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第三十九話 阿佐ケ谷神明宮 前編

 新宿の喧騒は正午のピークを過ぎ、幾分か落ち着きを取り戻していた。しかし、それでもなお行き交う人々は絶え間なく、その雑踏の中で先程見かけた女子高生の姿を探し出すのは砂漠で一粒の砂金を見つけるような困難さを伴っていた。


「ついさっき、あのビルから出て行ったばかりやから、そう遠くへは行ってへんはずやけどなぁ……」


 空中に静かに浮かぶ鈴那は、まるで鷹のように鋭い眼差しで新宿の街並みを隈なく見下ろしていた。ビルの谷間、路地の奥、人混みの切れ間、その全てを逃すまいと、その瞳は真剣そのものだった。


 一方、地上では怜衣が焦燥感を滲ませながら、アスファルトを踏みしめ懸命に走り回っていた。平日のこんな時間帯にあのように特徴的な制服を着ているならば、もっと簡単に見つかるはずなのに。既にあのオフィスビルから離れてしまったとしても、これほどまで手がかりがないのは不自然だ。


「一体どこへ……?」


 怜衣の心には、焦りと共に小さな疑念が湧き上がっていた。もしかしたら、人混みに紛れてどこかの建物の中にでも入ってしまったのだろうか?

  デパートの喧騒の中、カフェの窓辺、あるいは雑居ビルの入り口。あらゆる可能性が彼女の脳裏を駆け巡り、その焦りはさらに増していくばかりだった。諦め掛けた刹那、上空の鈴那の叫び声が耳朶を打った。


「――レイち、おったで!」


 抜けるような青空の下、照りつける日差しがアスファルトを白く焦がす正午過ぎ。鈴那の声は、そんな喧騒の中でもよく響いた。空へ視線を向けると、鈴那は方向を指し示しながら、まるで風のように移動している。頭上を見上げながら、逸る気持ちを抑えきれず、怜衣も駆け出した。行き交う人々の熱気と生活感が肌にまとわりつく中、離れてゆく鈴那の後を追う。数百メートルほど進むと、鈴那はふわりと音もなく地上へ降り立った。


「こっち、こっち」


 あれだけ全力で駆けても息ひとつ乱れないこの幽霊の身体に、今ばかりは感謝にも似た安堵を覚える。立ち止まった鈴那の隣に並ぶと目当ての高校生たちは新宿駅の喧騒の只中、改札前で立ち止まっていた。


「駅まで来たってことは、これから学校に向かうのかな?」


 日差しの強さのせいか、二人の表情は少し険しいようにも見える。どうやら何か真剣な面持ちで話しているようだが、周囲の騒がしさに掻き消され彼女達の言葉はこちらまで届かない。少しでも近づいて話を聞いてみようと怜衣が言い掛けた、その時だった。

 ボブカットのどこか憂いを帯びた表情の女子高生が、またこちらに鋭い視線を向けた気がした。強い日差しが彼女の瞳をきらめかせ、一瞬、怜衣の心臓が跳ねた。


 やっぱり、あの子、私たちの事が見えてる……?


 まさか?、そんなあり得ない可能性が怜衣の頭の中で急速に膨らんでいく。その刹那、少し焦ったような様子の眼鏡を掛けたもう一人の女子高生が一人だけ改札を通り抜けていった。


「あれ……? 一人だけ行ってしもた。レイち、どないする?」


 鈴那の戸惑いの声も、今の怜衣にはどこか遠くに聞こえる。怜衣の視線は立ち止まったまま、改札の向こうへ消えた友人を見送るボブカットの女子高生に釘付けになっていた。何か言いかけたような、寂しげな横顔。薄茶色の柔らかな髪が、午後の穏やかな風にそっと揺れている。


「鈴那ちゃんは眼鏡の子の方を追いかけて。私はあの子を追いかける」


 ホームへと続くであろう改札口を見つめながら、怜衣は静かに呟いた。胸の奥には理由の分からない焦燥と、何故か感じる彼女の孤独に寄り添いたいという微かな衝動が渦巻いていた。


「二手に分かれるんやな。わかった、なんかあったらハニやんの部屋で落ち合お」


 鈴那はそう言って軽く宙に浮かび上がると、人混みを縫うように、改札の中へと消えていった高校生を追いかけて行った。怜衣は、残された少女の背中をじっと見つめていた。




 夏の余韻が残る陽光がホームに降り注ぐ中、女子高生は淡いピンク色のスマートフォンを熱心に操作していた。時折、小さく息を吐きながら画面をスクロールする様子からは、何か思案している様子が窺えた。やがて、ふと顔を上げ、何かを決意したように瞳が輝いた。


 先に消えていった友人と同じように、彼女は改札機にスマートフォンをかざし、少し急いだような足取りで構内へと進んでいく。しかし、怜衣の目に映ったのは、先ほどの女子高生とは異なる、オレンジ色のラインが描かれた中央線の乗り場へと向かう後ろ姿だった。


(中央線……? 一体どこへ行くんだろう?)


