第四十一話 『ボイスチャット』 体験者:K.K(17)学生
代わり映えのない夕飯を慌ただしく終え、私は吸い寄せられるように自室へと戻った。重たい扉が閉まる音は、私だけの時間が始まる合図。これから数時間は、誰にも邪魔されない、私だけの聖域となる。
小林佳南はスマートフォンを手に取り、慣れた手つきでイヤホンを繋ぐ。そして、ここ数ヶ月の私の「日課」となっているアプリケーションを起動した。画面が切り替わり、聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。
『〜~こんばんは。皆さん、今夜もありがとう』
イヤホンの向こうから聞こえてくるのは、特徴のない飾り気のない男性の声。けれど、その簡素な響きの中に、私はいつも微かな温かさを見出している。
『――今夜も皆さんの悩みに直接的に答えます。【霊視判断サマエルの部屋】へようこそ』
ああ、これだ。この何の気持ちも込められていないような、それでいて深い安らぎをくれる声。私はいつもこの声を求めて、ここに「聴き」に来てしまうのだ。私の心をじんわりと温め、日中の澱を洗い流してくれる、唯一の光。
『――たくさんのお集まりありがとうございます。さてさて、今夜の霊視はどなたからにしましょうか?』
その声が、私の疲れた心を優しく包み込んでいく。そんな安らぎの時間は、すぐに別の声で現実に引き戻される。
『こんばんは、自分からよろしいですか?』
野太い男性の声がイヤホン越しに鼓膜を震わせる。毎度お馴染みの相談者の話し声は、少なからず私の気分を沈ませる。しかしそれに続くサマエルの予想外な回答が、いつも私の心を掴んで離さない。
『――はい、今日最初のお悩み相談は【ダヴィデ】さん。それでは、どんなことを聞きたいのでしょうか?』
【ダヴィデ】というハンドルネームの男性が、重苦しい口調で悩みを語り始めた。要約すると、彼は今の職業が自分に合っているのかどうかを知りたいらしい。要領を得ない素人の話し方に、やはり私の眉間には深い皺が刻まれる。
『――なるほど、なるほど。それではまずダヴィデさん自身の霊視を始めましょうか。いくつか質問させていただいてもよろしいですか?』
ようやくサマエルの霊視が始まった。いつも通り、決まった質問を繰り出す声は抑揚がなく、まるで機械が事務的に問いかけているかのように聞こえる。その無機質な声に、私はいつも以上の集中力で耳を傾ける。
『――はい……、はい。わかりました。それでは先ほどの質問について助言を差し上げましょう』
そこからサマエルは、当然のように相談者ダヴィデにしか知り得ないであろう事柄を次々と言い当てていく。時折、頑なにそれを認めない相談者もいるが、大抵はその恐るべき霊視に驚愕し、言葉を失うのだ。その瞬間が、私にとってこの配信を聴く最大の醍醐味だった。
「やっぱりサマエルは本物だ……」
その日も次々と相談者の悩みに淀みなく回答していく彼の様子に、私は心の中で確信めいた呟きを繰り返していた。彼の言葉はいつも的確で、まるで心の奥底を見透かされているかのように響く。
『――さあ、他に相談のある方はいらっしゃいませんか?』
サマエルの穏やかな声が響く。ふと画面に目をやると、参加者は自分ともう一人しか残っていないことに気づいた。時刻は午前2時を回ろうとしていた。
『――【カナン】さんはいつも聴き専で来てくれているよね、今日も遅くまで付き合ってくれてありがとう。それじゃあ次の相談は……、ええっと、読み方は【屠魅乃】さんで合ってるかな?』
私のハンドルネームである「カナン」を呼ばれ、少し胸が温かくなる。サマエルのボイスチャット部屋には何度も来ているから、すっかり「聴き専」として認識されているようだ。そしてもう一人、「屠魅乃」という名前の人物は、これまで一度も発言していなかった。
『――トミノさん、聞こえている?』
サマエルが何度か呼びかけるも、屠魅乃からの返事はない。同じように聴き専なのかもしれないと、私は少しだけ焦りを感じていた。このままでは、せっかくのサマエルとの時間が終わってしまう。
『ーーはい、はい。えっ……。なるほど、わかりました』
