第三十三話 『LIVE』 体験者:S.S(25)自称動画配信者
意識が浮上するにつれて、頭蓋の内側から鈍い痛みが這い上がってくる。薬の抜けた焦燥感と寝起きの悪さが混ざり合い、世界は灰色に滲んでいた。鉛のように重い体を無理やり起こし、乾いた喉に生ぬるい水を流し込む。その時、脳の奥底で微かな違和感が疼いた。
昼間の動画はどうなっただろうか?
確かめたい衝動はあれど、意識はまだ深い霧の中だ。痺れるような体の重さに抗えず、ただ時間が過ぎるのを待つ。薬が効き始めるのはいつなのだろう。
表迫凌平は、あの映像をどんな顔で見たのだろうか?
想像すると、じわじわと喜びが湧き上がってくる。復讐を果たしたという満足感、狼狽えるアイツの顔を思い浮かべるだけで、乾いた笑いが漏れた。
視界が徐々にクリアになる。ようやく薬が効いてきたようだ。
狭い六畳間の隅に置かれたデスクチェアを引き寄せ、深く腰を下ろす。マウスに手を伸ばし、スリープ状態の画面を起動させた。『空色サイファー、狩野総一』としてアップロードした過去の動画リストが表示される。だが、そこに異様な感覚がまとわりついた。
……どういうことだ?
何度も見返したはずの動画リスト。しかし、どこか決定的に違う。言いようのない不安感が胸を締め付ける。
……なにが、どこが、違う?
違和感の正体を突き止めようと目を凝らした瞬間、気づいた。更新順に並んだ動画の一番上、最新の動画の隅に、小さく赤く「LIVE」と表示されている。
なんだ、これは?! 俺はライブ配信なんてしていない。誰かが俺のアカウントを勝手に操っているのか?!
すぐに再生ボタンをクリックした。画面は暗く、何も見えない。赤黒い畳が敷かれた和室。家具はなく、生活感もない。音声も途絶えている。ただ、コメントだけが異様な速度で流れ続けていた。
……
【この配信、マジでヤバいって】
【配信者、頭おかしくなったんじゃね?】
【中央の絨毯、マジで不気味】
……
中央の絨毯……?
コメントに導かれ、再び画面に目を凝らす。構図は変わらない。最大限に拡大し、目を凝らした。確かに、和室の中央に小さな洋風の絨毯が、不自然なほど無造作に置かれている。
この部屋を知っている。
新宿で起こった殺傷事件の被害者Rの旧居。数ヶ月前、許可なく侵入して撮影した場所だ。動画のネタにするつもりだったが、不法侵入というリスクを考え、公開は見送ったはずだった。
なぜ、今あのアパートが配信されている? いや、それよりも俺のアカウントが乗っ取られていることの方が大問題だ。すぐに運営に連絡しなければ……
思考が渦巻く中、画面の片隅に目を奪われた。信じられないほどの視聴者数。デスクの端に置いたスマートフォンが激しく振動し始めた。手に取ると、見たこともない数の通知が押し寄せている。動画に紐付けたSNSアカウントにも、おびただしい数のコメントが書き込まれていた。
……このまま放置した方が、面白いことになるんじゃないか?
理性的な思考とはかけ離れた考えが頭をよぎる。それでも、見たことのない熱狂に心がざわめいた。最愛の流美を失くし大学を辞め、傷ついた心を抱えて始めた最後の賭け。人気動画配信者になれば、失った全てを取り戻せると思っていた。だが現実は甘くなかった。妄想の中では大勢のファンに囲まれていても、現実は惨憺たるものだった。動画投稿を始めて半年、わずかな再生数と、荒らしやスパムのようなコメントばかり。ひび割れた心は、とうに限界を迎えていた。
それが、どうだ?
誰にも見向きもされなかった自分の動画に、今、世界中が注目している。夢見ていた光景が目の前に広がっている。
このまま人気が出たら、全てを奪い取ればいい。いや、奪う必要もない。元々これは俺の、狩野総一のアカウントなのだから。文句を言える奴などいない。
カーソルを配信中の動画に戻す。狂騒のようなコメントの波を眺めながら、歪んだ笑みがこぼれた。
◆
映像は、開始から変わらず静止した暗闇を映し出している。配信時間は既に一時間を超えている。それでも、コメント欄の文字は途切れることなく流れ続けていた。念のため、配信開始直後の映像を確認したが、特に変わった様子は見当たらなかった。
一体なぜ、こんな単調な映像にこれほどの視聴者が集まっているのだろう?
