表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/54

第四話 『知らないWi-Fi』 体験者:S.H(21) 大学生

 

 5月27日月曜日。時刻は18時を少し過ぎていた。


 茜色の残滓が滲む空に焦燥感を覚えながら、樋口駿太郎は地下へと続く階段を降りた。


 今日はアルバイトもない。友人は先に帰ってしまった。新宿の喧騒に身を任せる気分にもなれず、彼の意識は昨晩アプリで知り合った女性の言葉に囚われていた。「おすすめのドラマ、絶対見てくださいね!」と明るい声が蘇る。


 帰宅してすぐにでも視聴すれば、彼女からの評価も上がるだろう。そう打算的に考え、スマートフォンの検索窓に指を滑らせた。数文字を入力するより早く、予測変換は目的のタイトルを表示する。


 いつも使う大手検索サイトは、彼の年齢層が興味を持つであろう情報を常にアップデートしている。中には目を背けたくなるような記事も混じっているが、それは彼にとって都合の良い啓示か、あるいは導きのようなものだと解釈していた。


 駿太郎がこれほどまでに恋愛に執着するようになったのは、大学二年の秋に経験した初めての失恋が原因だった。相手の浮気という裏切りは彼の心に深い傷跡を残し、異性に対する不信感を根深く植え付けた。


 そんな傷心の彼に、男友達はマッチングアプリを勧めた。男子校育ちの駿太郎にとって、それは初めて複数の女性と同時に接点を持つ手段だった。


 以来、彼はアプリに没頭した。表面上は紳士的に振る舞いながら、裏では複数の女性と並行して関係を築く。他人を信用できない彼の心の拠り所は、いつしかアプリの中だけの仮想世界となっていた。

 そんな生活を始めて一年と数ヶ月。これまでに関係を持った女性は、記憶しているだけでも二桁に達する。


 特筆すべき個性はないものの、人並みに整った容姿。そして、世間一般に尊敬される大学名。それらが、駿太郎が自分を魅力的に見せるための武器だった。


 今日は手応えの良かった専門学生にメッセージを送り、わざと返信を遅らせていた社会人の女性にも連絡してみよう。


『まもなく1番線に電車が参ります。黄色い線より下がって――』


 地下特有のじめっとした空気が流れ込み、ホームに電車が滑り込んできた。


 乗り降りの列に並び、駿太郎も足を踏み入れる。ラッシュにはまだ早い時間だが、車内は既に座席のほとんどが埋まっていた。


 仕方なくドア横の手すりにもたれかかり、鞄から取り出したワイヤレスイヤホンを耳に装着する。再生ボタンを押すと、耳元には流行りのポップスが流れ出した。正直、興味はない。彼の意識は既に、アプリで知り合った女性のSNSへと向かっていた。


 カフェで撮影されたであろう、色とりどりのフルーツが飾られたスイーツの写真。夕焼けをバックにした、後ろ姿だけの女性二人組の画像。他愛ない写真や短い動画を次々とスクロールしていく。


 ……これなんか、使えるかもしれない。


 駿太郎はいくつかスクリーンショットを保存すると、画像に写り込んだ情報を丹念に調べ始めた。

 女なんて単純なものだ。自分の好きなものを褒められれば、すぐに心を許す。


 慣れた手つきで情報をコピーしていく駿太郎は、狙いをつけた女性が自分に夢中になる姿を想像し、薄く笑みを浮かべた。それを悟られないよう努めながら、次の情報へと指を滑らせる。


 しかし、順調に進んでいた彼の作業は、突然、予期せぬ事態によって中断された。


 くそ、なんだよ……。せっかくいい流れだったのに……。


 スマートフォンの画面は、永遠に続くかのようなローディングのアニメーションを表示したまま静止している。比較的古い路線であるこの電車は、未だに電波状況が不安定な区間がいくつか存在する。大学の最寄り駅から一人暮らしのアパートまでの間には、電波が途切れる場所がいくつもあった。


 これまでも煩わしく感じていたが、最近はその不快感もいくらか軽減されていたはずだった。


 あと少しで、Wi-Fiに繋がるはずだ……。


 焦燥感を押し殺すように心の中で呟く。この路線には、電波状況が悪くなる特定の区間があり、それを抜けると鉄道会社が提供する無料Wi-Fiが利用できるはずだった。


 画面をスライドさせ、Wi-Fiの接続ボタンを選択する。薄暗い円形のアニメーションがしばらく回り続け、【接続完了】の文字が表示された。これで一安心だと、元の画面に戻ろうとした駿太郎だったが、そこに広がっていたのは漆黒の闇だった。


