第四十五話 三節目『永劫の苦悶』
「……夢と現の狭間、凍てつく奈落の淵。おまえの足音は、血肉を啜りながら地獄を巡る。骨と骨が擦れ合う、軋む音、絡みつく呪われた鎖。響き渡るは、永劫の苦悶の叫び、終わりのない絶望の調べ」
耳障りな沈黙が、凍てつく空気を張り詰める。目の前に座る霊媒師は、ぴくりとも動かず、私の詩を食い入るように聞いている。三節目を読み終えるたび、耳元でねっとりとした微かな笑い声と、あの不気味な声が絡みつくように囁くのだ。まるで、私の血肉を貪ろうとでもしているかのように。
「よろしい、それで三節目ですね。では最後の詩もお願いいたします」
霊媒師の声は、感情の欠片もなく、ただ淡々と響く。その無機質な響きが、私の心臓を冷たい指で鷲掴みにするかのようだ。思わず視線を投げた先の千奈は両手で耳を塞ぎ、もう終わったのかと尋ねるように首を傾げている。私は無言で首を横に振り、まだ終わらないことを告げる。
「あの……」
私の声は、喉の奥で震える。
「……なんでしょう?」
霊媒師の瞳が、深淵のように私を覗き込む。 口にすれば災いが起こる詩を、まったく知らない誰かの名前で、すでに二度も詠んでしまった。この次で、全てが終わるのだろうか。それとも、まだ見ぬ奈落の底へと引きずり込まれるのか。私の手は、冷たい汗でじっとりと濡れていた。
佳南は震える声で尋ねた。
「この……名前の……、信楽釉乃って人は、大丈夫なんですか……?」
白石茜の時と同じように、顔も知らないその人物が自分のせいで襲われているかもしれない。あの惨劇が脳裏にフラッシュバックし、胃の底からこみ上げるような罪悪感が止めどなく押し寄せてくる。
霊媒師は佳南の不安を察したかのように、しかし感情を一切見せずに静かに言った。
「ご心配には及びませんよ。そのまま最後まで続けてください」
「で、でも……、また、私のせいで誰かを傷つけてしまってるかもしれない……」
佳南の言葉は尻すぼみに消えていった。罪悪感に苛まれる一方で、心の隅では、もしかしたら自分は助かるかもしれないという微かな期待があることを、彼女は否定できなかった。
「あなたは優しい方ですね」
霊媒師の声には、かすかな笑みのような響きがあった。
「ですが、その名前の人物なら何の問題もありません。災いに見舞われることも、呪いに怯えることもない。なぜならその人物はあなたの目の前に座っているのですから」
顔にかかった薄布の奥、その表情は読み取れない。しかし、佳南には、霊媒師の瞳が妖しく光ったように見えた。
佳南は息をのんだ。
「あなたが、信楽釉乃……さん」
その名前はまるで固い氷が溶け出すかのように、ゆっくりと、確実に、佳南の心に染み渡っていった。
「ご覧通り、私にはまったく影響はありません。さあ、早く最後の一節を……」
霊媒師は何事もないように促す。佳南は覚悟を決めたように最後の詩を詠み始めた。
◆
「信楽釉乃よ、信楽釉乃よ、もはや帰れぬ道、ただ堕ちるのみ。おまえの影は、深く、深く、奈落の最下層へ沈みゆく。地獄の釜が開かれ、業火が地を舐め尽くす。その中に、信楽釉乃、おまえはただ、溶け崩れ、消滅する」
ついに最後の四節目を詠みきってしまった。佳南は、またあの不気味な声が聞こえるかもしれないという恐怖に身を竦ませ、ぎゅっと目を瞑った。しかし、いつまで経っても耳に届くのは静寂ばかりで、身の回りに何の異変も起こらない。
「四節目が終わりましたね。体調はいかがですか?」
霊媒師の静かな問いかけに、佳南はこれまで感じたことのない明確な違和感を覚えた。それは、身体を覆っていた重苦しい膜が剥がれ落ちたような、不思議な軽やかさだった。
「詩が……、あの詩の文字が、頭から消えてる……」
思わず口に出た言葉は、自分でも信じられないほど震えていた。それまで一時たりとも頭から離れることのなかった、ぞっとするような不気味な文字の大群が、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っていたのだ。頭の中には、ただ広大な空白と、久しぶりに感じる清々しい空気が満ちていた。
「佳南……。もう、平気なの……?」
千奈の声が聞こえた。振り向くと、彼女は心配と不安が入り混じったような顔で佳南を見つめている。何か言いたげに口を紡ぐ千奈の姿に、佳南の目から熱いものがとめどなく溢れ落ちた。喜びと、これまでの苦しみから解放された安堵と、そして千奈への感謝の気持ちが、涙となって流れ出す。佳南は言葉にならない感情を込めて、何度も、何度も頷いて見せた。もう大丈夫、私は助かった、と伝えたい一心で。
「……ところで」
感傷に浸る間もなく、霊媒師の冷ややかな声が鼓膜を打った。その声は、佳南の沸き立つ感情とは対照的に、常に一定のトーンを保っている。
「先ほどあなたは二節目の詩から読まれていましたが、一節目の詩はどこへ行ってしまったのでしょう?」
「え……?」
佳南の心臓がどきりと跳ねた。一節目の詩……。あれは学校で、白石茜の名前で詠んでしまったものだ。あの時、呪いのように頭にこびりつき、消えてほしいとあれほど強く願った詩の言葉は、今は一文字も思い出せない。まるで、脳の中からその部分だけが切り取られたかのように、完全に記憶から抜け落ちていた。それは、解放された安堵の中に、微かな不穏さを残す問いかけだった。
