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第三十八話 疑惑

 怪しい微笑みに、喉が張り付いたように声が出なかった。イソラと名乗る幽霊は、まるで心の奥底まで見透かしているかのように、じっとりとこちらを見つめている。その目は、底なしの暗闇のように冷たく、怜衣は背筋に氷を落とされたような感覚を覚えた。


「レイち、なんやこの人、ホンマにヤバやない……?!」


 背後で鈴那が、怜衣の肩に縋りつくようにして顔を覗かせ小声で呟いた。鈴那の小さな体は恐怖で震えている。依然として耳をつんざくような不気味な咆哮が遠くでうごめき、鈴那だけでなく、怜衣の顔も思わず歪んだ。眉間に深い皺が刻まれる。一体、何が起こっているのだろうか。この異様な状況に、怜衣の心はざわついていた。


「あなた達も……」


 重苦しい沈黙を破ったのは、イソラの低い声だった。その声は、空気を震わせるような力を持っていた。表情には、言葉では言い表せないほどの醜悪さが滲み出ている。歪んだ笑みは、獲物を前にした捕食者のように、ぞっとするほど不気味だった。


「その気があれば、私はいつでも迎えるわ。だってそんな日常、退屈でしょう?」


 イソラの問いかけに、怜衣は警戒の色を濃くし、さらに目を細めた。退屈……?、一体何が退屈だというのだろうか。この状況そのものが、怜衣にとって理解を超えた異常事態だった。


「ええ。だって、そんな不便な身体、幽霊に成ってまで必要ないじゃない。私が本当の自由を教えてあげる」


 イソラはゆっくりと片手を上げた。その指先は、不気味なほど白く、長く伸びている。その手を合図としたのだろうか、先ほどまであたりに響き渡っていた魂を抉るような慟哭が、嘘のようにピタリと止んだ。静寂が、逆に一層の不安を掻き立てる。


「不自由なんて、ウチらは思ってへんで」


 鈴那の震えながらも毅然とした声が怜衣の耳に突き刺さった。その小さな瞳には、強い光が宿っている。鈴那の言葉に、怜衣もまた静かに頷いた。そうだ、どんな困難があろうとも自分たちは決して不自由だなんて思っていない。とっくに死んでいるはずの二人だが、共に笑い合える今が何よりも大切だと強く感じていた。


「あら、それは残念ね。お二人とも、本当に素晴らしい才能をお持ちだと感じたのに」


 イソラはそう言って、どこか含みのある笑みを浮かべた。その挑発的な物言いに、鈴那は露骨に顔をしかめる。まるで面白くない冗談を聞かされた子供のようだ。


「イソラさんは、もしかして……」


 鈴那とイソラの間に、そっと怜衣の声が滑り込んだ。少しばかり躊躇いを含んだ、自信なさげな問いかけだった。


「あなたも、都市伝説なの……?」


 突然の問いに、イソラの顔が一瞬硬直した。しかし、その表情はすぐに嘲笑へと変わる。


「都市伝説? まさか……、そんな生ぬるいものと一緒にされるのは心外だわ?」


 その声は静かだったが、確かにイソラの内に渦巻く怒りが滲み出ていた。周囲の空気さえ、わずかに張り詰めたように感じられた。


「まさかとは思うけれど……、あなたは本当に、その都市伝説なんてものを信じているの?」


 イソラの冷たい視線が怜衣を射抜く。しかし、怜衣は臆することなく、まっすぐに見つめ返した。


「はい、少なくとも、私には大切な繋がりなので」


 短くもあり、長くもあるように感じられる沈黙が、その場を支配した。遠くの方で聞こえていた車の音さえも、消え去ったかのように静まり返っている。


「ふふ、なかなか面白い子ね。嫌いじゃないわよ……、()()()()()()さん?」


 その名を呼ばれた瞬間、怜衣は目を見開いて驚愕した。釉乃と共に追い求めている都市伝説の名を、今日初めて会ったばかりのイソラはいとも容易く言い当てたのだから。心臓がドクリと跳ね、背筋に冷たいものが走った。




「そんなに驚くことじゃないでしょう。さっきも言ったとおり、 私は占い師でもあるの。あなたの顔立ち、その人相からでも十分に読み取れることはあるのよ」


 イソラはそう言って、余裕のある笑みを深めた。その瞳には、怜衣の驚きを面白がるような光が宿っていた。


「そうね、せっかくだから少しアドバイスをあげるわ……」


 イソラはそう言って、怜衣を射抜くように見つめた。


「あなたが信じてやまないその()()()()()()、どうして何も疑わないの?」


「え……?」


 その言葉が、まるで冷たい刃のように怜衣の心臓に突き刺さった。頭の中に、あの優しい笑顔が浮かぶ。釉乃さんの顔だ。この人は一体、何を言っているのだろう?理解が追いつかず、怜衣の思考は混乱の淵へと沈んでいく。その混乱に呼応するように、胸の奥底から黒く淀んだ何かがじわりと広がっていくのを感じた。


「あなたが幽霊になってからの出来事。偶然にしてはあまりにも、出来すぎているとは思わない?」


 イソラの静かで冷たい声が、まるで過去を巻き戻すように、数ヶ月前の記憶を呼び起こした。身体を切り裂かれた激痛、朦朧とした意識、そして気がつけば幽霊になっていた自分。その後の釉乃さんの献身的な温かい励まし……確かに、全てがあまりにもスムーズに進みすぎていたのかもしれない。目を向けたくない、不吉な予感が心の中で渦巻き始めた。


