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第四十四話 二節目『魂の断末魔』

 佳南は、遠くで響く叫び声に全身を震わせた。教室から一番離れたトイレへと駆け込み、冷たい個室の隅で膝を抱え、耳を塞いでうずくまる。心臓が警鐘のようにドクドクと鳴り響き、こみ上げる吐き気に何度も胃液が逆流した。


 荒い息づかいを整えようと固く目を閉じると、瞼の裏に白石茜の凄惨な最期の姿が鮮明に蘇る。骨が砕け散る悍ましい音、飛び散る鮮血、そして変わり果てた茜の右足――。その光景が焼き付いた瞳から、熱いものがとめどなく溢れ落ちた。同時に、ずっしりと重い罪悪感と自己嫌悪が津波のように押し寄せ、佳南は堪えきれずに何度も嘔吐した。


「私のせいだ……私が、あの詩を詠んでしまったからだ……」


 佳南の頭の中は、まるで嵐の後の海のように荒れ狂っていた。思考は完全に罪の意識に囚われ、出口の見えない迷路をさまよう。ほんのわずかに抱いていた「あの詩の呪縛から解放されるかもしれない」という淡い期待は、打ち砕かれた希望の残骸となって散乱していた。絶望が鉛のように心に沈み込み、佳南はただ、壊れた人形のように震え続けることしかできなかった。


 しばらくその場にへたり込み、ただひたすらに嗚咽を漏らしていた。耳を劈くような悲鳴が響いていたはずなのに、ふと気がつくと、その恐ろしい声はぴたりと止んでいた。心臓が凍りつくような静寂に、ゆっくりと顔を上げる。その瞬間、「チリン」と、まるで氷の粒が触れ合うような、澄んだ鈴の音がすぐ近くで鳴り響いた。


「――佳南!そこにいるの!?」


 ガタガタと乱暴にトイレの壁が叩かれる音と同時に、親友である千奈の焦りと不安に満ちた声が聞こえた。その声にどれだけ応えたいと思っても、喉からはひゅーひゅーという嗚咽しか漏れてこない。全身の震えが止まらない。


「佳南、いるんでしょ?とにかく、出てきて!」


 千奈の声は、私を呼ぶたびに切迫感を増していく。私はこのまま、この恐怖に囚われた空間に閉じこもるべきなのだろうか。それとも……。


「大丈夫!私は佳南の味方だから、一緒にあの霊媒師のところへ行こう」


 私の親友、千奈の声は普段の揺るぎない芯の強さとはまるで違い、微かに震えていた。その震えは、彼女が心から私のことを心配してくれている証だった。私の胸に温かいものが込み上げる。


 私は震える手でゆっくりと鍵を外した。重い扉が軋みを立てながら開くと、そこにはこれまで見たことのない表情の千奈が立っていた。彼女の瞳は潤み、その顔には深い安堵と、それから、私が苦しんでいることへの痛みが浮かんでいた。


 私が泣き崩れるのを見るやいなや、千奈は何も言わず、ただ私を強く抱きしめた。彼女の腕の中に包まれると、張り詰めていた心が少しずつ溶けていくようだった。


「佳南、心配したよ、大丈夫?」


 千奈の声は優しく、私の背中をそっと撫でる手が、私を安心させてくれた。


「千奈……、ありがとう……、私、取り返しのつかないことを……」


 私は嗚咽を漏らしながら、白石茜に向けてあの詩を詠んでしまったこと、そしてその後に起こったおぞましい出来事を、拙い言葉で千奈に伝えた。千奈は私の話を遮ることなく、ただじっと、その全てを受け止めるように黙って聞いてくれた。その沈黙は、私にとって何よりも心強いものだった。


 千奈は私の話をすべて聞き終えると、その表情には深い安堵の色が浮かんでいた。そして、そっと小さな鈴のついたお守り袋を私に差し出した。その手は、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように丁寧で、彼女の優しい心遣いが伝わってくる。


 私は両手でそっとそれを受け取った。その瞬間、先ほど千奈が動いたときに聞こえた、澄んだ鈴の音が再びチリン、と優しく響いた。手のひらに乗ったお守りは、温かい千奈の心のようにじんわりと熱を帯びているように感じられた。


「これね、魔除けの効果がある御守り。きっと佳南の事を護ってくれるはず」


 千奈の声はまるで私を包み込むような柔らかさで、その言葉の一つ一つが心の奥底に染み渡るようだった。子供騙しの気休めだと頭ではわかっていた。それでも、不安で凍りついていた私の心は、彼女の純粋な優しさに触れ、少しだけ溶けていくのを感じた。この小さな御守りが、まるで千奈自身が私を護ってくれているかのように思えて、私の胸には温かい光が灯った。



