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第四十六話 四節目『仮死魔』

 二人の学生は、まるで魂が抜けたかのようにふらふらとした足取りで部屋を出ていった。その疲弊しきった背中からは、先ほどの出来事がどれほど彼女たちの精神をすり減らしたかがうかがえる。怜衣の傍を通り過ぎる際、彼女たちは無意識のように軽く頭を下げた。その瞬間、怜衣は驚きに目を見開いた。


 先刻、入り口で二人に声を掛けた時から感じていた違和感。彼女たちの瞳は、確かに自分を捉えていた。生きている人間に自分(ユウレイ)の存在を認識されたことへの衝撃に、怜衣は息をのんだ。


「釉乃さん、あの子達、私のこと、見えてたみたい!」


 興奮気味に話す怜衣に、釉乃は顔にかかっていたヴェールを取るとまるで子供に諭す様にやわらかく微笑んだ。


「心に隙間がある人間はね、簡単にその精神の中に入り込めるものなの。コツを掴めばレイちゃん一人でもできるようになるよ」


 釉乃の言葉が、怜衣の胸にすとんと落ちた。先ほどの二人の学生は、詩に対する途方もない恐怖心に心が囚われていた。これまで怜衣が恐怖を与えてきた人間たちもまた、同じように心の隙間を抱え、その恐怖ゆえに自分たち幽霊を視ることができたのだろう。

 その時、怜衣には、これまで漠然としていた幽霊(じぶん)たちの存在の理が、ほんの少しだけわかったような気がした。


「ところで釉乃さん。()()……、どうするつもりなの? てゆうか、詩の呪いは大丈夫なの?」


 目の前の光景に、怜衣は思わず息をのんだ。丸椅子に座る釉乃の背後には、先ほどからずっと不気味な「ソレ」が微動だにせず佇んでいる。その異様な存在感に、怜衣は恐る恐る指を差し尋ねた。


 釉乃は振り返りもせず、ふわりと微笑んだ。その表情には、一切の動揺が見られない。


「ええ、平気よ。さっきの女子高生と同じように、信楽釉乃ターゲットが見つからないまま私に語り手になってもらおうとしているだけ」


 「ソレ」が姿を現したのは、小林佳南が四節目を読み終えた直後のことだった。最初はその不気味な容貌に面食らっていた怜衣だったが、次第に慣れてきたのか、今はその細部までじっと見つめている。カラスのような黒い嘴と体毛、露出した皮膚をびっしりと覆い尽くす爬虫類のような質感。時折、チロチロと出入りする細い舌は、まるで蛇のように二股に分かれている。薄暗い室内で、その異形は一層の存在感を放っていた。


「それ、人の霊なの?」


 怜衣の問いに釉乃は軽く振り返ると、その不気味な存在をじっくりと観察し始めた。目を細めて唸り、時折顔を近づけてみたり、離してみたりと、まるで美術品を鑑定するかのような真剣な眼差しで見つめている。その冷静すぎる態度に、怜衣は背筋がゾクリとするのを感じた。


「もとは人間だったと思うけど、今は魂ごと捻れて姿が変わってしまってるみたいね」


 釉乃の声が、怜衣の耳に重く響く。先ほどまで感じていた微かな安堵が、再び冷たい不安へと変わっていく。


「この世に強い執着を持つ低級霊は、稀に動物霊に変わるケースがあるの。複数の低級霊が集合体になって、動物霊のような姿に変わって人を呪う……ってケースもあるのよ」


 釉乃の説明に、怜衣はわかったような素振りで、しかしその実、頭の中は整理しきれない情報の奔流に飲まれながら頷いた。理解しかけたように感じた霊の世界は、まだまだ怜衣の想像を遥かに超え、底知れぬ深さを持っているらしい。


「この場合、蛇は再生や復活、そして執念深さ。そしてカラスは……、これはきっとワタリガラスね」


 釉乃は、まるで目の前にその異形が見えているかのように淡々と告げる。


「ワタリガラス?」


 怜衣は思わず問い返した。ただでさえ理解の範疇を超えた話に、さらに聞き慣れない言葉が加わり、戸惑いが募る。


「ええ。ワタリガラスは普通のカラスよりも神秘的な存在で、知恵や運命、そして死の象徴といったイメージがあるわ」


 怜衣は空返事のようにまた頷いた。カラスにもそんな種類がいるのかと、半ば呆然としながらも、その説明を素直に受け入れるしかなかった。目の前の現実が、あまりにも非日常過ぎて、思考が追いつかない。ただ、目の前の釉乃が語る言葉だけが、怜衣の世界に降り注ぐ唯一の真実であるかのように感じられた。