疑問を抱きながら、コメントログを遡る。一番古いコメントに辿り着いた。
送信者は……、reyco……。
コメントは、ただ一言だった。
【良く見える】
奇妙な既視感に襲われる。このコメントから間もなく、堰を切ったようにコメントが流れ始めた。しかも、映像の内容とはかけ離れた、意味不明な言葉ばかりだった。
もしかして、この配信は何かに悪用されているのではないか?
先ほどまでの高揚感は、薬の効果が薄れてきたせいか、急速に冷めていった。安易に喜んでいた自分が愚かしく思える。
最新のコメントまでざっと目を通す。冷え切った感情のまま画面を見ていると、すぐに最新のコメントが目に飛び込んできた。
また新しいコメントだ……。
うんざりしながらも、仕方なく内容を確認する。
【なんかずっと聞こえてない? お経みたいな、歌……、みたいな。私だけ?】
音など何も聞こえない。念のためヘッドフォンを装着し、PCの音量を上げた。
……、……、Di……、 iræ, ……、 illa……
今、何かが微かに聞こえた?
さらに音量を上げる。かすれた、小さな声が聞こえてくる。聞き取れないほどの微かな音に、最大限までボリュームを上げた。
【聞こえてるのって、これじゃない?】
最新のコメントには、URLが添付されていた。すぐにクリックすると、耳元で荘厳な歌声が響いた。
「うわっ――」
突然の爆音に驚き、ヘッドフォンを外す。ボリュームを調整し、再び装着すると、流れてきたのは外国語の歌だった。しばらく聴いていると、それがラテン語だとわかった。
「グレゴリオ聖歌……? Dies iræ,……」
曲名を見ても、全く見覚えがない。なぜ、こんなものが配信で流れているのだろうか。
再び配信画面に戻り、音量を上げて聴いてみる。確かに、同じようなラテン語が聞こえる気がした。先ほどと違うのは、男性の歌声ではなく、高い女性の声のように聞こえることだ。意識を集中させていると、ある違和感に気づいた。
さっきよりも、歌声がはっきり聞こえるような……
音量を下げてみても、声の大きさは変わらない。それどころか、さっきまでは聞こえなかった歌い手の息遣いまで聞こえる気がする。
新たなコメントが投稿された。名前は、reyco。最初にコメントした人物だ。
【良く見える。ありがとう】
「は……?」
文章の意味が理解できない。何に対しての感謝なのか、そもそも「良く見える」とはどういう意味なのか。
画面に映る部屋は、依然として暗く静まり返っている。
いや、違う。さっきと何かが変わっている。
畳の部屋に敷かれた絨毯も、奥の窓から差し込む微かな街灯の光も変わらない。
それでも違う。何かが確実に変わっている。一体どこが?
コメントがまた増えている。しかし、今は映像から目が離せない。ヘッドフォンからは、先ほどよりも鮮明になったラテン語の聖歌が聞こえてくる。
いつの間にか、暗闇に目が慣れ始めていた。部屋の隅々まで、はっきりと見えるような気がした。見渡すと、埃が薄く積もった場所が目に留まる。古い畳の、カビ臭い匂いに顔をしかめた。
あの絨毯の下には、染みがある。被害者の母親が首を吊った時の体液が染み付いているのだ。
貧しい母子が暮らした痕跡が、部屋のあちこちに残っている。
古いアパートが軋む音を立てる。隙間風もないのに、吊り下げられた電球の紐が微かに揺れる。
玄関の呼び鈴が鳴った。
とっくに電気は通っていないはずなのに、狭い部屋にけたたましく響き渡った。
窓の外の暗闇が、さらに濃くなった。街灯が何かで遮られたのだ。
すぐそこで、信じられないほど近い場所で、誰かの息遣いが聞こえる。
押入れの襖がカタカタと音を立てた。古い木片が剥がれ落ちるような音が、パタパタと聞こえる。
仕切られた向こうに、和室が見える。中央には、不気味な絨毯が一枚、歪な形で置かれている。
扉がゆっくりと揺れる。軋む音が耳障りだ。窓の外を、何かが横切った。畳は湿っぽく、足の裏にまとわりつくような不快な感触だ。
光が見える。何かが、こちらに近づいてくる。体が、腕が、足が、動かない。
近づいてくる……。いや、違う……。ずっと近くにいる。
それも、違う……。彼女は俺を通してずっと見てる
ずっと見られてる。ずっとここから動画を配信している、彼女の事を……。
「カ……コ、シマ……、レイ……」
震えながら、彼女の名前を呼んだ。
俺は、一体いつから、この部屋にいる……?