はこれまで一度も見たことがない。彼女はいつも、何かに怯えるように潤んだ瞳で、他人と距離を取っていたのに。そのはにかんだ笑顔を見るたび、私の胸のざわつきは大きくなる。
「あのさ……、ちょっと、いいかな?」
意を決して、私は言葉を切り出した。佳南は不思議そうな顔で、私の顔を見つめている。
「佳南、どこかおかしな事でもある……?」
私の問いに、佳南は目を丸くした。
「なに? 私は最近、すごく調子がいいの。あ……、もしかして、千奈が何か悩みでもあるの?」
彼女はわざとらしく大袈裟な仕草で、私の顔を覗き込む。違う。この佳南も、私が知っている佳南じゃない。私の中に警鐘が鳴り響く。
「うん。あの、さ……」
私が再び声を出そうとした、その時。何かが佳南の鞄から落ちた。地面にあたる瞬間、鈴の音が微かに聞こえた。
◆◆
点滅する横断歩道の青い光が、まるで呪詛のようにチカチカと目に刺さる。足を止めると、生温く、粘つくような不快な風が首筋を這い上がった。
『見つけた……』
ぞっとするほど不気味な声が耳元で囁かれた気がして、私は反射的に振り返った。突然の行動に、隣にいた佳南が驚いたように声をかける。
「どうしたの?」
やけにざわめく心拍が、体内の異物を察知したかのように狂った速度で打ちつける。その刹那、また別の声が耳の奥底に届いた。声は横断歩道を挟んだ向こう側、本来なら届くはずのない距離から、皮膚を這うように囁いてくる。
『小林……よ、……佳南よ……』
ノイズが混じり、腐敗した水底から響くような女性の声。
『一人、深淵に吐血する小林佳南よ おまえの穢れた血潮は、七つの地獄の……』
詩……? まさか、佳南が言っていたあの……。
今度は鮮明に、はっきりと自分の名前が聞こえた。心臓が異常な速さで脈打ち、血管がねじれるような感覚に襲われる。すぐに脳裏をよぎったのは佳南の身の安全だった。恐る恐る視線を彼女に向けると、佳南は何も聞こえていないかのように、ただ不思議そうな表情でこちらを見ている。その無事な姿に安堵するも、胸騒ぎはまだ、おぞましい予感となって胃のあたりを蠢いていた。
信号が、血のような赤から、死者の肌のような青へと変わる。
目の前で佳南が、まるで操られる人形のように歩き出した。
『……底なし沼へと澱みゆく 針の山を這いずる亡者、その眼窩に宿るのは 朽ちた肉塊を貫く、血塗られた』
聞こえるはずのない、おぞましい詩が頭の中に直接流れ込んでくる。声の出所は、道を挟んだ向こうの、あの車椅子の人物。その顔は影に隠れ、表情はうかがえないが、そこから発せられる悪意だけが、全身の毛穴から染み込んでくるようだった。
少し先で大量の資材を乗せた大きなトラックが急に止まった。青いはずの光は、警告を告げる赤へ変わる。
「千奈、はやくいこ――」
佳南の声が途切れた、その瞬間。目の前を高速で何かが通り過ぎた。同時に、金属が肉を切り裂き、骨を砕くような歪な音が、私の耳膜を突き破る。
目の前が、赤く塗りつぶされる。
数秒前までそこに確かにあったはずのものが、あるべき場所にない。
遠くのほうで、重く湿った塊が地面に叩きつけられる金属音が、鈍く響いた。
『アハハ、アハ……、ハハハ……、全部、お前のせいだ』
車椅子の人物は、その異様な光景の中心で、ゆっくりと、しかし確信に満ちた動きで進む。混乱に陥る大通りで、誰かの悲鳴が、肉塊が散らばるアスファルトに吸い込まれるように消えていく。
「か……、なみ……?」
私は、べっとりと顔にへばりついた生温い感触を、震える右手で拭った。指先にまとわりつく鉄の匂い、生臭い香気が、おぞましい記憶として鼻腔を支配する。
『ワタシのこの醜い姿、アンタのせいなんでしょう? 毎夜、夢に現れる影、あの黒い化物が、ずっとアンタの名前を呼んでるのよ……』
軋む車椅子の上で、女は狂ったように嗤う。その表情はもはや人のものではなく、歓喜に歪んだ肉塊と化していた。嗄れた声が、爛れた喉から絞り出される。
『頭の中であの文字達が、アンタの名前を詠めと囁くの。だから、同じ苦しみを味合わせてやった……ハハ……、アハハ……』
衝撃音が再び、地を揺るがすように響いた。私は、膝から崩れ落ちたまま、両腕で頭を覆い、耳を塞いだ。
ざわめきはいっそう大きく、狂気の渦となって膨れ上がる。叫び声は、やがて人間の声ではありえない、魂をえぐり取るような悲鳴へと変わっていった。
意識の奥底から込み上げる絶叫が、喉を張り裂けんばかりに弾けた。 どうか、どうかこれが悪夢であってくれ。このおぞましい現実が、ただの忌まわしい幻であってくれと、心の底から懇願した。しかし、目の前には冷酷な現実が広がっていた。
ひしゃげた車椅子の車輪が、不吉な音を立ててがたがたと虚しく回転している。その耳障りな音が、私の精神をじりじりと蝕んでいくようだった。すぐ傍らでは、片足を失った女が倒れ伏し、赤黒く染まった歯を剥き出しにして、おぞましい笑みを浮かべていた。その眼窩の奥に宿る狂気がかった光が、私を射抜く。女の視線の先には、まるで毬でも転がるかのように、無残にも転がった"それ"があった。数秒前まで確かにそこにあったはずの、安らかな表情は見る影もなく、苦悶に歪んだ顔が、私に絶望を突きつける。
「あの二人はようやく、詩から解放されたの……」
凍えるような誰かの声が、私の震える耳元でぞっとするほどはっきりと響いた。その声は、まるで冷たい蛇が耳の奥を這いずり回るかのように私の意識の奥底までねっとりとまとわりつき、逃れる術を奪っていく。恐怖と絶望が混じり合い、私を奈落の底へと引きずり込んでいくようだった。