第三十七話 磯良
薄汚れた簡易的な扉が、まるで悲鳴を上げるかのように「ギー……」と軋んだ。薄暗いベニヤ板で仕切られた息苦しい小部屋から、疲労の色を滲ませた二人の少女が現れた。彼女たちは、まるで抜け殻のように無表情でぺこりと頭を下げると、重い足取りで踵をかえし、その場を後にした。彼女たちの背中には、言いようのない寂しさが漂っていた。
「ーー大変っ、大変や!」
張り詰めた静寂を切り裂くように、けたたましい叫び声が背後から響き渡った。少女たちの後ろを、何かに取り憑かれたように慌ただしい足音が近づいてくる。その尋常ではない騒がしさに、まるで時間が止まっていたかのように硬直していた怜衣はようやくハッと我に返った。
心臓がドキドキと早鐘のように打ち、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
「レイち、大変や……、って、なんなんそのバケモノッ!?」
怜衣の異様な様子に気づいた鈴那は目を丸くして声をあげ、露骨に顔を歪めて驚愕の表情を浮かべた。彼女の指先は、信じられないものを見たかのように震えている。
「わからないけど、さっきからずっと動かないんだよ……」
長い黒髪がわずかに揺れ、隠れていた顔がゆっくりとこちらを向いた。微動だにしないそれは、まるで時が止まっているかのようだ。漆黒の奥でじっとりと赤く光る二つの眼。その妖しい光に、鈴那は背筋が凍るような、確かに見つめられている感覚を覚えた。
「あれも、幽霊……なんかな?」
鈴那は小さく呟いた。恐怖と疑問が入り混じった声は、わずかに震えている。
「わからない。でも、さっき一度声をかけてみたけど、聞こえてないみたいに何も反応してくれなかった」
怜衣の声はどこまでも冷静だった。その様子に、鈴那は目を丸くして再び大きな声で驚いた。
「えええええっ!? あんなのに話しかけたん!?レイち、マジで信じられへん!あんた、ほんまにハート強すぎやんな」
鈴那は両手を広げて驚愕の色を隠せない。足はすくみ、今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られていた。
「――あら? ずいぶんと可愛らしいお客様ね」
すぐ側で、まるで囁くような声が聞こえた。怜衣と鈴那は、心臓が跳ね上がるのを感じながら咄嗟に振り返る。いつの間にかそこに立っていたのは、まるで空気のように影の薄い細身の女性だった。ゾッとするほど真っ黒な長い髪の間から能面のように不気味なほど白い肌を覗かせて、口元だけが歪に笑っている。
「……う、ウチらに話しかけてんのかな……?」
鈴那は、その異様な雰囲気に息を呑み、不安げな声を漏らす。
「……どうだろう、でも、そうだとしたら……」
怜衣も警戒の色を隠せない。突然現れた得体の知れない存在に身構えながらも、どこかで同じ幽霊同士だという安堵感がかすかにあった。
「ありがとうございました、失礼します」
ふと、また違う、明るくハキハキとした声が聞こえたかと思うと、目の前には先程の女子高生達が深々と頭を下げていた。
「なんや……、ウチらにやなかったんか。まぁ、そらそうよね」
鈴那は拍子抜けしたように、けれどどこかホッとしたような表情で呟く。女子高生達はそのまま出口へ向かうのか、コツコツと音を立てて階段を降りていく。二人の目の前を通りすぎるほんの一瞬、ショートカットの女子高生の一人が、ギョッとするほど鋭い視線でこちらを見たような気がした。怜衣は背筋がゾッとした。
「ーーいいえ、あなた達にも声をかけていたのよ?」
先程の女の声がまるで獲物を定める蛇のように、じっとりと二人に絡みついてきた。ビクリと身体を揺らす二人は、すぐに向き直った。
◆
「人間の幽霊が訪ねて来るだなんて、今日は珍しいことが続くわねぇ……」
女性は、どこか人を惑わすような、それでいて楽しげな笑みを深く浮かべて、じっとこちらを見つめてきた。その妖しげな雰囲気に、鈴那は思わず一歩後ずさる。そんな鈴那を庇うように、怜衣は少しだけ前に進み出て、意を決したように問いかけた。
「あの……あなたも、幽霊なんですか?」
頭の中に浮かんだ疑問を、思い切って言葉にする。
「ちょっ、レイち、なに言うてるん!? そんなわけあれへんやん! だってこの人さっき、そこの高校生と普通に話してたやんか!?」
鈴那の言葉はもっともだった。確かに、目の前の女性はつい先ほど、生きている人間とごく自然に会話をしていたのだから。怜衣もその光景は見ていたはずなのに、なぜか拭いきれない違和感を覚えていた。
「でも……私たちのこと、本当に見えているみたいだし……」
今まで出会ってきた幽霊たちは、基本的に生きた人間には認識されない存在だった。しかし、目の前の女性は明らかに二人を捉えている。人間に知覚される幽霊……怜衣には、これまで何度もそんな特異な存在と生者が交わっている場面を目撃した記憶が蘇ってきた。信楽釉乃という、特別な力を持つ女性のことを。
「そんなに怖がらなくても、大丈夫よ」