 怜衣は、彼女の姿を見失わないよう、息を潜めて後を追った。冷静に考えれば、幽霊である自分の姿が彼女に見えるはずなどない。それなのに、得体の知れない壁が二人の間に存在するかのように、安易に近づくことを躊躇してしまう。まるで、近づいてはいけないと本能が告げているようだった。


 ざわめき立つ午後のホーム。行き交う人々が織りなす喧騒を縫うように、怜衣は目的の車両へと静かに足を踏み入れた。窓から差し込む柔らかな光が、車内をじんわりと明るく照らし出す。怜衣は、少し離れた窓際の席にそっと腰を下ろし、目を閉じたまま、目的の人物――あの女子高生の動向をそっと見守ることにした。


 数駅が過ぎ、車窓の景色が単調に流れ去っていく。やがて、次の駅を告げるアナウンスが静かな車内に響いた。その声に瞼を閉じていた女子高生がわずかに体を揺らしたように見えた。到着した駅の扉が開くと彼女は迷うことなく立ち上がり、人波に紛れるようにホームへと降りていった。


「阿佐ヶ谷……、もしかして、ただ家がこっち方面なだけ、なのかな?」


 一瞬の躊躇の後、怜衣は閉まりかけた扉を素早くすり抜け女子高生の姿を追った。彼女は既に改札を抜け、駅の出口へと急ぎ足で向かっている。時折、何かを気にするように足を止めては周囲を警戒するように見回す様子は、やはりただの帰宅風景には見えなかった。


 阿佐ヶ谷駅北口を出ると、女子高生は迷うことなく、駅前の賑わいを背にしてまっすぐ伸びる道を進んでいく。怜衣は、周囲の喧騒に溶け込むようにさりげなく後を追った。


 今のところ、あの異質な気配、【毛倡妓(あれ)】の存在は微塵も感じられない。


(やっぱり、ただの思い過ごしだったのだろうか……?)


 しかし、脳裏にはイソラの言葉が鮮明によみがえる。


『あの二人のどちらかを、あの怪物は気に入った』 

 そして、彼女が最後に呟いた、【呪いに成る】という不吉な言葉の意味が、怜衣の胸に重くのしかかる。決して良いことが起こるとは思えない。


 賑やかな通りから一本入った両側に建物が迫る細い路地へと、女子高生は足を踏み入れた。数分も経たないうちに、彼女は唐突に足を止める。どうやら目的地に到着したようだが、その場所に怜衣は目を疑った。


(……なんで、神社……?)


 目の前には、白い巨大な鳥居が静かに佇んでいる。女子高生は躊躇うことなくその鳥居をくぐり、砂利が敷かれた参道を奥へと進んでいく。静まり返った参道に人影はなく、広大な敷地に彼女の制服姿だけがぽつんと浮いている。混乱しながらも怜衣もまた、その足跡を追おうとした、その時だった。参道のちょうど真ん中あたりで、女子高生は突然足を止め、振り返った。その瞳には、強い決意のような光が宿っていた。


「……私の方に憑いてきたってことは、佳南は無事なはずでしょ。それにしても、一体いつまで憑いてくるつもり? 本当に鬱陶しいわ。さっさと出てきなさいよ!」


 強い語気とともに、女子高生の鋭い視線が怜衣を射抜いた。それはまるで冷たい刃が突き刺さるように感じ、怜衣は足元に根が生えたかのように硬直する。やはり、彼女には自分たちの姿がはっきりと見えているのだ。その確信は、背筋を這い上がるような冷たい感覚とともに、怜衣の心臓を締め付けた。


「チッ……、()()()()の癖に警戒しているの? そんなに簡単に、この鳥居の中には入って来ないってわけ?」


 女子高生は苛立ちを隠そうともせず、一層険しい表情で怜衣を睨みつけた。朱色の鳥居を前に、怜衣は一歩も踏み出せない。この神聖な結界をくぐった先に、何かが起こる。それは明確な形を持たないけれど、怜衣の魂は本能的にその不吉な予感を恐れていた。


 沈黙の中での睨み合いは、実際の時間にしてはほんの数十秒だったのかもしれない。しかし、初めて味わう張り詰めた空気に、怜衣の呼吸は浅く、早くなっていた。


(私は、あの子に勘違いされている……)


 幽霊である自分が何を言葉にしても、この少女に信じてもらえるはずがない。現状をどうにかして打開したい。そう考えるけれど、鳥居の向こう側から押し寄せてくる、神々しいとも形容できる強い圧力に思考は鈍く、まるで重りをつけられたように廻らない。


 なおも鋭い視線を向けてくる女子高生の顔を、ほんのわずかに盗み見た瞬間、怜衣は言葉にできない違和感を覚えた。


(あ……、あれ……? あの子の視線、私に、じゃない……?)


 確かに女子高生の目は、怜衣のいる方向を向いている。しかし、その瞳の焦点は、怜衣の立っている場所よりも、ほんの少しだけ左を捉えているように見えたのだ。その事実に気づいた瞬間、怜衣の心に小さな疑問の種が芽生え始めた。



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