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第四十二話 トミノの地獄


「はい、これで出来上がり!」

 一仕事終えた羽仁塚は、晴れやかな声を弾ませた。その言葉と同時に、私の腰をポン、と軽く叩く。幾重にも締められた太い帯が、厚く、そしてどこか心地よい音を奏でる。


「く、苦しい……気がする」


 それまで一度も和服に袖を通したことのない怜衣は、ずしりと重たい着物の感触に、思わずといったように声を漏らした。幽霊である身体は苦しさを感じないはずだが、締め付けられる感触が頭の中でイメージされてしまう。


「あら、レイちゃん可愛い!」


 すでに艶やかな着物姿の釉乃が、怜衣の姿をまじまじと、そして嬉しそうに見つめてくる。


「いつものロリータもいいけど、和装も似合うわね」


 その言葉には、心からの賛辞が込められているようだった。


「レイ子ちゃん、とっても似合ってるわ。まるでお人形さんみたいよ」


 着付けを終えた羽仁塚は、満足そうに何度も頷いている。その眼差しは、自分の作品を眺める画家のようでもあった。


「でも、なんで急に着物なんて……?」


 鮮やかな花々が咲き誇るような振袖に、怜衣もまんざらではないといったように、頬をわずかに染めている。しかし、突然の出来事に、彼女はやはり首を傾げずにはいられなかった。


「特に理由なんてないわよ?」


 釉乃はあっけらかんと言って微笑んだ。その笑顔には、まるで悪戯が成功した子供のような、隠しきれない喜びが滲んでいた。


「せっかくだからレイ子ちゃんにも着せてあげようって、昼間、おつやさんと話していたのよ」


 隣に立つ羽仁塚も同様に、満足そうな笑みを浮かべている。その表情は、怜衣の困惑を面白がっているかのようだった。あきれた怜衣が眉をひそめていると、リビングの大きなガラス窓にかかるカーテンが、まるで招き入れるかのようにふわりと揺れた。


「あー、疲れたぁ……」


 小言を漏らしながら、ふわふわと浮遊する鈴那の姿がそこにあった。彼女の白いTシャツが、夕暮れ時の柔らかな光を吸い込んで淡く輝いている。


「鈴那ちゃん、おかえり」


 釉乃の声に、鈴那がゆったりとリビングへと滑り込んでくる。


「ただいまぁ……って、なんやのその格好!」


 鈴那の視線は、瞬時に怜衣の着物姿を捉えた。その声には、驚きと同時に、純粋な好奇心が込められている。


「これは……えーっと……」


 説明しようのない状況に、怜衣は助けを求めるように釉乃と羽仁塚に視線を向けた。しかし、二人は得意げに微笑むだけで、何も答えようとしない。まるで「さあ、どう説明するの?」とでも言いたげな表情だ。


「めっちゃ可愛いやん! あ、釉ねぇも一緒やん。ええなぁ、ウチも着たい!」


 鈴那の瞳が、きらきらと輝きだす。その無邪気な羨望の眼差しに、釉乃は目を細めた。


「そう言うと思って着物はまだ用意してるわよ。あれ、でもメリイちゃんはまだ物に触れられないんじゃなかった?」


 釉乃の言葉に、鈴那はぴたりと動きを止めた。その表情に、ほんの一瞬、落胆の色が浮かんだが、すぐに何かを企むような笑みが浮かんだ。


「フッフッフ……、甘いで、ハニやん。それは少し前のウチや、今はもう前のウチとはちゃうで!」


 鈴那はそう言うと、得意満面の笑みを浮かべながら何かを取り出して見せた。


「じゃーん、どや! スゴいやろ?」


 彼女の手にしっかりと握りしめられていたのは、大ぶりなストラップが付いた古いタイプのスマートフォンだった。


「すごい、鈴那ちゃんいつの間に物に触れられるようになってたの!?」


 怜衣は目を丸くして驚きを露わにした。


「へへへ。ウチやってただ遊び歩いてたわけとちゃうで? このスマホな、ウチが生前に使ってたヤツで、かなでがずっと大事に持っててくれたみたいやねん。部屋にあるの見つけて持ってきたんや」


 鈴那は愛おしそうにスマートフォンを胸に抱いていた。事故で亡くなった遺品を、彼女の親友はずっと大切に保管していたのだろう。怜衣は胸の奥がじんわりと暖かくなるのを感じた。


