表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
40/53

第四十話 阿佐ケ谷神明宮 後編

 金縛りが解けたかのように、怜衣は強張った身体でゆっくりと後ろを振り返った。ついさっきまで歩いてきた、生活の気配が色濃く残るはずの狭い住宅地。しかし、そこには奇妙なほど誰もいなかった。平日の正午過ぎとはいえ、すぐ目の前の神社には参拝客がひっきりなしに訪れるはずなのに、人っ子一人見当たらない。しんと静まり返った空間に、自分の呼吸だけがやけに大きく響く。


「やっと出てきた。あの見た目、やっぱりバケモノね」


 背後から聞こえた、女子高生のものらしき呟き声が、凍り付いた怜衣の心臓に冷たい雫となって落ちた。不気味なほどに高く、そして青すぎる空が、怜衣の目に痛いほど突き刺さる。反射的に目を細めたその時、怜衣はようやくソレに気がついた。


(あれは、さっきの……)


 神社からほんの数十メートル離れた場所、街路樹の濃い影の奥で、得体の知れない人影がゆらりと揺れている。風もないのに、揺れる黒い髪の毛が、まるで生き物のように帯となって地面を這っていた。ゆっくりと、しかし確かな足取りで、ソレは神社に向かってじりじりと距離を詰めてくる。その一歩ごとに、冷たい悪意が怜衣の肌を撫でるような錯覚に陥った。


(このままだと、あの子が危ないんじゃ?!)


 怜衣は無意識に、まるで縋るように片手を人影へ向けていた。離れた場所にある物を引き寄せたり動かすことのできる力、これを逆に使えばヤツを遠くに追い払う事が出来るかもしれない。

 手のひらに全身の力を込め見えない壁を押し出すように、力一杯押し飛ばすイメージを両手に宿す。遠くに見える黒い影は、怜衣の気迫に当てられたかのように、僅かに怯んでその場でおぞましく揺らめいた。


「――うわっ!?」


 次の瞬間、怜衣の身体は後ろへ投げ出された。見えない巨大なナニかに弾き飛ばされたかのように、鳥居のすぐ近くまで無様に転がる。石畳に打ち付けられ背中から倒れると、感じた事のない恐怖が全身を支配する。


 黒い髪の毛をぬらりと揺らしながら、それはぬるりと、しかし確実に距離を詰めてくる。ゆっくりと、それでいて止まることなく、その禍々しい気配が怜衣に迫る。周囲の喧騒が、いつの間にか遠く、そして聞こえなくなっていた。耳に届くのは、ただ不気味に、粘りつくように漏れでるソレのおぞましい息遣いだけだった。


「痛っ……くはない?、そうか、私、幽霊だった。それより、アイツを何とかしないと、今度はあの子が!」


 ようやくのことで顔を上げると、黒い髪は怜衣のすぐ目の前で揺れていた。まるで怜衣など最初から存在しないかのように、それは一切目もくれず、ただ鳥居の向こうで立ち尽くす女子高生だけを長い髪の毛の隙間からぞっとするほどねっとりと見つめていた。距離にして数メートル、鳥居を隔てて毛倡妓は女子高生と向かい合った。呻き声はまるで断末魔のように響き渡る。


「――ダメッ、早く逃げて!」


 怜衣の必死の叫び声は、虚しくも風に掻き消され、当然のように女子高生に届くことはない。まるで獲物を定めるかのように、毛倡妓はついに鳥居にその不気味な程に痩せこけた腕を伸ばした。


「いいわ、来れるものなら、入って来てみなさいよ!」


 挑発するように言い放つその声には、確かに嘲りが含まれていた。しかし、怜衣の視覚は、震える彼女の左腕をはっきりと捉えていた。強がってはいるものの、彼女も恐怖と戦っているんだ。


――その事実が、怜衣の胸に熱いものを灯していた。


 怜衣はまるで呪縛から解き放たれたかのように、泥まみれの体でずるりと立ち上がった。視線の先には、白昼に浮かび上がる毛倡妓の禍々しい姿。再び、震える両手を毛倡妓めがけて伸ばす。その背後では、ぞろりと黒い髪の毛が蠢き、まるで生き物のように怜衣の足元に絡みつき、彼女を闇へと引きずり込もうと必死に抵抗していた。しかし怜衣は、一歩も引かずに、その髪の毛を力任せに後ろへ引きずり込む。