「さてと、それじゃあ、この詩の都市伝説は持って帰って……」


 釉乃は言いかけて、ふと何かの気配に気づいたようにぴたりと口を閉ざした。彼女の視線が部屋の入り口へと向けられるにつれて、怜衣も不安げにそちらを見やった。そこには、まるで音もなく現れたかのように、宗教的な衣装を身に纏う、長く艶やかな黒髪を垂らした女性が静かに佇んでいた。部屋の空気が一瞬にして張り詰める。


「空きテナントへの不法侵入に上階の店への業務妨害、それにさっきの女の子達への詐欺行為。生身の人間なら余罪多数ってところじゃない?」


 簾のように顔にまっすぐにかかった髪を、その女性――磯良(イソラ)はゆっくりと掻き分け、鋭い眼差しで釉乃を射抜いた。その瞳には、侮蔑と敵意が明確に宿っている。


「あら? たまたま空いていた場所を借りて、たまたまやって来た相談者の悩みを解決しただけよ。四階の霊視鑑定処とは無関係の話じゃなくって?」


 釉乃はまるで相手をからかうかのように、人を食ったような笑みを浮かべて言い放った。その表情からは一切の悪びれる様子が見られない。怜衣は、目の前で繰り広げられる予期せぬ光景に、驚きのあまり二人を交互に見て声をあげた。


「釉乃さんとイソラさんは知り合いだったの?!」


 怜衣の問いかけに、イソラは先日と変わらぬ怪しげな、それでいてどこか見透かすような眼差しで軽く手を振った。その仕草は、怜衣の困惑をあざ笑うかのようだ。


「しばらく見ない間に随分と服装の趣味が変わったのね、千眼珠藻……、いや、井沢磯良(イザワイソラ)さんのほうがいいかしら?」


 再び釉乃が口を開くと、今度はあからさまな嫌悪の色がイソラの顔に浮かんだ。その美しい顔が、憎しみに歪む。


「……その氏はとうの昔に捨てた、相変わらず嫌味な女ね。あなたこそ死装束なら襟の合わせが逆じゃないの、口裂け女さん?」


 磯良も負けじと、鋭い皮肉を込めた表情で言い返した。二人の間に火花が散るような緊迫感が走り、怜衣はただただ困惑の表情でその様子を見守ることしかできなかった。



 磯良が口火を切るや、張り詰めた沈黙が空間を支配していた。先に膠着状態を破ったのは、苛立ちと諦めが混じったような磯良の声だった。


「まぁ、うちの霊媒師イタコたちじゃあその詩の魂は手に負えなかったでしょうし。大事な御客を横取りされたことは、この際だから目をつぶってあげてもいいわ」


 深いため息とともにそう言い放った磯良に、怜衣と釉乃は思わず顔を見合わせた。磯良の言葉には、どこか怜悧な計算と侮りが滲んでいるように感じられた。


「ただし、その詩は私に渡しなさい。そうすれば、あなた達二人のこと、見逃してあげる」


 勝ち誇ったような磯良の表情に、釉乃の美しい眉がピクリと不快そうに動く。その声音には、明らかに挑戦的な響きがあった。


「見逃す……?ずいぶん上からな物言いね」


 釉乃の鋭い言葉を、焦ったような怜衣の声が遮った。


「つ、釉乃さん、上見て!」


 言われるがまま視線を天井へ向けると、釉乃は怪訝そうに眉を寄せた。無機質な打ちっぱなしの骨組みの天井からは、おぞましいほど大量の青白い手が、まるで獲物を探すかのように無数に伸びていたのだ。それは天井一面を覆い尽くさんばかりの勢いで、ぞっとするような光景だった。


「これがどういう状況かくらい、あなたにも解るでしょう?」


 磯良の声が、静かに、だが有無を言わさぬ響きをもって空間に響き渡った。怜衣の視線は、天井から伸びる無数の手と、それを見上げる釉乃とを往復していた。


「……はぁ、わかったわよ。ここじゃあ私たちの方が分が悪い。さんざん都市伝説を蔑んでいたあなたが、まさかこの詩を欲しがるだなんて」


 釉乃は諦めと降参の気持ちを込めて、ゆっくりと両手を上げた。その顔には、隠しきれない悔しさが滲んでいる。


「ふふ、賢明ね。その詩は別よ、既に中身は妖怪に近い存在まで成りえてる」


 満足げに磯良が小さく笑うと、すかさず合図を送った。天井から不気味に伸びていた無数の手が、まるで幻だったかのようにすうっと消えていく。その光景に、怜衣は張り詰めていた緊張が溶けるのを感じ、思わず安堵の溜め息を漏らした。