「ところで、レイちゃんから大体の話は聞いたけれど。鈴那ちゃんが追いかけてた女子高生はどうだったの?」


 釉乃が柔らかな口調で尋ねると、鈴那はハッとしたように顔色を変えた。まるで忘れていた宿題を思い出したかのように、その表情には焦りの色が浮かぶ。


「そうやった! さっきの女子高生、小林佳南こばやしかなみはあのあと普通に学校行っとったで。ただあんな要求されてからやのに、普通過ぎて逆に変やったけど」


 鈴那は眉間にしわを寄せ、納得がいかないとでも言うように唸った。その様子からは、佳南の振る舞いが彼女の予想を大きく裏切ったことが見て取れる。


「あんな要求? そういえば、さっきの霊視鑑定処で何があったの? 奥から出てきたとき、鈴那ちゃん慌ててたよね」


 釉乃はあの時の鈴那のただならぬ様子を思い出し、心配そうに問いかけた。たしかに、奥の部屋から飛び出してきた彼女は、尋常ではない様子で息を荒げていたのだ。


「それなんやけど、あの子の話だとなんか祟りみたいな目に遭っとるらしくて……それで雫って霊能者が提示したんは着手金で十万円、解決まで百万円なんて言うてた。そんな馬鹿な金額、高校生に払えるわけないやん!」


 鈴那は興奮した様子でまくし立てる。憤りとも呆れともつかないその声には、理不尽な状況への怒りがにじんでいた。怜衣と釉乃は、その話に驚きを隠せないまま顔を見合わせた。十万円、百万円という途方もない金額は、高校生には到底手の届かないものだ。


「その子が話してた祟りみたいなのって、具体的にはどういうものなの?」


 釉乃の問いかけに、鈴那は「あっ!」と声を上げて目を見開いた。まるで大切なことを思い出したかのように、彼女は慌ててスマートフォンを取り出し、素早い動きで画面を叩き始めた。


「そやった、これ見てみて!」


 鈴那はすぐにスマートフォンを向ける。小さな画面に映し出された映像に、三人は顔を寄せ、目を凝らした。




チノドウコク ■■ヨ、■■ヨ、ヒトリ、シンエンニトケツスル■■ヨ オマエノケガレタチシオハ、ナナツノジゴクノソコナシヌマエトヨドミユク ハリノヤマヲハイズルモウジャ、ソノガンカニヤドルノハ クチタニクカイヲツラヌク、チヌラレタサビノヤイバ


タマシイノダンマツマ ■■ヨ、■■ヨ、カゼガシカバネヲウガツヨルニ オマエノタマシイハ、ネバツクヤミノオクソコエトヒキズリコマレル フシュウヲマトイマウクロイトリ、ウジガウゴメクフジョウノタニマ ソコニハ、ムスウノハクダクシタメノ、オマエヲアザワライ、ランラントヒカル


エイゴウノクモン ■■ヨ、■■ヨ、ユメトウツツノハザマ、コオリツクナラクノフチ オマエノアシオトハ、チニクヲススリナガラジゴクヲメグル ホネトホネガスレアウ、キシムオト、カラミツクノロワレタクサリ ヒビキワタルハ、エイゴウノクモンノサケビ、オワリノナイゼツボウノシラベ


ナラクノゴウカ ■■ヨ、■■ヨ、モハヤカエレヌミチ、タダオチルノミ オマエノカゲハ、フカク、フカク、ナラクノサイカソウヘシズミユク ジゴクノカマガヒラカレ、ゴウカガチヲナメツクス ソノナカニ、■■、オマエハタダ、トケクズレ、ショウメツスル



 鈴那のスマートフォンの液晶には、理解不能な文字の羅列が異様な光を放っていた。思わず、それを声に出して読み上げようとする怜衣を、鈴那は血相を変えて制止した。


「ちょ、待った! 口に出して読むと呪われるって、さっきの雫って霊能者が言ってたで!」


 慌てて言葉を紡ぐ怜衣は、改めてスマートフォンの画面を凝視し、尋ねた。その眼差しには、困惑と好奇心が入り混じっていた。


「鈴那ちゃん、これはいったいなんなの?」


 鈴那は待ってましたとばかりに、興奮気味に語り出した。その表情には、得体の知れないものへの恐怖と、それを解き明かしたいという探究心が同居していた。


「小林佳南が怪奇現象に襲われるようになった原因らしいねん。匿名ボイスチャットってところで、これを聞かされたらしいんよ。それで、それからずっと頭の中で浮かんでくるらしくて、覚えてる限りを書き出してみたんやって」


 すべてが片仮名で表記されているせいか、それは文章というよりも、無機質な文字の群れのように見えた。一字一句、目で追っていくと、隣で釉乃がポツリと呟いた。その声は、どこか遠くを見つめるようだった。


「……これ、『トミノの地獄』っていう都市伝説によく似てるわね」


 怜衣がはっと顔を向けると、釉乃は難しい表情で何かを紙に書き始めた。その真剣な横顔からは、深い知識と、それに伴う冷静な判断力が窺えた。


「たぶん、原型はこんな感じかしら」


 釉乃は書き終えたばかりの紙を、鈴那のスマートフォンの横にそっと置いた。その紙とスマートフォンの画面を交互に見比べる鈴那と怜衣の顔には、新たな謎が提示されたことへの緊張感が走った。