女性は、まるで二人の内心を見透かしたかのように、ねっとりとした、甘く囁くような口調で続けた。その声は、どこか人を安心させるような響きを持ちながらも、同時に背筋をぞっとさせるような奇妙な感覚を怜衣に与えた。
「そこの可愛らしいお嬢さんの言う通り……私も、もうこの世の者ではないの」
その言葉を聞いた瞬間、鈴那は小さく悲鳴を上げ、さらに怜衣の背に隠れようとした。怜衣自身も、その言葉の重みに息をのむ。やはり、この女性もまた幽霊なのだと。しかし、なぜ彼女は生きた人間に見えるのだろうか? そして、一体何が目的なのだろうか? 怜衣の心には、新たな疑問と警戒心が渦巻いていた。
「私の名前はイソラ、と申します。生きている人間達からは【千眼珠藻】と認識されている」
女性はにこやかに、しかしどこか作り物めいた笑顔で丁寧にお辞儀をした。その優雅な動きは完璧であるはずなのに、なぜだろうか、背筋がゾッとするような言いようのない不気味さが全身を這い上がってくるのを感じた。まるで、美しい花に潜む毒針のように。
「千眼珠藻って……、ええっ!? それって、この霊視鑑定所のボスやん!」
信じられないといった表情で、後ろに隠れていた鈴那が肩越しから身を乗り出し驚愕の声を上げた。
「ええ、いかにも」
千眼珠藻、いや、イソラと名乗った女性は、鈴那の言葉に微かに微笑みながら静かに頷いた。
「私が、この霊視鑑定所の代表を務めております」
その落ち着き払った態度が、逆に一層の違和感を掻き立てる。だって、目の前にいるのは幽霊なのだ。
「どうして……、幽霊のあなたが、霊視なんて、一体どういうことなんですか?」
怜衣は戸惑いを隠せないまま、思わず問いかけていた。幽霊が生きている人間の悩みを聞き、未来を視るなど常識では考えられない。一体この女性の、いや、幽霊の目的は何なのだろうか。
「私はただ、悩める生者に救いの手を差し伸べているだけ……」
低い、けれどどこか諦めを含んだ声が、静かに響いた。
「なんのために?」
訝しむような、あるいは問い詰めるような鋭い声が間髪入れずにイソラへ飛んだ。その声に、わずかに眉をひそめたものの、イソラは無表情を保ったまま淡々と答える。
「目的なんてモノは無いわ。そうね、強いて言えば善意かしら? だって……」
一瞬、寂しげな影がその瞳をよぎった。
「死者が欲しいモノなんて、この世にはもうなにもないでしょう?」
最後の言葉は、まるで独り言のように、虚空に消えていった。
この幽霊は、本当に誰かを助けているのかもしれない……。
怜衣は、どこか寂しげなイソラの横顔を見つめ、さっきまでの自分が一方的に抱いていた疑念を小さく恥じた。
「いきなりお邪魔して、失礼なことを言ってごめんなさい」
素直に頭を下げると、イソラは「気にしないで」と、まるで作り物のような微笑みを返した。その笑顔はどこか冷たく、怜衣の心に小さな引っかかりを残した。
「さっきの占いといい、ずいぶんと物騒な場所やんな……せやった、レイち! さっきな――」
鈴那が何かを思い出したように明るい声を上げた、その瞬間だった。
二人の背後に、まるで獲物を求める獣のような、唸り声が響いた。すっかりその存在を忘れていた怜衣と鈴那は、凍り付いたように振り返る。
そこにいたのは、黒々とした長い髪がうねり、蠢く異形の影だった。目は爛々と光り、口元からはだらしなく伸びた長い舌が覗いている。まさしくそれは、この世のものではないおぞましい存在だった。
「あらあら、毛倡妓が反応したみたいね。さっきの女の子のどちらかが気に入ったのかしら?」
悲鳴のような喉の奥から絞り出すような唸り声を上げる黒髪の怪物に、怜衣と鈴那は恐怖で身を寄せ合った。心臓が早鐘のように打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
「け、ケジョウロウ……?、イソラさん、この人もあなたの仲間の幽霊なの……?」
怜衣は顔面蒼白になり、声も震わせながらイソラに問いかけた。イソラは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐにゾッとするほど不気味な笑みを浮かべてゆっくりと口を開いた。
「ええ。この子はもう少しで自我が芽生えるはず」
「自我……って?」
怜衣はその言葉の意味が分からず、不安げに問い返した。イソラは妖艶なまでに美しく微笑んだ。しかし、その瞳の奥には底知れない怨恨と憎悪が宿っているように感じてしまう。静かに、そして冷たい彼女の言葉は二人は再び顔を強ばらせた。自分たちとは明らかに違う、世の理の外にいるような不気味な存在がすぐそこで何か恐ろしいことを企んでいる。肌が粟立ち、逃げ出したい衝動に駆られる。
「彼女は産まれ変わるの……、呪いに成ってね」
イソラの恍惚な表情は甘美な仮面を被りながら、見る者の精神を蝕むような狂気を湛えていた。その言葉は怜衣と鈴那の意識の深淵にじわじわと浸透し、抗いがたい恐怖の血濡れた影を落とした。目の前の美しい女は、単なる幽霊などではない。彼女の周囲には、甘美な囁きや、生者への慈悲とはとてもかけ離れた、粘りつくような異質な死の匂いが漂っていた。