第四十三話 一節目『血の慟哭』
闇が窓の外に蠢き、今日で六日目の夜を迎えようとしていた。あの悍ましい詩を聞いてから、私の時間は止まったままだ。二日前、藁にもすがる思いで訪ねた霊能者の口から出た金額は、私の喉笛を掻き切るには十分すぎるほどの途方もない額で、聞くだけで絶望が胃の腑の奥底へと沈み込むようだった。たとえ金を工面できたとしても、この呪いのような現象が本当に解決する保証などどこにもない。あの雫とかいう霊能者の欺瞞に満ちた言葉が、私の心を一層深く、泥濘へと引きずり込んでいく。
小林佳南は、鉛のように重い頭をようやくのことでベッドから引き剥がし、ずるずると這い出た。もう夜が明けたのか。ここ数日、まともに眠れた記憶など一片もない。鏡に映る自分の顔は、目の下の隈が醜悪なまでに色濃く刻まれ、まるで生気のない打ち捨てられた人形のようだ。
日を追うごとに、自分が確実にすり減っていくのがわかる。精神が、存在そのものが、少しずつ削り取られ、薄汚れた滓となって消えゆくような感覚に苛まれる。毎晩現れるあの黒い人影は、昨晩ついにその不気味な相貌がはっきりと見えるほど近くまで寄ってきた。血走った眼窩が私の顔を覗き込み、粘液に塗れたような声で、耳の奥に直接ねじ込むように語りかけてきたのだ。
「キゲンハ……アト、一日……」
この世のあらゆる穢れと不快さを凝縮したような声が今も耳の奥で、蛆虫のように脳髄を蝕んでいく。私に残された時間は、あとわずか。破滅へのカウントダウンが、刻一刻と、私の生を削り取りながら迫っている気がしていた。
スマートフォンが、死んだような静寂に包まれた部屋でけたたましい電子音を立て、私の神経を逆撫でする。重い体を起こし、震える手でそれをゆっくりと手にする。液晶画面に友人の「千奈」という名前が映し出され、ほんのわずか安堵が胸に広がる。意を決して通話ボタンをタップし、冷たい端末を耳に当てた。
「――佳南、大丈夫?」
電話の向こうから聞こえる千奈の優しい声に、張り詰めていた心の枷が、ぎしりと音を立てて少しだけ緩む。
「千奈……助けて……私、このままじゃあ、きっと……」
喉の奥から絞り出すような声が、か細く、今にも千切れそうに震えた。千奈の心配そうな声がさらに鼓膜を震わせる。
「――どうしたの、何があったの?」
その問いかけに、抑え込んでいた恐怖が再び込み上げる。脳裏にあの不気味な詩が、まるで蠢く虫のように這いずり回り、私の思考を汚していく。頭を振って振り払おうとするが、一度こびりついた詩はしつこく意識にまとわりつき、粘液のように絡みつく。
「――今からそっちに向かうから、そのまま家にいて!」
千奈の力強い声が、かろうじて佳南を現実の奈落から引き戻す。消え入りそうな声で返事をすると、通話はあっけなく切れた。途端に、リビングから母親の、心配そうな声が聞こえてくる。
「佳南、まだ起きてこないの?」
きっと、いつまでも部屋に閉じこもっている私を案じているのだろう。しかし、口が裂けてもあの馬鹿げた金額を母親に頼むことなどできない。それどころかそんな話をすれば、今度は母親にもあの「影」が忍び寄る気がした。
佳南は静かに、そして深く震える肩を抱きしめた。冷たい指先が皮膚に食い込むほど強く握りしめ、まるで自分自身に言い聞かせるように、震える唇から呟いた。
「私……、どうしたら……、いいの……」
◆
千奈が血相を変えて佳南の家に駆けつけてきた時、玄関で迎え入れた母親は、そのただならぬ様子に訝しげな表情を浮かべていた。制服に着替えたばかりの佳南は、そんな母親にこれ以上心配をかけまいと、努めて平静を装い家を出た。
「佳南、本当に学校なんか行って平気なの?」
隣を歩く千奈の表情には、佳南の身を案じる、痛々しいまでの気持ちがはっきりと滲み出ていた。その声は心なしか震えている。
「うん、家にいても、心配させるだけだし……」