◆◆


血の慟哭 ■■よ、■■よ、一人、深淵に吐血する■■よ おまえの穢れた血潮は、七つの地獄の底なし沼へと澱みゆく 針の山を這いずる亡者、その眼窩に宿るのは 朽ちた肉塊を貫く、血塗られた錆の刃


魂の断末魔 ■■よ、■■よ、風が屍を穿つ夜に おまえの魂は、粘つく闇の奥底へと引きずり込まれる 腐臭を纏い舞う黒い鳥、蛆が蠢く不浄の谷間 そこには、無数の白濁した眼が、おまえを嘲笑い、爛々と光る


永劫の苦悶 ■■よ、■■よ、夢と現の狭間、凍てつく奈落の淵 おまえの足音は、血肉を啜りながら地獄を巡る 骨と骨が擦れ合う、軋む音、絡みつく呪われた鎖 響き渡るは、永劫の苦悶の叫び、終わりのない絶望の調べ


奈落の業火 ■■よ、■■よ、もはや帰れぬ道、ただ堕ちるのみ おまえの影は、深く、深く、奈落の最下層へ沈みゆく 地獄の釜が開かれ、業火が地を舐め尽くす その中に、■■、おまえはただ、溶け崩れ、消滅する


◆◆


 釉乃が紡ぎ出した言葉は、確かに詩のように心に響いた。怜衣は、釉乃が口にした「トミノの地獄」という不穏な響きに、一体それが何を意味するのか尋ねようと口を開きかけた。しかし、その前に釉乃は、まるで怜衣の疑問を先読みしたかのように、静かに話し始めた。


「『トミノの地獄』っていうのはね、昔、実際に発表された有名な詩がモデルになった都市伝説なの。心の中で読むのは構わないんだけど、その詩を口に出して読むと、読んだ者には必ず災いが起こるっていう奇妙な詩なの」


 その言葉に、怜衣ははっと息を飲んだ。詩を口にした者に災いが起こる――それはまさに、つい先程、鈴那が口にした不吉な言葉と寸分違わぬものだったからだ。背筋に冷たいものが走るような感覚に襲われながらも、怜衣は問いかけた。


「その詩っていうのは、誰かを呪うために作られたものなんですか?」


 怜衣の問いかけに、釉乃はゆるやかに首を横に振った。その仕草は、怜衣の不安を静かに受け止めているようだった。


「いいえ。元々の詩は、人間の業や魂の裏側を想像させる非常に深い内容の名作なの。ただ、その独特な世界観に強い影響を受けてしまう人もいたみたいで、いつの間にか意思を持たない都市伝説として生まれてしまったのよ」


「意思を持たない、都市伝説……」


 怜衣は、釉乃の言葉を反芻するように呟いた。詩が持つ力、そしてそれが人々の間で形を変え、新たな恐怖を生み出すという現象に、怜衣はただただ呆然とするしかなかった。


 部屋の空気は突如として重く変わり、ひんやりとした冷気が肌を撫でる。釉乃の言葉が、その場の凍てついた静寂を切り裂いた。


「ただし、その佳南って子が聞いたこの詩は、それとは明らかに異なっているわ」


 鈴那がたまらず口を挟む。その声には、微かな恐怖と、抑えきれない好奇心が入り混じっていた。


「そのトミノの地獄っていう詩の原文は知らんけど、何がちゃうん?」


 隣にいた怜衣も、鈴那の言葉に同意するように無言で頷く。彼女たちの視線が、釉乃に釘付けになった。釉乃の表情は硬く、その瞳の奥には、何かぞっとするような真実が宿っているようだった。


「この詩、所々に伏せ字のところがあるでしょ? 恐らくここには名前が入るはず。これは明らかに名前を入れられた誰かを、詩の内容で苦しめようとしている。明確な悪意をもってね」


 釉乃の言葉に背筋に冷たいものが這い上がり、ぞくりとした悪寒が全身を駆け巡る。怜衣は、耐えきれずに隣にいた鈴那と強く抱き合った。彼女たちの顔は青ざめ、互いの震えが伝わり合っていた。


 だが、次の瞬間、釉乃の口元にゆっくりと弧を描く笑みが浮かんだ。それはいつもの、底知れぬ闇を湛えたような、ぞっとするほど美しい笑顔だった。部屋の空気が一変し、得体の知れない圧力がのしかかる。


「……ふぅん、でも、まぁ、この詩にも意思がないのなら、この際、私たちで貰っちゃおうか?」


 その言葉は、まるで深淵から響く誘惑のようだった。彼女の瞳は妖しく輝き、その奥には狂気にも似た愉悦が宿っているように見えた。その不敵な微笑みに、怜衣と鈴那はただ息を飲むことしかできなかった。この場に漂うのは、もはやただの恐怖ではない。未知なるものへの、甘美で危険な予感だった。


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