千奈は背後から不安げな声を震わせた。
「あの、佳南に付きまとっていた黒い影はいったい何だったんですか。本当にこれで二度と現れないんですか?」
友人を案じるその健気な姿に、霊媒師の口元がふっと微かな笑みを浮かべた。
「……気になりますか?」
霊媒師の声は、次の瞬間には氷のように冷たく響いた。千奈は一瞬たじろぎ、後ずさりしそうになったが、それでもすぐに力強く頷いて応えた。
「フフ……。そこまで気になるなら仕方ありませんね」
霊媒師がそう呟くと、部屋に漂っていた伽羅の香りが一層強く、濃密になった気がした。風もないはずの締め切った部屋なのに、祭壇の蝋燭の赤い炎がゆらりと、まるで生きているかのように大きく靡いた。
「知らなくていいことなど、この世には沢山ある。それでも踏み込んできたのは、あなた達の責任ということをお忘れなく」
霊媒師の言葉が終わるか終わらないかのうちに、突然、蝋燭の炎は一斉にプツンと音もなく消え失せた。同時に、それまでの芳しい香りはあからさまなほど不快な腐臭へと変わり、闇の中に千奈と佳南の息をのむ音が響いた。
◆◆
冒涜的な存在の肖像。そんな言葉が頭に浮かぶ。
暗闇の中でそれは唐突に浮かび上がった。
頭部は悪しき存在の皮膚を思わせる、爬虫類の鱗のようなざらついた質感に覆われている。その表面は触れることを躊躇わせるほどに生々しく、ぞっとするような不気味さを漂わせている。中央からは鋭い鳥のようなくちばしが突き出し、捕食者の冷酷さをありありと示す。その先端からは、まるで獲物を絡め取るかのように蛇のように細く長い舌が二股に分かれてうねり、見る者に生理的な嫌悪感を催させる。 顔の大部分を覆う黒い羽毛のような質感は、暗闇に溶け込む影そのものの存在を示唆し、その実体の掴めなさが恐怖を増幅させる。しかし、その漆黒のただ中に、ギラギラと光る琥珀色の瞳が異様な輝きを放っていた。 その瞳は底知れない悪意と冷たい知性を宿しているかのようで、じっと見つめられると魂を吸い取られるかのような錯覚に陥る。口元に浮かぶ薄い笑みは、嘲笑とも、あるいは何か恐ろしい企みを含んでいるかのようにも見え、その真意が読めないことがさらなる不安と恐怖を掻き立てる。
その姿は……、人間離れしていながらも、どこか人間の悪意や狂気、あるいは心の奥底に潜む闇を象徴しているかのようだ。見る者の理性では理解しがたい、本能的な恐怖を呼び覚ますように語りかけてくるようであった。
佳南は短い悲鳴をあげる。
「コイツだ……、コイツがずっと私を見ていた。夢の中でも、現実でも、どんなところでも……」
息をすることも忘れてしまうほど不気味なソレから目を離すことができない。少しでも目をそらしたら、また付きまとって来るかもしれない。言いようのない恐怖心がウイルスのように身体の中で爆発的に広がっていく。
「……ご覧になられましたか?」
霊媒師の声が聞こえると、部屋の中に蝋燭の灯りが伸びた。思い出したように呼吸をする二人は、かつてない恐怖に小さな身体を震わせていた。
「今のがあの詩の正体。見た目からして高位の精霊や霊魂ではないのでしょうけれど、相当な怨念が込められていました」
赤く揺れる光が顔にかかった薄布に反射して、燃え盛るように輝いていた。
「その詩に添えられた名は、まさに今、目の当たりにした怨念によって災いを呼び寄せられる。初めて詩を耳にした時、相手はあなたの本名を知らなかった。だから、その災いは実行されず、かわりにあなたは語り部として選ばれた。詩を詠まずにはいられないほどに、その精神を蝕まれながら……。詩を口にすれば、呪いがまき散らされる。しかし、詠まなければ、あなたの精神は深く深く追い詰められていく。その言葉が喉まで出かかっているのに、決して口に出せない苦痛。言葉を発しない限りは正気を保てるというのに、まるで中毒のように、詩を詠むことへの抗しがたい衝動に駆られる。この悪夢のような状況から逃れる術はただひとつ、あの詩を詠むほかにない。身体と精神の奥底渦巻いた、歪みきった膿を吐き出すように……」
その言葉にこの一週間ばかりの出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていく。
「あなたが聞いた詩は全部で四節。しかし、一節目の詩は既にあなたから抜け出してしまっている。残りの三節は私が確かに引き継ぎましたが、逃げられてしまった一節目の行方は私にもわかりかねます。再びそれがあなた方を襲ってこないという保証はできません」
気がつけば私と千奈は寄り添うように互いに抱き合っていた。
「私から助言できることは、ただひとつ。全てを忘れなさい。それだけが唯一、あなた達にできる身を守る術でしょう」
鈍い衝撃音が、ひっそりと静まり返った空間に不自然に響いた。その直後、背後の暗闇から、か細い光の筋がゆっくりと伸びてくる。足を絡め取る蛇が迫るように、それは二人の影を長く引き伸ばし、薄闇の中に溶け込ませていく。二人にはもはや言葉を発する気力もなく、生気のない瞳で地面を見つめていた。促されるまま、というよりは、見えない何かに引きずられるように開かれた出口の白い口の中へと、音もなく消え去っていった。