佳南は、自分を気遣ってくれる友人の優しさに、精一杯の声で応えた。だが、その声は想像以上に震え、今にも千切れそうだった。
「お金なら私も一緒に何とか用意するから、今日の放課後、またあの霊媒師のところ行ってみよう?」
千奈の顔が一瞬、不安そうに曇ったように見えた。他に頼れる当てがない以上、彼女の提案が今は最善なのかもしれない。佳南の胸には、一縷の希望と、それ以上の深い不安が、血のようにどろりとよぎる。
「うん……、放課後まで、また何かあったら、考えてみる」
学校へ到着した二人はそれぞれの教室へと別れた。佳南はまるで罪人のように、また顔を伏せて教室に入る。その足取りは重く、視線は床に縫い付けられている。入り口でクラスメイトとぶつかりそうになり、佳南はびくりと肩を震わせ、怯えるように頭を下げた。
「あ、ごめんね」
明るい声が頭上から降ってくる。佳南はどもりながら、「う、うん、私も、ごめん、なさい」と消え入りそうな声で答えた。心臓がドクドクと不気味な音を立て、全身が硬直する。喉の奥には苦い薬を飲み込んだ重苦しさが広がり、舌の上には錆びた鉄のような嫌な味がこびりついている。一刻も早くこの場から逃れたい一心で、佳南はそそくさと自分の席についた。
ぶつかった女子生徒は、そんな佳南を気にする様子もなく楽しそうに笑いながらグループの輪の中へ入っていく。彼女の名前は白石茜。特別美人というわけではないが、クラスの人気者で、太陽のように明るいムードメーカーだった。佳南とは真逆の、眩しすぎる光。その存在自体が、佳南にとってはまぶしすぎて、そして遠すぎた。佳南の心は、白石の輝きとは対照的に、深い影の中に、澱のように沈んでいく。
◆◆
月曜日の朝、女子校特有の閉塞的な甘ったるい臭気が満ちる教室で佳南は息を潜めていた。クラスメイトたちの楽しそうな声が、まるで自分だけを嘲笑うかのように響く。新しい週の始まりを告げる賑やかなおしゃべりは佳南の心に深い不快感と嫌悪感を貼り付けていた。彼女は、その輪の中に入れず、ただ羨ましそうに、しかしどこか怯えたようにその光景を盗み見るしかなかった。
どうして私だけが、こんな目に合わなきゃいけないの?
佳南の胸の奥底で、黒い感情の塊が脈打ち、みるみるうちに膨れ上がっていく。それは頭の芯をじりじりと焼くような熱さに変わり、視界が歪むほどの強いめまいを誘発した。その時だった。
「……イ、……チ」
背筋を這い上がるような、冷たい声が耳元を掠めた。佳南の身体がビクリと跳ね、反射的に顔を伏せた。恐る恐る、声のした方へ視線を向けてみる。楽しそうに談笑していたはずのクラスメイトたちの固まったグループの中に、一人だけ、佳南の方を向いている子がいた。
「アト……一日……」
その子の顔は佳南が昨晩見た悪夢に出てきた、あの不気味な人影と同じ顔に変わっていた。目は虚ろに窪み、口元は裂けるように歪んでいる。一瞬、喉から叫び声がこみ上げるのを、佳南は必死で飲み込んだ。全身の血が凍りつき、教室のざわめきが遠のいていく。まるで自分だけが、この世から切り離され、透明な壁の向こうに存在するかのようだった。 教室の後ろで楽しげな笑い声が響く。「――でさぁ!」「――なにそれ、めっちゃウケる!」教室の後ろの方から聞こえるその声は、佳南にはやけに鬱陶しく、耳障りに響いた。自分はこんなにも苦しんでいるのに、あの子たちはいつも通りの平穏を無駄に、享楽的に過ごしている。
この差は一体なんだ?佳南は心の中で叫ぶ。自分が何をしたというのだ。無性に腹が立ってくる。押さえ込もうとすればするほど、それは燃え盛るように、業火のように昂っていく。
「――アイツまじでウザいよねぇ、死ねってかんじ!」