突然、サマエルが独り言のように呟いた。どうやら屠魅乃と会話しているようだが、私のイヤホンにはサマエルの声しか聞こえない。屠魅乃が全体に聞かれないよう設定しているのかもしれないと、瞬時に理解した。
『ーーわかりました。カナンさん、ごめんなさい。トミノさんの相談は誰にも聴かれたくないようなので、一時的に音声をミュートにさせていただきますね』
そんな馬鹿な、と心の中で反発が湧き上がる。不特定多数が集う相談部屋で誰かに聴かれたくないなど、お門違いではないか。しかし、今はボイスチャットの主であるサマエルの決めたことに従うしかない。
そこからしばらく、重苦しい無言の時間が続いた。これ以上このまま聴いていても何も聞こえないだろう。私はスマートフォンを掴むと、液晶に映る退出のアイコンをタップした。
「なんなの……、空気の読めないヤツ……」
意味もなく不満を独りごち、冷たいベッドに潜り込んだ。心にはわずかな苛立ちと、サマエルの声が聞けなくなった寂しさが残っていた。
◆
翌朝も、いつも通りの時間が流れていく。午前の授業をなんとか終え、残るは午後の3時間だけだ。小林佳南は一人、持参した弁当を開けた。母が詰めてくれる弁当は大半が冷凍食品で、それはまるで娘への愛情のように冷たく、代わり映えのしないものだった。
「――佳南!」
不意に名前を呼ばれた気がして顔を上げると、別のクラスの友人の姿があった。
「千奈、急にどうしたの?」
嬉しい感情を悟られないように、私は当たり前のことを尋ねる。同じクラスにはほとんど親しい友人がいない私にとって、千奈の存在は誇らしく、心の拠り所だった。
「ごめん、午後の授業って古典ある?私、教科書忘れちゃって……」
千奈は昔から勉強もスポーツも優等生だ。しかし、彼女の欠点は、ややせっかちなところ。時折抜けてしまう癖は、昔から少しも変わっていなかった。
「午後は古典ないから、貸してあげるよ」
「ホント!? あー、良かった。佳南、本当にありがとう!」
彼女は深々と頭を下げると、屈託なく笑った。その整った容姿に、同性の私ですらたまにドキリとしてしまう。私の親友はこんなにも素敵なのだと、これ見よがしに声が弾んだ。
「佳南、良かったら今日の放課後、寄り道して帰らない?」
千奈の誘いに断る理由なんてない。早く帰ってもサマエルの部屋はやっていないし。
「いいよ。どこに行くの?」
千奈は少しだけ戸惑ったような表情で答えた。
「実は私のクラスの友達も一緒なんだけど、みんなでファミレス行こうって話しになってて」
千奈は私と違って人気者だ。当然、他に友人が一緒なのは当たり前だ。それでも、私はなぜかこういう時に身を引いてしまう。
「あ、ごめん。今日、お母さんに頼まれ事してたの忘れてた。また今度誘って?」
当たり障りのない言い訳を吐き出す。千奈の顔には少しだけ影が落ちたように見えたが、すぐに元の柔らかな表情に戻っていた。
「そっか、また誘うね。教科書、ありがとう」
彼女はそう言うと手を振って去っていった。引き留めたい衝動にかられながらも、私はその背中を黙って見送るのだった。
現実に不満があるといえばある。だけどそれは、不条理なものじゃない。自分が招いた結果だと分かっているから。私は社会の隅で、陽の目を怖がっている臆病者だ。
溜め息は小さく、誰にも聞こえないように逃げ出していた。
◆◆
凍てつくような沈黙が、私の部屋を締め付けていた。サマエルが姿を消して七日。液晶画面は冷たく、彼の更新が途絶えてからというもの、毎晩のぞき続けていた私の心も、次第に冷え切っていった。午前零時。微睡みが意識を深くへと誘う。今夜もまた、意味のない時間が過ぎていくだけなのか。諦めにも似た嘆息が漏れた、その瞬間だった。
【霊視判断サマエルの部屋 配信中】
心臓が跳ね上がった。何度も、何度も、液晶の表示を見返す。幻か? いや、確かにそこにある。なんの前触れもなく、サマエルはそこにいた。指が震える。逸る心を抑えきれず、私はすぐに画面をタップした。
『ーー霊視判断……、サ、マエルの部屋へ、ようこそ』
耳に届いたのは、途切れ途切れの声。まるで砂嵐を挟んだかのように不明瞭で、ネットの回線が悪いのかと一瞬思った。けれど、配信を見ているのは私だけ。重くなるほど賑わっているはずがない。
ひゅ、と息を呑む。これは、一体……?