 は……? どうなっているんだよ、使えねぇな。


 苛立ちを隠せないまま、駿太郎は何度も画面を叩いた。しかし、黒い液晶は依然として無反応だった。


 電車は次の駅へと到着した。


 開くドアに、無意識に体が引かれる。


 目の前を通り過ぎる人々の足元が、ぼやけた残像のように視界の端を流れ去っていく。


 無機質な車内アナウンスが流れ、音もなくドアが閉まる。車内の蛍光灯は不規則に明滅を繰り返し、影が生き物のように蠢き始めた。窓の外には漆黒の闇が広がり、そこに映る自分の顔は、歪んで見えた。その歪んだ顔が、ゆっくりとこちらに向かって近づいてくるような錯覚に襲われた。


 ゆっくりと、電車は動き出した。


 なんでいきなりフリーズするんだよ……。くそ、音楽も止まっている。


 両耳に装着されたワイヤレスイヤホンからは何も聞こえず、周囲の騒音だけがノイズキャンセリング機能によって遮断されている。


 聴こえない音楽と、聞こえない現実の雑音。


 いつの間にか、駿太郎はたった一人の世界に取り残されていた。しかし、今の彼は目の前の動かないスマートフォンに意識を集中させるあまり、その異変に気づくことすらなかった。


 暗転した液晶を睨みつけること数秒。苛立ち紛れに何度も電源ボタンを押していると、突然、液晶が光を取り戻した。元の画面に戻ったスマートフォンは、まるで何事もなかったかのように動き出した。


 やっと点いた。まったく、一体何なんだよ……。


 すぐに接続されたWi-Fiを切断しようと画面を切り替える。表示されたSSIDリストの中から、先ほど接続されたはずの名前を探した。


「は……、なんだ、これ……?」


 駿太郎は思わず声を漏らした。


 液晶に表示された文字列は、明らかに異常なものだった。他のSSIDとは全く異なる、異質なWi-Fiに、彼のスマートフォンは接続されていた。



⬛Wi-Fi設定【逾槫ュ仙ウカ諤懆。」】接続中⬛



 予想を遥かに超えたその奇妙なSSIDに、思考は完全に停止した。早く接続を切らなくては……。何故か強烈な衝動に駆られたのだが、指は彼の意思に反して微動だにしない。


『…………ツ、ツツ……』

「えっ……?」


 両耳に、音が聞こえていた。


 それは先ほどまで流れていた音楽でも、電車の騒音でもない。全く別の、不気味な音が耳朶を叩くのだ。理由はわからないが、駿太郎はこのまま聞き続けてはいけないと直感した。


 それでもやはり、両手は石のように固まったままだ。


『……ッザ、ザ……、パーァ……、ザワザワ……』


 音の正体は不明だった。しかし、彼の頭の中には奇妙なイメージが洪水のように押し寄せていた。

 ネオンがけばけばしく瞬く夜の繁華街。無数の人々が押し合いへし合う喧騒は、駿太郎の記憶にある、あの新宿の街へと強烈な連想を促す。



『……キョウ……ミメイ……、宿区内……園デ……ザザザッ……』



 駿太郎の顔は、意識とは裏腹にゆっくりと上を向いていた。視線の先には、車内出入り口の上部に設置された電子広告が流れ続けている。


 見覚えのある公園を背景に、無機質なテロップが白く浮かび上がっていた。



【~~21日未明。新宿区内、公園にて身元不明の刺殺遺体を発見~~】



 駿太郎には、それがどこの公園であるかすぐに理解できた。数ヶ月前、マッチングアプリで知り合ったある女性に、酷く拒絶された、あの公園だ。


『……ズリ……ズズズ……。……ァ……ハァ……』


 耳元で聞こえ始めた生々しい息遣いに、全身の筋肉が強張る。


 何かがおかしい。


 いや、何もかもがおかしい。普通じゃない。今、自分は明らかに不可解な、恐ろしい何かに巻き込まれている。


 駿太郎は息を呑み、力を込めて目を閉じた。


 頭の中に浮かんだおぞましいイメージに、背筋を氷のナイフで撫でられたような冷たさを感じた。


 夜の公園。


 うつ伏せに倒れ、黒い血溜まりを広げる小柄な身体。


 一呼吸、自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐き出すと、電車の座席に目をやった。誰でもいい、自分と同じようにこの異常な状況に陥っている人の顔を見れば、少しは安心できるかもしれない。


 自分だけじゃない、自分だけじゃないはずだ。


「そんな……、さっきまで満員だったはずなのに」


 満席だったはずの車内には、座席に座っていた乗客の姿がどこにも見当たらない。駿太郎を残して、誰もいなくなっていた。


「一駅前で全員降りた……? いやいや、そんな馬鹿なことあるわけがない」


 イヤホンで外界の音を遮断された駿太郎の目に映るのは、音のない、がらんどうの車内だけだった。静寂が耳をつんざく。心臓の鼓動や呼吸の音といったわずかな音すら大きく響き、自分の心臓が異常な速さで脈打っているように感じた。遠くで、女の声がかすかに聞こえる。しかし、その声は次第に近づき、まるで自分の耳元で囁かれているように感じられた。