不意に、白石の甲高い声が耳を劈いた。当然ながら佳南に投げられた言葉ではないのはわかっている。わかっているのに、怒りが最後の堰を超えた。心臓がドクドクと脈打ち、指先が震える。内臓がひどくねじれるような感覚に襲われ、胃の奥から込み上げる酸っぱいものが喉元までせり上がってくる。佳南は、燃えるような怒りの炎に、意識を焼き尽くされるのを感じた。
佳南は顔を伏せる。ふっと、呪詛のように息を吐いて目を剥くと、口から次々と言葉が、毒のように漏れだした。
「白石茜よ、白石茜よ、一人、深淵に吐血する白石茜よ。おまえの穢れた血潮は、七つの地獄の底なし沼へと澱みゆく。針の山を這いずる亡者、その眼窩に宿るのは、朽ちた肉塊を貫く、血塗られた錆の刃……」
佳南は抑えきれない衝動に駆られて、あの詩を吐き出した。言葉が唇から滑り落ちるやいなや、彼女の心は猛烈な罪悪感に苛まれた。なんて恐ろしいことをしてしまったのだろう。地獄に引きずり込まれるなんて信じていない。しかし、ここ数日の奇妙な出来事を考えると、それが全て嘘だとも言い切れなかった。
佳南は震える体で顔を上げ、教室の後ろで談笑している白石に目を向けた。
「──でさぁ、昨日ね……」
白石には、何も変わった様子は見られなかった。壁際に並んだロッカーにもたれかかり、楽しそうに会話を続けている。
よかった……何も起こらなくて……。
佳南の胸に安堵が広がる。しかし、それは同時に拭い去れない、粘りつくような不安でもあった。それでも、自分の身可愛さにクラスメイトに危害が及ばなくてよかったと、佳南は談笑する白石をじっと見つめていた。ふと、白石が寄りかかっている錆びついたロッカーに目がいく。そこに、ぬるりとした、理解しがたい違和感がにじみ出していた。
「え……な……に……あれ……?」
佳南は思わず声を漏らした。
白石の右足のふくらはぎのあたり、下から二段目のロッカーが、音もなく、ゆっくりと、まるで生き物のように開いたのだ。佳南の視線は、その異常な光景に釘付けになる。爛れたような赤黒い腕が、白石の白い足へと、ぞっとするほどゆっくりと、絡みつくように伸びていった。
「──ちょっ、と、え、なに!?」
次の瞬間、白石が金切り声を上げた。ロッカーの暗闇へと、ずるずると引きずり込まれる白石の右足。ロッカーの暗闇が、まるで生き物のように白石を飲み込もうとしている。
「きゃああああアアーーーッ!」
耳をつんざくような悲鳴が、まるで伝染するかのように教室のあちこちで木霊した。ついさっきまで穏やかな話し声に満ちていた空間は、一瞬にして凍りつくような恐怖と混乱、そして血の匂いに塗りつぶされる。床に流れ出した真紅の液体が、じりじりと、まるで意思を持つかのようにその面積を広げていく。それは瞬く間に血の池となり、不気味な光を反射して、粘りつくように揺らめいていた。白石のけたたましい絶叫が、そのおぞましい光景に拍車をかける。
ゴトン、と乾いた重い音が響き、何かが床を転がる。その音のする方へ視線をやると、白石が苦痛に顔を歪ませ、必死に右足を押さえて倒れているのが見えた。彼の足元には先ほどまでそこにあったはずの、今は欠損し肉の塊と化したものが、ぬめりと血にまみれて横たわっている。
パニックに陥ったクラスメイトたちの悲鳴が嵐のように飛び交う中、佳南の耳元で、あの声が再び、冷たく、深く、脳髄に響いた。
「ツギワ……マタ、七日後……」
冷たい、感情のないその声は、佳南の思考の奥深くにじわりと染み込み、魂を蝕んでくる。それは現実の喧騒とは隔絶された、不気味なほどの静けさで響き、彼女の心臓を鷲掴みにした。同時に、体の内側から湧き上がるような、耐え難い吐き気に襲われた。胃が痙攣し、喉の奥がひりつくような感覚に、佳南は思わず口元を押さえた。
気がつけば、佳南は自分でも意識しないうちに、制御不能な悲鳴をあげながら教室を飛び出していた。背後で、血の匂いと絶叫が、まるで泥沼のように彼女を追いかける。その粘着質な足音は、永遠に響き続けるかのようだった。