第三十六話 雫
黒い暗幕をくぐり抜けると、そこはまるで迷路のように簡易的な仕切りで区切られた空間が広がっていた。一つ飛ばしに設置された天井の頼りない照明は、奥へ進むほどにその光量を減じ、得体の知れない不安感をじわじわと増幅させていく。壁に貼られた安っぽい壁紙は剥がれかけ、その隙間から冷たい空気が忍び込んでくるようだった。
『十三番の部屋へどうぞ……』
低い、まるで地の底から響いてくるような声が、静まり返ったフロアに不気味な残響を残して消えた。丸眼鏡の女子高生とボブカットの女子高生は、顔を見合わせ、強張った表情でスピーカーの方向へゆっくりと歩き出す。その背中からは、隠しきれない恐怖の色が滲み出ていた。
しかし、その後ろをついていく鈴那の瞳だけが、好奇心と期待に妖しく輝いていた。
「し、失礼します」
丸眼鏡の女子高生が、震える手で古びた樹脂製の扉を遠慮がちに開いた。開かれた隙間から漏れ出したのはさらに濃密な暗闇と、甘く、どこか腐敗臭にも似た不思議な芳香だった。二人の女子高生はその異様な雰囲気に息を呑み、足が竦むのを感じた。
「ようこそいらっしゃいました。そのまま、こちらへ、どうぞ」
部屋の奥でまるで生き物のように脈打つ赤い光が、闇の中で妖しい存在感を放っていた。足を踏み入れたのは、せいぜい四畳半ほどの狭い空間。そこに置かれた、場違いなほどにけばけばしい装飾が施された小さなテーブル。その上では、黒々と鈍い光を放つ蝋燭の炎が、まるで意思を持つかのようにゆらゆらと揺れ、ねっとりとした甘い香りを放つお香の煙が、怪しげな渦を描いていた。
「どうか緊張なさらず、そこへお掛けください」
テーブルの向こうに座る女性は微笑んでいるようにも、獲物を定める蛇のように冷酷な眼差しで二人を見透かしているようにも見える、底知れない表情でそう言った。その白い肌は、揺れる蝋燭の赤い光を妖しく反射し、暗闇の中で際立っている。細く白い指先には不気味なほど長く、鋭利な爪が鈍く光っていた。
二人の女子高生は、その非現実的な光景に言葉を失い、警戒するように互いに視線を交わした。促されるまま、軋む音を立てる古びた丸椅子に腰を下ろすと、背筋に氷のような冷たいものが這い上がってくるのを感じた。
「初めまして。私は千眼様の弟子で、霊能者の雫と申します。ふつつか者ではございますが、本日は私が、皆様の御心に寄り添わせていただきます」
雫の言葉遣いは表面上は丁寧でありながらその声には一切の感情がこもっておらず、まるで精巧に作られた人形が言葉を発しているかのようだった。その黒い瞳の奥に宿る光は揺らめく蝋燭の炎のように捉えどころがなく、見つめていると吸い込まれてしまいそうな深淵を感じさせる。二人の女子高生は、言いようのない不安に心臓を締め付けられていた。
「……よろしくお願いします」
遠慮がちに、ほとんど囁くような声で答える二人に、雫は微笑みとも取れない曖昧な表情を向けた。そして、ゆっくりとした口調で問いかけてくる。
「本日はどのような御相談がおありでしょうか?」
二人は再び顔を見合わせ、何かを確かめ合うように小声で話し合った。しばらくの後、意を決したように丸眼鏡の女子高生が、震える声で口を開いた。
「あの、私は小林佳南って言います。実は私、最近、妙なものに付きまとわれてて……。こうゆうところで相談する話じゃないのかもしれないんですけど、誰にも聞けなくて……」
お下げ髪の片方を不安げに弄びながら、佳南と名乗る女の子は、今にも泣き出しそうな声で言った。その目は、恐怖で大きく見開かれ、わずかに潤んでいる。
「妙なモノ……、というと?」
雫の低い声が、静かな部屋に重く響いた。佳南はその問いに顔を歪め、言葉を探すように視線を彷徨わせた。見かねたように、隣に座るボブヘアの女子高生が、少し強い口調で割って入った。
「簡単に言うと除霊みたいな……、あ、私は彼女の友達で千種千奈って言います。佳南に取り憑いている何かを追い払うことってできますか?」
「ええ、できますとも」
千種千奈の言葉が終わるか否かのうちに、雫は静かに確信に満ちた声で答えた。その表情からは相変わらず感情を読み取る事ができず、二人の女子高生はその言葉に安堵するよりも先に底知れない何かを感じ取っていた。
「ですが、その前に、どのようなものが佳南さんに付きまとっているのか、詳しくお聞かせいただけますか?」
雫の問いかけに、佳南は再び不安げな表情を浮かべた。隣の千奈は佳南の肩にそっと手を置くと、少しだけ顔を上げ雫をまっすぐに見つめた。千奈の瞳の奥には、佳南のような露骨な恐怖の色は見られない。代わりに、何かを観察するように、あるいは探るような、鋭い光が宿っていた。
「実は、私も少し感じているんです」
千奈は落ち着いた声でそう切り出した。その言葉に、佳南は驚いたように顔を上げた。
「え?千奈も?」
「うん。佳南が最近おかしいって言い出した頃から、私もたまに、ゾッとするような気配を感じることがあって……。最初は気のせいだと思っていたんだけど」
千奈はそう言うと、少しだけ目を伏せた。彼女の長い睫毛が、蝋燭の赤い光を受けて影を落としている。
「佳南には、もっとハッキリと見えるみたいなんです。黒い影のようなものとか、誰もいないはずなのに声が聞こえたりとか……」
佳南は、千奈の言葉に頷きながら、顔を青ざめさせた。
「うん……。最初は気のせいだと思ったんだけど、だんだんハッキリ見えるようになってきて……。夜中に目が覚めると、部屋の隅に黒い影が立っている気がするの。声も、最初は遠くで聞こえるような気がしたんだけど、最近はすぐそこで囁かれているみたいで……」
佳南の声は震え、今にも泣き出しそうだった。雫は、二人の言葉を静かに聞いていたが、その表情は微動だにしない。まるで、目の前で繰り広げられている少女たちの恐怖など、取るに足らないことのように。
千奈は佳南の震える手を握りしめ、再び雫に向き直った。その瞳には先ほどの探るような光に加えて、かすかな憂いの色が宿っていた。霊感を持つ彼女は佳南に取り憑いているものが単なる悪霊などではない、もっと複雑で根深い何かであることを感じ取っている様に見えた。言葉にはできない嫌な予感が、彼女の胸をざわつかせていた。
「雫さん。佳南に取り憑いているもの……、一体何なんでしょうか?」
千奈の声にはかすかながらも、強い問いかけの意志が込められていた。彼女は、ただ除霊をしてほしいだけではない。その根源にあるものを知りたいと、本能的に感じていたのだ。
「……私の霊視ではまだ、今の段階では特定できませんね。もう少し詳しく、これまでの経緯をお聞かせ下さいませんか?」
雫は瞳はまた怪しく光ったように見えた。
◆
「なんか……、めっちゃおもろい事になってきてる」
一連のやり取りを後ろで聞いていた鈴那は、一人興奮したように目を輝かせていたのだった。