『ーーカナンさん、良かった……、来てくれて』
サマエルが私の観覧に気づいた。名を呼ばれた喜びは、しかし、すぐに得体の知れない恐怖に塗り替えられる。その声には、いつもの不思議な魅力は微塵も感じられなかった。むしろ、何かに怯え、追い詰められたような、酷く人間臭い声。それは羞恥に歪み、今にも壊れてしまいそうなほど脆く響いた。
『ーーお願い、おね、お願いがあります。どうか、そのまま僕の、私の、話を聞いてください。どうか、最後まで、どうか……』
彼はひどく狼狽し、縋るような声で訴えかけてくる。「聴き専」のはずの私の唇から、思わず言葉が漏れた。
「……はい」
私の声が届いた瞬間、サマエルは奇妙な呻き声を上げた。それはまるで、喉の奥から絞り出されたような獣じみた響きだった。彼の声はさらに途切れ、ノイズが混じり始める。画面越しの彼の後ろから何かがゆっくりと、こちらへ向かってくるような気配がした。画面の向こうで、何が起きているのか。私の心臓は、恐怖で脈打ち続けていた。
『ーー最後まで、どうか、最後まで、どうか、聞いてください……』
そう言って彼は語りだす。それまで不鮮明だったはずの音声はクリアに変わり、イヤホンを通って私の耳朶を打つ。
『■■■ヨ、■■■ヨ、ヒトリ、シンエンニトケツスル■■■ヨ 、オマエノケガレタチシオハ、ナナツノジゴクノ……』
初めと所々の言葉は不自然なノイズで聞き取れなかった。呪文のような文字の羅列が頭の中へ入り込んで、私の中で何かが蠢く。それは私ではない誰かの意識が、私の深層へと這い入ってくるような感覚だった。
◆◆◆
午前4時を回ったばかりの寝室は、まだ深い闇に沈んでいる。しかし、カーテンの隙間から差し込む月明かりが、私の目に不気味な光を投げかけた。いつ眠りについたのか、その記憶はまるで抜け落ちたように曖昧だ。ただ、枕元のローテーブルに、行儀良く置かれたスマートフォンの冷たい光だけが、妙に鮮明な存在感を放っていた。
昨晩のことは、まるで霧の中にいるかのようだ。サマエルの配信を聴いていたのは確かだ。彼の声が鼓膜を震わせていたのは覚えている。しかし、その内容がどうしても思い出せない。頭の中に靄がかかったようにぼんやりとして、掴みどころがない。
しばらくしてスマートフォンのアラームが、けたたましい電子音で静寂を破った。普段ならこの音でさえ起き上がれないほど深い眠りについているはずなのに、今は不思議と眠気を感じない。それよりも、私の意識を支配しているのは、頭の奥でざわめく言葉の群れだ。まるで誰かが私に語りかけているかのように、その言葉たちは意味を持たないまま、しかし確かに私の中に存在している。
そうだ。サマエルは昨夜、私に何かを囁いていた。それは、まるで呪文のような響きを持っていた。思い出そうとするたび、頭の奥から鋭い痛みが走る。それでも、彼の声だけは、妙に生々しく、私の脳裏に響き渡る。
『ーー地獄に連れていきたい者の名を添えて、この詩を詠みなさい。ただし、一つ目の詩は七日間のうちに詠みなさい』
ゾクリ、と背筋に冷たいものが走った。地獄に連れていきたい? あのサマエルが? 彼の声はどこか楽しげで、それでいて底知れない闇を宿している。
意識の深淵から、あの声が這い上がってきた瞬間、私の全身を電流が焼き尽くすような激痛が貫いた。
『ーーカナンさん、ふふふ、代わりになってくれてありがとう。アハ、アハハ、ありがとう』
それは、私という存在の奥底に巣食う、理解不能な闇からの囁き。一瞬の幻覚か、それとも現実か。判別する間もなく、次の言葉が脳髄に直接響いた。
『ーーアレは、そっちに向かった』
その声が消え去った後には、ただ深い、深い虚無だけが残された。だが、虚無の奥底から這い上がってくる。悍ましいまでの好奇心と、得体の知れない恐怖が私の精神を蝕んでいく。
サマエルは、一体私に何をさせようとしている? 「代わりになってくれてありがとう」とは、何を意味する? 最後に言った「アレ」とは一体何?
その言葉の裏に隠された真実が、私の精神をゆっくりと、確実に、狂気へと引きずり込んでいく。
◆◆◆◆
……あの日を境に、私の平穏は崩れていった。あの日から、今日でもう五日目だ。