 佳南のクラスは今朝の騒動から急遽、生徒たちを帰宅させた。まるで殺人事件の現場のように凄惨な教室は当然のごとく封鎖され、何人もの生徒が体調不良を訴えていた。その光景は、佳南の心に深い影を落とした。肺腑をえぐられるような罪悪感が彼女を苛む。自分がいなければ、こんなことにはならなかったのに。


「佳南、いこう」


 別のクラスの千奈が、佳南の前に立っていた。彼女もまた、どこか青白い顔で体調がすぐれないフリをして早退してくれたのだ。佳南は、そんな千奈の優しさが、胸に痛い。


 二人は数日前に訪れた新宿の雑居ビルを目指し、足早に駅へと向かった。重い沈黙が二人を包む。


「千奈……、私のせいで……本当に、本当にごめんね」


 佳南は震える声で絞り出した。千奈は何も言わず、ただ黙って首を横に振る。そして、何もかも受け止めるように、佳南の冷たくなった手をそっと握り返してくれた。その手の温もりが、佳南の心をわずかに溶かしていく。しかし、胸の奥に渦巻く不安は、拭い去れるものではなかった。


 新宿駅東口に降り立つと、正午近い日差しがアスファルトを照りつけ、まばらな人影が足早に行き交っていた。数日前、初めて訪れた時の記憶を辿りながら、私たちは目的の場所へと向かう。東口からすぐの路地へ足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。記憶を頼りに細い道を何度か曲がるうちに、周囲を行き交っていた人影はいつの間にか消え失せ、しんと静まり返った路地には、私たちの足音だけが響いていた。


 その時、千奈がふと立ち止まり、まるで何かを探すように周囲を見渡した。彼女は瞳を細め、不思議そうな、しかしどこか警戒するような面持ちで、じっと辺りを見つめている。


「どうしたの……?」


 私の声が、静寂に溶けていく。


 千奈はゆっくりと首を横に振った。


「いや……、こんな道、この前も通ったっけ?」


 言われてみれば、確かに見覚えがあるような、それでいて全く初めての場所のような、奇妙な感覚に襲われる。私はスマートフォンを取り出し、地図アプリを起動した。画面に表示されたピンのアイコンは、目的の場所がすぐそこであることを示している。


「もしかして、別の道から来ちゃったのかも。でも地図上だと、もうすぐそこみたいだよ」


 私が画面を差し出すと、千奈はまだどこか納得しきれないような、訝しげな表情で小さく頷いた。目的地まではもう百メートルもない。液晶に映し出された道順を頼りに、私たちは再び静かな路地へと足を進めた。


 それから一分もしないうちに目的の雑居ビルは姿を現した。【千眼珠藻 霊視鑑定処】と書かれた控えめな看板を見る二人は、入り口の扉に手を掛けた。


◆◆


 薄暗い階段を上るたびに、まるで深淵から響くかのような自分たちの足音が、もの寂しいというよりもむしろ不気味な感覚を伴って聞こえてくる。二人の足音以外、何の物音もしないビルの中は、まるで生命の気配が失われたかのようにひっそりと静まり返っていた。


「千奈……?」


 重い空気に耐えかねたように、階段を上りながら難しい顔で周囲を見回す千奈に、佳南はたまらず問いかけた。彼女の表情には明らかな緊張が浮かんでおり、佳南の胸にはじんわりとした不安が広がっていく。「なんでもないよ」千奈はそう答えたものの、その短い一言はむしろ彼女が何かを強く警戒していることを示唆していた。佳南が千奈のただならぬ様子を気にしていると、知らず知らずのうちに目的の三階へ辿り着いていた。


「……前に来たときも、こんな造りだったっけ?」


 千奈の声には、困惑と疑問が混じっていた。目の前にあるのは、錆びた鉄扉。その横には、ひっそりと「霊視鑑定処」と書かれた札がぶら下がっている。佳南もまた、以前訪れた時とは異なる印象に首を傾げた。


「少し違う気もするけど、ちゃんと表札には書いてあるよ」


 佳南は、その違和感を拭い去れないまま答える。他に頼る術がない佳南にとって、今さら引き返すという選択肢は存在しなかった。簡易的なドアノブにそっと手を掛け回すと、それは予想に反してあっけなく、そして不気味なほどスムーズに開いた。


「いらっしゃいませ……。どうぞ……、手前の部屋へお進み下さい」


 軋む音を立てて開かれた扉の先には、着物姿の小柄な女性がうつむき加減に立っていた。彼女の漆黒の髪は、その伝統的な衣装にはまるで不釣り合いなツインテールに結ばれており、佳南と千奈は思わず息を呑み、一瞬にしてその場に縫い付けられたように固まってしまう。しかし、女性に促されるまま、二人は戸惑いを覚えながらもその先に足を進めた。


