第三十四話 虚空の海原に
「よし、これで一気に拡散された。うふふ、出演料は確かに頂きました」
PCに映る映像を見て、釉乃は妖しく微笑んだ。
「この人、これからどうなるんですか?」
楽しそうな彼女に、怜衣は背筋が粟立つ思いで尋ねた。映像に映る薄暗い部屋には、蹲った男が首を垂れたまま、まるで抜け殻のように動かない。
「大丈夫よ。もう少ししたら、きっと来るはずだから……」
「来るって……、一体誰が?」
釉乃はそう言うと、配信中の動画に無邪気な笑みを浮かべながらコメントを打ち始めた。彼女の肩越しに覗き込むと、新宿区内の見慣れない住所が書き込まれていた。
「釉乃さん、それは?」
詳細な住所を打ち終えると、釉乃は満足そうに送信ボタンを押した。
「この映像に映っている部屋の住所。正確には、ずっと前に廃墟になっているアパートだけどね」
「やっぱり、この部屋って違う場所だったんだ。良く似てるとは思ったけど」
狩野総一こと色摩靑司が、神子島親子の旧居だと信じ込んでいる部屋。怜衣には、初めから違う場所だと分かっていた。あの独特の湿った空気感や、壁に染み付いたような陰鬱な雰囲気が、記憶の中の場所とは決定的に異なっていたからだ。
「色摩は本当にレイちゃんが昔住んでいたアパートだと思ってる。さすがに本物の部屋で居座られるのは、ちょっと嫌かなって思って」
似たような古い和室の間取り。しかし、記憶の中の温かみのある障子や、使い込まれた畳床の感触はそこにはない。敷かれたままの絨毯も、どこか違和感がある。
「それを信じ込ませたのも、釉乃さん?」
釉乃は得意げに片目を閉じてみせた。その無邪気な仕草とは裏腹に、怜衣は言いようのない不安に襲われる。まるで、深淵を覗き込んでいるような底知れない感覚。
「これくらいの事、レイちゃんだって出来るようになるよ。そうだ、それよりさっきのアドリブね。凄く良かったよ、歌もとっても上手だった!」
「は、はぁ……、咄嗟に思い付いたのが、聖歌だったから……」
「Dies iræ、怒りの日か……、いいじゃない。やっぱり都市伝説には、キーワードが必須よね!」
「キーワード……」
釉乃の話に、やはり理解が追いつかない怜衣は、問い返したい衝動を必死に抑える。今は、画面上の男のほうが気になってしまっていた。両足を抱くように小さく項垂れる色摩は、まるで時間が止まったかのように微動だにしない。その姿は、生ける屍のようだった。
「この色摩って人、少し……気の毒だな」
思わず呟いた怜衣に、釉乃は無表情のまま視線を向けた。その瞳には、怜衣の言葉を嘲笑うような冷たい光が宿っている。
「……色摩靑司は、人一倍、他人の目を気にする性格だったんじゃないかな。学校でもサークルでも、自分の存在を誰かに気づいてもらいたかっただけなのかなって。なんか、私と少し似てるのかもしれない」
廃墟に残された色摩を見ているうちに、独りで過ごした生前の自分と重ねてしまっていた。誰にも気づかれず、ただ時間だけが過ぎていくあの感覚。寂しさを紛らわすように窓際で空想に浸る時間、怜衣には痛いほど覚えがあった。
「一面ではそうね。ただあくまでそれは、色摩が自分から見ている『気持ちのいい所』だけを切り取ったもの。私から見たら、彼とレイちゃんは似てもにつかないわ」
伏し目がちに画面を見つめる怜衣に、釉乃は短く溜め息をついた後、低い声で続けた。その声には、先ほどの明るさは微塵も感じられない。
「彼の場合は、もっと醜悪に拗れていたの。後輩達へ見栄を張るため簡単に虚言を吐いたり、表迫流美に一方的な好意を押し付けて追い込んだり。まあ、承認欲求が強すぎたのかもね。その歪んだ欲望が、彼をここまでにしたのよ」
釉乃の言葉に、怜衣は言葉を失い、ただ画面を見つめることしかできない。切っ掛けは、きっと些細なものだったのだろう。彼がここまで疎まれる存在になったのは、自分の主張を通したが為だ。もし、何かが違っていたら、自分も色摩と同じようになっていたのではないか?