 耳元で鳴り止まない息遣いが、段々と近づいている。


 それが自分のものであると気が付くと、着ていたシャツは嫌な汗でびっしょりと肌に張り付いていた。


『――ハァ、ハァ、ハァ』


 耳元で、それもすぐそこで……。


 今度はイヤホンからではなく、首筋にかかる生暖かい息遣いのような感触。


 振り返ることのできない駿太郎は、震える体で出入り口の窓ガラスに横目で視線を向けた……。


「ヒッ……」


 入口に映る自分の背後。反対側の出入り口の前に、確かに誰かが立っている。顔はよく見えないが、女性のような人影が、自分と同じようにドアに寄り掛かっていた。


 な、なんだ……。やっぱり誰かいるじゃないか。


 駿太郎は一瞬、安堵した。しかし、それはほんのわずかな時間だった。


 ありえない……、こんなこと、ありえないだろ?!


 顔だけが黒く塗りつぶされたように不自然なその人影は、まるで水面のように僅かに揺れている。ドアのガラスに反射して映るその人物は、明らかに奥行きがおかしい。


 ガラス窓の方を向く駿太郎のすぐ側、息遣いが届きそうなほど近くに立っている。冷気が車内に充満し、肌が粟立つ。背中に氷のような冷たいものが触れたような感覚がして、思わず振り返る。しかし、そこには何もいない。だが、その冷たい感触は肌に焼き付いたままで、恐怖は雪だるま式に増幅していく。


 い、いやだ、こ、来ないで……


 声が出ない。体は鉛のように重く、動かない。駿太郎の頭の中で、混乱が濁流のような恐怖へと変わっていく。ジワジワと彼の精神を蝕んでいく、得体の知れない恐怖に、呼吸すらまともにできない。


『ーースゥ……、ッ、ハァァ』


 イヤホンからは、まだあの生々しい息遣いが聞こえる。激しい眩暈が津波のように押し寄せ、意識が遠のいていく。


 ち、違う……、俺じゃ……、ない。


 遠くなる意識の中で、駿太郎はかすれた声でそう呟いた。


 頭が割れるような激しい痛みが何度も波のように押し寄せる。無意識に涙が溢れ出し、喉が張り裂けるほど叫んでいた。


「俺じゃない! あの時、酷いことを言ったのは謝るから、だから、助けてくれッ……!」


 思いつく限りの言葉を叫んだ。さっきの事件の被害者が自分に関係のある人物だという確証はない。それでも、剥き出しになった生存本能が、言葉を彼の口から無理やり引きずり出す。


 窓に映る人影が、ゆっくりと動き出す。


 蒼白い、針のように細い腕が、駿太郎の顔に向かって伸びてきた。恐怖のあまり目を固く閉じ、頭の中で何度も同じ謝罪の言葉を繰り返した。



『~まもなく、四谷三丁目、四谷三丁目に到着いたします。お出口は右側です。四谷三丁目の次は――』



 けたたましい車内アナウンスが聞こえると同時に、駿太郎はハッと目を開けた。ぐっしょりと汗に濡れた袖口で額を拭う。


「なん、だ……。今のは、夢、だったのか……?」


 反対側の乗車口が開くと同時に、全身から力が抜け落ちた。靴の先に何かが当たり、軽い音を立てて転がる。見ると、ワイヤレスイヤホンが耳から外れ、床に落ちていた。


 よろめきながらそれを拾い上げると、力なくドアに凭れかかった。そのままズルズルと床に座り込み、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔で肩を大きく上下させ、荒い息を繰り返す。


「助、かった……」


 顔を上げると、電車内は騒然としていた。床に座り込み、嗚咽混じりに呼吸をする彼を、他の乗客たちは奇異な視線で見つめている。


 良かった……。全部、ただの気のせいだったんだ。


 安堵のあまり、駿太郎は再び袖口で涙を拭うと、もう一度深く息を吐いた。視線を上げると、先ほど投げ出したスマートフォンが床に落ちている。拾い上げようと手を伸ばした、その時だった。


『……、……、ザ、ザ……』

「え……?」


 耳元で、あの不快なノイズが聞こえた。今、ワイヤレスイヤホンは左手の中に握られているはずだ。


 背中に、氷よりも冷たい汗が嫌な感触を残して流れ落ちる。




「……イツデモ、……ミツケテ、アゲルカラ……」




「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――」





 


 ……投げ放たれた駿太郎のスマートフォンには検索サイトのトップページが映る。


【today Topics】


⬛新宿区内の公園で発見された遺体の身元が判明。被害者は区内に在住、『神子島怜衣さん』(19)とみられ警察は……⬛


 

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