「着物姿にツインテールって、奇抜な人だね……」


 思わず佳南が小声で千奈に囁くと、千奈もまた何度か振り返り、その異様な組み合わせに視線を送っていた。廊下の薄暗闇の中、奇妙な静寂が二人を包み込む。


「――どうぞ」


 やがて、進められた仕切りの前に立つと、まるで暗幕の向こうから響くかのような、抑揚のない声が聞こえた。佳南と千奈は不安げに顔を見合わせ、意を決したように互いに小さく頷き、重い足取りで中へと進む。薄暗い部屋の中には、言いようのない、しかしどこか甘く、そして不気味な香気が漂っていた。それはまるで、古びた書物と線香が混じり合ったような、独特の匂いだった。


「どうぞ、そちらにお掛けください」


 部屋の真ん中に置かれた長机を挟んで、顔を伏せた人物が囁くように言った。その声は、感情の読めない平坦な響きを持ち、千奈と佳南の心をざわつかせた。促されるまま、二人は鉛のように重い息を吐き出し、深く腰を下ろした。座った瞬間、冷たい空気が肌を撫で、得体のしれない不安が全身を包み込んだ。


「あの、前回の方……、雫さんではないのですか?」


 机を挟んで座る人物は、薄布で顔を隠しており、その視線はおろか、表情すら読み取ることができなかった。まるで感情を剥奪されたかのようなその佇まいに、佳南の胸には一層の不安が募る。心臓がドクドクと不規則な音を立て、手のひらにはじんわりと汗が滲んだ。


「前任の者より事情は聞いております。前回の者は別の案件で体調を崩しておりまして、私が引き継がせて頂きます」


 薄いベールの向こうで、僅かに口許が弛んだのが見えた。その笑みは、歓迎というよりは、むしろ底知れない不気味さを孕んでいるように感じられた。佳南は思わず身震いし、隣に座る千奈の顔を窺うと、千奈もまた固い表情で視線を前方に向けていた。


「あの、お金のことなんですけど……」


 開口一番、佳南はたまらず本心を打ち明けた。その声は、微かに震え、上ずっていた。補足するように、隣で千奈も切羽詰まったように口を開く。


「必ず用意します。ですが、今、佳南には時間がないんです!」


 二人の慌てる様子を、霊媒師はただ静かに見守っていた。そして、微かな笑い声を上げた。その笑い声は、二人の焦燥とは裏腹に、まるで全てを見通しているかのような、冷たい響きを持っていた。その響きは、薄い氷が砕けるような、あるいは遠くで金属が擦れるような不快な音で、二人の神経を逆撫でする。


「いいえ。その心配は無用でしょう。私共の検討の結果、やはり人助けが第一という考えに至りました。金銭は必要ございません」


 その言葉に、佳南と千奈は思わず顔を見合わせた。信じられない、という戸惑いと、一筋の希望が交錯する。


「お金は、いらない……?」


 佳南が呆然と呟くと、霊媒師は再び静かに頷いた。


「ええ、私共は一切頂きません。そのかわり……」


 霊媒師は含んだように息を吐いた。その間が、二人の心臓を締め付ける。


「ここで見たもの、及び、聞いたことは全て他言無用とお約束ください。それが守れるのであれば、このまま除霊を執り行いましょう」


 佳南は思わず隣に座る千奈に助けを求めるように視線を送った。千奈は黙ったまま、しかし力強く頷いていた。その瞳には、佳南と同じく、この状況を受け入れる覚悟が宿っているように見えた。


「よろしい。それでは、お連れの方は耳を塞いで頂きましょう。万が一、危険の矛先がそちらに向かないとも限りませんから。そして、あなたには……」


 霊媒師は何かを手元の紙に記し始めた。カリカリとペンが紙を擦る音が、静寂に響き渡る。


「……この名前で、先刻の詩をお読みください」


 紙を受け取る佳南は、その薄暗い部屋の中で、凄惨な白石の件を鮮明に思い出した。脳裏に蘇る悪夢のような光景に、一瞬の戸惑いが走る。しかし、目の前の霊媒師の冷徹な視線に促されるように、意を決して口を開いた。声は、まだ微かに震えていた。


「……■■■■よ、……■■■■よ」


 そこに書かれた名前には、まったく聞き覚えがなかった。


「……風が屍を穿つ夜におまえの魂は、粘つく闇の奥底へと引きずり込まれる 腐臭を纏い舞う黒い鳥、蛆が蠢く不浄の谷間 そこには、無数の白濁した眼が、おまえを嘲笑い、爛々と光る」


 促されるまま、私は二番目の詩を詠んでしまった……。



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