暗い表情で男を見ていると、隣から冷たい視線を感じた。振り向いた瞬間、釉乃の氷のように冷たい両手が怜衣の頬を挟んだ。
「ほらほら、そんな顔しない!」
「ちょっ、つ、つやのさん……?」
釉乃は楽しそうに怜衣の顔をグリグリと動かした。誰かに触れられる感触は、生前の温もりを思い出させ、同時に、今はもう決して戻れないのだという残酷な現実を突きつける。
「ほら! また出来るようになったこと、増えてるよ?」
冗談交じりに頭を撫でてくる釉乃。その指先は、生者のように温かいのに、どこかひやりとした感触が混じっているように感じた。
「これって、ひょっとして……」
恐る恐る手を伸ばす。遠慮がちな怜衣の右手を、釉乃はしっかりと両手で掴んだ。
「私、釉乃さんに触れてる?!」
掴まれた彼女の手を握り返すと、確かに、そこに質量がある。しかし、その感触はどこか曖昧で、まるで幻に触れているかのようだった。
「おめでとう、これからは手を繋いで歩けるわよ?」
彼女はまた、わざとらしく微笑む。その笑顔は、どこか悲しげで、怜衣の心に小さな棘を刺した。これもまた、都市伝説として世の中に認められたということなのだろうか。死者の存在が、曖昧な輪郭を持ちながら、この世界に干渉し始める。
「それは、遠慮します」
嬉しい気持ちを押し殺しながら、怜衣はぎこちない笑みを浮かべて釉乃に答えた。彼女の隣に立つことは、まるで深い淵のそばに立つようで、言いようのない恐怖を感じるのだ。
◆
「あれ……、色摩のいる部屋に誰か入ってきた!?」
PCに映る映像が変わっていることに、怜衣は息を呑んだ。依然として蹲ったままの色摩靑司を、四つの影が囲むように立っていた。Webカメラの角度的に人物の顔は映らないが、怨嗟に満ちた声はしっかりと拾われていた。
『色摩靑司ッ、あんたなんかがいるから叔父さんが――!』
『おい、落ち着けよっ!』
『でもまさか本当に住所載せてるなんて……』
『おい、カメラに気を付けろよ! 俺達まで晒されるぞ!』
四人の男女の声が、怒りと憎悪を孕んで交錯する。釉乃はその様子を見ると、冷たい笑みを浮かべ、一言だけ漏らした。
「本当に四人と配信できて良かったじゃない、貴方への出演料はこれで良いでしょう?」
乾いた嘲笑を響かせると、釉乃は躊躇なくPCの画面を閉じた。その表情は、まるで獲物を前にした悪鬼のようだった。
「釉乃さん、あの四人ってもしかして……」
釉乃は首を傾げてみせると、虚ろな瞳で怜衣を見つめ、薄く微笑んだ。その笑顔は、何も語らず、ただただ不気味だった。
「まぁ……、両成敗って事でいいんじゃないかしら?」
◆◆
生配信されていた動画に、続きはない。
配信者である【空色サイファー】は、その配信を最後に、まるで幻のように姿を消した。SNSでは考察が飛び交い、事件の真相を特定しようとする書き込みが幾つも上がった。しかし、狩野総一を含めて、あの動画に映っていた人物の特定はできず、そもそも、あの部屋の住所は初めから存在していなかった。
あの夜行われた生配信は、一体何の意味があったのか?
残されたのは、言いようのない不気味さと、ネットの海に漂う無数の憶測だけだった。
真相を知る者は、何処にもいない。
最後に映った四人に囲まれた狩野の様子。一部音声の乱れた箇所を、物好きな匿名の誰かが解析し、ネット上にアップロードしている。途切れた不鮮明な声は、恐らく狩野総一のものである。彼は、まるで悪夢にうなされているかのように、同じ言葉を繰り返しているようにも聞こえた。
『カ……シマ……レイ……』
動画は配信サイトで暫く話題に上がったが、運営サイドによって現在は消去されている。しかし、そのデータは形を変え、まるで呪いのように、その後も不定期にアップロードされている。
配信者の名前は決まって【reyco】という名前だそう。その背後には、一体どんな悪意が潜んでいるのか、知る者は誰もいない。ただ、その名前を見るたびに、ネットの住人たちは言いようのない寒気を感じるのだった。