「でも、残念だったわね。この場にあの詩の全てはないわよ。あの女子高生、小林佳南はここに来る前に既にいくつか詠んでしまっていた」


釉乃は、磯良の勝利の笑みを打ち砕くように、どこか挑発的に言い放った。


「……四節のうち、残りはいくつ?」


 磯良の目は細められ、獲物を狙うかのような鋭い光を宿して釉乃に問う。その声には、僅かな焦燥が混じっていた。


()()


 釉乃はわざとらしく首を振り、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。


「だからここは仲良く、一つずつ分け合うことにしない? そうすれば、お互いに損はないでしょう?」


「だめよ。残りは全て渡して貰う」


 磯良の表情から一切の冗談めいた色が消え、厳しい目付きで釉乃を睨みつけた。その視線は、有無を言わさぬ圧力を放っている。釉乃は苦虫を噛み潰したように顔を歪ませ、しばらく黙り込んでいた。だが、磯良の揺るぎない眼差しに抗う術はなく、観念したかのように、重い口を開いてあの詩を詠み始めたのだった。


◆◆

 

 釉乃が磯良の名前であの詩を詠み終えると、突如として黒色の怪物は音もなく姿を消した。満足そうに微笑んだ磯良は、振り返ることなくそのまま二人に背を向けて出口へ向かった。去り際に一度だけ振り返る彼女の視線が釉乃を捉え、一瞬の逡巡の後、再び前を向き直す。


「あなたも昔はいい線いっていたのに。あの頃の方が、良かったんじゃない……?」


 磯良の言葉の意味は怜衣にはまるで解らなかった。ただ、その声には、どこか寂しさが滲んでいるように聞こえた。


「あなたがそんなに私の事を思ってくれてたなんて知らなかったわ。でもごめんなさい、今の私にはレイちゃんがいるから?」


 釉乃の言葉を磯良は鼻で笑う。怜衣の目には二人のやり取りは、長年の時を経て再会した旧知の友人のように見えた。しかし、その会話には、怜衣には踏み込めない深い歴史が隠されているようだった。


 磯良はそのまま扉の外へと音もなく消えていった。途端に押し寄せる疲労感に、二人は同時に深く安堵の息を吐き出した。


「結局、あの詩……、持っていかれちゃいましたね」


 怜衣が躊躇いながらそう言うと、釉乃は顔を伏せたまま、まるで何かに憑かれたように何かを書き始めていた。その指先は、迷いなく紙の上を滑る。


「よし、こんな感じかな?」


 彼女は何かを紙に記すと、満足げに手にとって確認していた。突然何が始まったのかわからない怜衣は、不安げに首を傾げてそれを見る。


「釉乃さん?」


「これ、声に出して詠んでみて」


 釉乃から一枚の紙を受け取ると、そこに並んだ見慣れない文字列を読み始めてみた。


「『風が屍を穿つ夜に、おまえの魂は、粘つく闇の奥底へと引きずり込まれる。 腐臭を纏い舞う黒い鳥、蛆が蠢く不浄の谷間。 そこには、無数の白濁した眼が、おまえを嘲笑い、爛々と光る。 脚は失せ、脚は失せ、されど這い寄る影が貴方を追う。 血を啜り、肉を貪る、その執念が貴方の全てを捕らえる。 虚空の隙間から、鏡の奥から、無残な姿が貴方を見つめる。 カシマレイコが、カシマレイコが、今、貴方の名を呼ぶ。』……、これって……」


 怜衣がその詩を読み終えると、突然、耳元でゾッとするような低い鳴き声が響いた。


「うわっ?! なにこれ?!」


 怜衣の肩にとまる黒い影はヒラリと宙に舞い上がると、釉乃が寄りかかった机の端に降り立った。黒い羽毛に包まれたずんぐりした大きなカラスがそこにいた。その漆黒の瞳は、怜衣の動揺を静かに見つめているかのようだった。


「なんで? あの詩はさっき、磯良さんに全部渡したのに」


「磯良には三節と四節だけを渡したの。二節目は私がたった今書き換えた。これでこの詩はカシマレイコの詩よ」


 その言葉に応えるかのように、机に乗ったカラスは「アー」と低い声を鳴らしていた。そのふてぶてしい姿に怜衣は言葉を無くしてしまう。目の前の光景が、にわかには信じられなかった。


「蛇は磯良が持っていったから、ワタリガラスの部分だけ残ったみたいね。レイちゃん、動物は苦手?」


「いえ……、私の(アパート)、ペット禁止だったので」


 小刻みに震える怜衣の姿に、釉乃は困惑した面持ちで首を傾げる。その表情には、怜衣の意外な反応への戸惑いが浮かんでいた。


「だから、ずっとペット飼うの、憧れていたんです。この子……、飼ってもいいんですか?!」


 怜衣は期待に満ちた瞳を輝かせて言った。釉乃は笑いながら頷く。その笑顔は、怜衣の純粋な喜びを温かく受け止めていた。


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