「そもそも……、あなたを殺したのって、本当に生きている人なのかしら?」


 その言葉は、重い鉄塊のように怜衣の胸に落ちた。イソラの冷たい言葉たちが、容赦なく怜衣の過去をそして今信じているものを責め立てるように押し寄せてくる。これ以上、この人の話を聞いてはいけない。そう思うのに、まるで金縛りにあったかのように身体は固まって動かない。耳を塞ぎたいのに、指先さえピクリともしない。


 そんなわけ、ある筈がない。ありえない。釉乃さんが、私を……? あの優しくて、いつも私のことを心配してくれた釉乃さんが?


 否定の言葉が頭の中で何度も何度も繰り返される。しかし、その度に、激しい目眩に襲われたように怜衣の意識は揺らいだ。まるで、今まで見ていた世界が、足元から崩れ落ちていくような感覚だった。


「その幽霊……、あなたに黙っている秘密が幾つかあるわ」


 嘘だ。そんなの嘘だ。聞きたくない。聞きたくない。それ以上、何も聞きたくない。怜衣の呼吸は次第に荒くなり、喉がひゅうひゅうと鳴り始めた。


「適当な事いうのやめや! 釉ねぇがレイち騙しとるなんて、あるワケないやろ!?」


 その時、鈴那の怒気に満ちた鋭い声が響いた。その声にはっと我に返った怜衣は、大きく息を吸い込んだ。


「レイち、大丈夫?」


 鈴那の心配そうな声が、耳元で優しく響いた。その声には、ただの問いかけ以上の、深い気遣いが滲んでいる。


「う、うん。鈴那ちゃん、ありがとう」


 怜衣はか細い声で応えた。顔色は青白く、冷や汗が額に滲んでいる。心臓は激しく脈打ち、まるで体の中に小さな鳥が閉じ込められて、必死に羽ばたいているようだ。先ほどの出来事が、まだ生々しく脳裏に焼き付いて離れない。


「このままここに居ったら、ワケわからんくなる。一旦ここを出よう」


 鈴那はそう言うと、迷いのない強い眼差しで怜衣の手をしっかりと握った。その温もりが、わずかに怜衣の凍えかけた心に安らぎをもたらす。鈴那の手は小さく頼りないけれど、その力強い握りには、怜衣を支えようとする確かな意志が感じられた。


 鈴那に導かれるまま、二人は出口のある一階を目指して駆け出した。背後には、あの異様な空間と、そこで見た信じがたい光景が広がっている。振り返る勇気はなかった。ただ、鈴那の引く力だけを頼りに、必死に足を動かした。


 廊下の隅々には、得体の知れない静けさが漂っている。先ほどまでの喧騒が嘘のように、今はただ、二人の足音だけが虚しく響いていた。壁に飾られた絵画の人物たちが、まるでこちらをじっと見つめているようで怜衣は身を縮こまらせた。


 そんな二人の様子を、イソラは引き留めることもせず変わらず冷たい笑みを浮かべて見送っていた。その表情には、一切の感情が読み取れない。ただ、薄氷のような冷たさと、どこか嘲弄的な光が宿っているだけだった。その視線が、背中に突き刺さるように感じられ、怜衣は再びゾクリと悪寒が走るのを覚えた。まるで、見えない何かに追いかけられているような、言いようのない不安が、胸の中に広がっていく。早く、ここから逃げ出したい。その一心で、怜衣は鈴那の手を握り返した。



◆◆


 ビルの重い自動ドアが閉じる音が背後で聞こえて、二人は立ち止まる。まるで先ほどまでの出来事が現実のことだったのか、それとも白昼に見た悪夢だったのかとでもいうように、互いの顔を見つめ合った。夜の帳が下り始めた街の喧騒が、遠くでかすかに聞こえるばかりで、二人の間には重苦しい沈黙が漂っていた。


「レイち、これからどうする?」


 耐えかねたように、鈴那が小さく呟いた。その声は、周囲の静けさの中でひどく頼りなく響いた。怜衣は、脳裏に鮮明に残るイソラの言葉を反芻する。冷たい光を宿した瞳、確信に満ちた低い声。「呪いに成る」という不吉な予言が、胸の中で渦巻いていた。


「さっき……、あの人は呪いに成るって言ってた。もしかして、さっきの高校生の子達を狙っているのかな……?」


 去り際に見た、あの高校生の射抜くような鋭い視線が怜衣の心に深く突き刺さっていた。あの眼差しには、ただならぬ強い感情が宿っていたように感じられたのだ。一体、イソラは何を企んでいるのか。不安の影が、怜衣の胸にじわりと広がっていく。

鈴那は、怜衣の憂いを帯びた表情を見つめ、いつもの明るさを少し失った声で言った。


「たしかに、あのイソラって人、何をするかわからへん。あの時の雰囲気も、ちょっと普通やなかったし……。しゃーない、さっきの子ら、追いかけてみよか」


 鈴那の言葉にはかすかな迷いと、それでも見過ごすわけにはいかないという決意が滲んでいた。二人は再び、新宿の街へと足を踏み出した。先ほどまでとは違う、重い空気が二人を包んでいる。



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