 泥に濡れた髪が、ギチギチと音を立てる。それでも怜衣は、顔を歪ませながらも、その手を決して緩めない。引きずられる毛倡妓は、怨嗟の声を上げながら、怜衣の腕に必死でしがみついた。


 その時、聞こえるはずのない音が、怜衣の耳朶を打ち震わせた。


 大きな鈴の音が二回、静かに、しかし力強く響き渡った。それは、まるで凍てつく心臓に直接触れるかのような、ぞっとするほど不気味な音だった。


「あらやだ、私ったら本当にドジね。お参りに来たのに、小銭持ってくるの忘れちゃうなんて」


 気の抜けるような、それでいてどこか甘く響く柔らかな聞き覚えのある声が聞こえた。風に乗って、ふわりと漂う甘い香りが怜衣の鼻腔をくすぐる。鳥居のはるか向こう、拝殿の方からゆっくりと歩いてくる派手な着物の女性の姿に、怜衣は思わず目を丸くした。まるで絵から抜け出してきたかのような、どこか浮世離れした美しさがあった。


「ねぇ、そこのお嬢さん。小銭、持ってない?悪いんだけど、少し貸してもらえないかな」


 その女性は、まるで時間が止まったかのように立ち尽くしていた女子高生に、にこやかに声をかけた。柔らかな声にようやく我に返った女子高生は驚きの表情を隠せないまま、ゆっくりと首を縦に振った。その瞳には目の前の女性に対する戸惑いと、ほんの少しの魅了が入り混じっていた。


「あ、ありますけど……五円玉で、いいですか?」


「ありがとう!すぐ戻るから、ちょっと待っててね」


 女子高生から小銭を受け取ると女性はひらりと身を翻し、元来た拝殿への道を戻ってゆく。その足取りはまるで地面から数センチ浮いているかのようで、音もなく、あっという間に遠ざかっていった。呆気に取られた怜衣と女子高生は、ただその後ろ姿を見送るしかなかった。しかし、次の瞬間、二人は同時に緊急事態を思い出す。慌てて視線を向けたその場所には、先ほどの怪物の姿は、どこにもなかった。まるで、最初から何もいなかったかのように、ただ静寂だけが残されていた。



 突然の出来事に、女子高生は呆然と立ち尽くしていた。全身から力が引いていくのがわかる。まるで時間が止まったかのように、彼女の意識はただ一点、目の前の光景に釘付けになっていた。

 拝殿から先ほどの着物姿の女性が戻ってきた。風が彼女の豊かな白茶色の髪を優しく揺らし、丁寧に結い上げられた結髪を軽く押さえながら女性はふわりと微笑んだ。その表情には、どこか神秘的な美しさと、柔らかな慈愛が同居している。


「さっきはありがとう。これ、ほんのお礼、受け取って」


 澄んだ声が、張り詰めた空気をそっと解き放つ。女子高生は戸惑いながらも、「いえ、そんな……」と遠慮がちに手を引っ込めた。しかし、女性はそんな彼女の小さな抵抗を許さず、そっとその手を取り何かを無理矢理に握らせた。女性の指先から伝わる温もりが、女子高生の凍えた心にじんわりと染み渡る。


「これね、ここの神社の御守り。なんでも、その鈴には魔除け効果があるらしいわよ」


 手渡された御守りをつまみ上げると、小さな鈴がチリン、と澄んだ音色を儚げに鳴らした。その音は、不思議と遠い記憶を呼び覚ますかのように、優しく、そして切なく響く。


「それじゃ」


 女性はそれだけ言うと、ふわりと身を翻した。女子高生ははっと我に返り、「あ、あの……」と慌てて声をかけたが、その声は突然吹き荒れた強い風の音にかき消されてしまう。風は彼女の髪を乱し、スカートを煽り、まるでその場からを足止めしているかのようだった。


 着物の女性はそのまま鳥居をくぐり抜け、優美な足取りで怜衣の前へと進んで来る。その姿は、現実のものとは思えないほど幻想的で、女子高生はただその背中を呆然と見つめることしかできなかった。


「つ……、釉乃さん」


 怜衣の絞り出すような声に、着物姿の釉乃はゆっくりと目線を向ける。口元に人差し指を立て、片目を閉じ、そして悪戯っぽく微笑んでみせた。その仕草はまるで秘密を共有するかのように、怜衣の口を噤ませていた。先を歩いていく釉乃を追いかけるように、怜衣は無言でその後に続いた。


◆◆


(何から聞けばいいのだろうか……)


 釉乃の後ろを歩く怜衣は、次の一言を躊躇っていた。胸中では、先ほどのビルでイソラから聞かされた言葉が、まるで呪文のように繰り返される。


『――偶然にしてはあまりにも、出来すぎてるとは思わない?』


 その言葉でわずかに芽生えた疑念は、怜衣の思考の中でとめどなく肥大させていく。本当に釉乃は、自分を騙しているのだろうか? もし、この問いを口にしたら、彼女はどんな顔で自分を見るのだろう。その表情を想像するだけで、怜衣の胸はざわめき、感情の渦に飲み込まれそうになる。

 渦巻く感情に悶えそうになっていると、突然、目の前の釉乃がぴたりと足を止めた。不意のことに、怜衣は吸い寄せられるようにその華奢な背中にぶつかる。


「どうして?」

「え……?」


 釉乃は振り返ることもなく、ただ静かに呟いた。その声はまるで心を読まれたかのような響きを持ち、怜衣の体をぴくりと固まらせる。胸の奥に冷たい雫が落ちたかのような錯覚に陥った。


「さっきの神社で、あの女の子を助けようとしたのは、なんで?」


 表情の見えない後ろ姿から放たれた声は、感情が乗っていないように淡白に聞こえる。怒っているのか、はたまた、悲しんでいるのか……。まるで分厚い氷の壁に阻まれたかのように、釉乃の心が読めない。釉乃が求める答えがわからず、怜衣はただ立ち尽くすしかなかった。


「さっきは……、その、あの子が理不尽に襲われてるように見えたからで……」


 しどろもどろに言葉をつなぎ合わせた。本当は明確な理由なんてものはなかった。ただ、なんとなく、理不尽に起こる不幸に抵抗があっただけ。言葉が宙を彷徨い、釉乃の心に届いているのかも分からない。


「さっきのはね、毛倡妓って言う妖怪。いくら幽霊の私たちでも、妖怪は相手にしたら危険な存在なの。下手したら魂ごと食べられてしまう」


 釉乃は短い溜め息の後にそう呟いた。今度の言葉には、たしかに、悲しそうな感情が乗っているように思えた。その声は、怜衣の心臓を締め付け、冷たい不安が胸いっぱいに広がっていく。


「あのままだったら、レイちゃんだって危ないところだった。お願いだから、無理はしないでほしい」


 途端に流れ込む哀愁が怜衣の心を激しく打ち付けた。釉乃の優しさが、痛いほど心に響く。自分の無謀な行動が、どれほど釉乃を心配させたのか。その重みに、怜衣は目を伏せた。


「釉乃さん……、ごめんなさい」


 尻すぼみに消え入りそうな声に、釉乃はくるりと振り返った。その表情にはいつもの優しそうな微笑みが浮かんでおり、怜衣は思わずホッと胸を撫で下ろす。


「優しいところはレイちゃんのいいところだからね。まあ今回は何もなかったから良しとしよう。それよりも……」


いつの間にか人通りが戻っていた。行き交う人々の視線は明らかに、華やかな着物姿の釉乃へ吸い寄せられる。おそらく今の彼女はイソラと同様に、生者にも認識できるのだろう。


「あの毛倡妓を操ってるのはひょっとして、磯良(イソラ)って女の幽霊じゃない?」


 釉乃の口から飛び出たその名前に、怜衣はまた心を読み取られたのかと絶句する。釉乃は何か考えるように細い顎に手を置いた。その、見る者を惹きつけるような色気を感じさせる仕草に、通行人の視線は再び集まるのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