第三十二話 歪んだ真実の側面
ピークを迎えた通勤の人波を抜け、駅前から少し足を進める。帰路につく人たちとは逆方向に進みながら、表迫流美はスマートフォンに視線を向ける。
どうやら自分以外の面々は既に約束の店に到着しているようだった。返信代わりに頭を下げるキャラクターのスタンプを送り、肩掛けのバッグにスマートフォンを投げ入れる。真新しいパンツスーツはまだ体に馴染まず、どこかぎこちない。足早に目的の場所を目指した。
学生時代に何度も訪れたことのあるその店の周辺は、昔と少し変わっていたが、流美は迷うことなく辿り着いた。排気ガスで黒ずんだ赤い暖簾は、昔と変わらずそこにある。立て付けの悪いガラス貼りの引き戸に手をかける。鈍い音を立てて戸が開くと、狭い店内から活気のある渋い声が聞こえた。
「――いらっしゃい」
入ってすぐ正面に見えるこぢんまりとしたカウンターの向こうに、白髪頭の店主が見える。その風貌も昔と少しも変わっていない。
「すみません、待ち合わせで……」
流美はそう言って店内を見渡した。
四人掛けのテーブルが五つとカウンター席、テーブル席は全て埋まっている。相変わらずの人気ぶりだ。
「あっ、やっと来た。こっちこっち!」
入り口から一番遠い奥のテーブル席で、黒髪の女性が手を上げていた。
「遅くなってすみません。研修が長引いてしまって」
流美は呼ばれるままテーブルへ進む。体格の良い短髪の男性が、手前の椅子を引いて迎える。
「お疲れ様。ちゃんと新社会人って感じだな」
「当たり前じゃないですか。さすがにもう落ち着いてますから」
流美は男性に冗談を返すと、席に着いた。向かいに座った小綺麗なスーツ姿の別の男性が、メニュー表を差し出しながら口を開いた。
「就職おめでとう。流美は今日の主役なんだから、遠慮なく頼みな」
「ありがとうございます」
素直に感謝を告げると、奥の席に座った先ほどの女性が茶化したように笑っていた。
「おぉ? 急に大人ぶって、さすがは一流企業勤めの心翔くんかぁ?」
「ハハハッ! 確かに、杏莉の言う通り、今日の心翔は気取ってるなぁ」
「二人ともまったく……、何を言ってるんだか。そういう迅だって手堅い役所勤めじゃないか」
三人は冗談を言い合いながら笑う。既に何杯か飲み進めているのか、テーブルの端には空いたグラスがいくつか並んでいた。
「まあまあ、気を取り直して乾杯しよう。流美はビールでいい?」
「あ、生搾りグレープフルーツサワーのメガサイズで」
「うわっ、出た……、昔と変わらないなぁ。一杯目から時間がかかりそうなの頼むやつ!」
四人は再び笑い合った。
◆
まるで学生時代に戻ったように、流美の気持ちは懐かしさで満たされていた。
大学時代の先輩である三人は、流美の就職祝いと称して、今日の会を開いてくれたのだ。在学中、参加していたサークルのメンバーは、よくこの店で打ち上げ会を開いていた。
一見ぶっきらぼうな店主。それでも学生には無料で一品サービスしてくれたりと、同じ大学に通う生徒からは密かに人気を博していたのだ。
「というかさ、流美。あの男に、まだ何かされてたりするの?」
杏莉は大皿の料理を取り分けると、流美の前に差し出して言った。
「え……?」
あの男というのが誰であるか、すぐに察しがついた。しかし、私に連絡を取る事は絶対に出来ないはず。あのストーカー男は、警察から何度も注意を受けているはずだった。
「ああ、あいつの動画だろ? それ俺も見た。思わず低評価とアンチコメントしたくなったわ」
空いたグラスにビールを注ぐ迅が呟く。彼に同意するように、心翔が頷きながらビールを飲んでいる。
「下手したら俺たちのことも逆恨みしてるかもしれないし。むやみに刺激しない方がいいだろうね」
三人は苦い表情で話す。
なぜ今さらそんな話が出てくるのだろうか?
「あ、あの、動画って何の話ですか?」
思い出したくもないが、聞かずにはいられなかった。三人は再び難しい顔で見合わせると、誰かの溜め息を皮切りに語りだした。
「まだ流美のことを根に持ってるんだよ。退学した後、引きこもりになったのは聞いてたけど、最近は動画配信してるみたいでさ」
杏莉は自身のスマートフォンを取り出すと、しきりに指を動かす。
「しかも配信する時の名前にまだ使ってるらしいぜ、【狩野総一】って」
迅が小声でその名前を呟く。卒業する四年生の為に制作した映画の中で、あの男にあてがわれた役名だった。背筋が一瞬で凍りつくような寒気を感じる。
「まったく、本当に映画サークルの恥だよ。あの男……、色摩靑司はさ……」
色摩靑司。
その名前を聞いた途端、流美の顔は青ざめた。思い出しただけで吐き気がするような、気持ちの悪い彼の笑顔が一瞬で頭をよぎる。
「ちょっと、心翔! 流美、大丈夫?」
「あ、ごめん、つい……。というか杏莉、先にこの話題を出したのはお前だろ」
無意識に口を抑える自分を、三人は心配そうに見る。無理やり平静を装って首を振って見せた。
「だ、大丈夫ですよ。それより、なぜそんな昔の話が出たんですか」
迅と心翔は黙って杏莉を見る。苦々しい表情で杏莉は頭を下げて口を開いた。
「これなんだけどさ……、気分が悪くなったらすぐに止めるから……」
杏莉はスマートフォンを横にして見せる。そこには安っぽいCG背景の前に座る、あの男の姿があった。汚ならしい無精髭にボサボサな頭髪、最後に見た時と少しも変わっていない容姿に、また吐き気がこみ上げてくる。
「色摩靑司のターゲットは今は別に向いてるみたいだけど。この人って例の助けてくれたっていう、流美の叔父さんだろ?」
心翔は自分のスマートフォンで別の動画を再生していた。
「え、これって、凌平さん?」
おどけたように話す映像の人物は、流美の親戚、父の年の離れた弟であった。
「最後に色摩を捕まえたのって流美の叔父さんだったじゃん」
「そうそう、たまたま仕事の途中で追いかけられてる流美を見つけて助けてくれたんだよね」
そう、二年前のあの日。私は色摩靑司から執拗に迫られ、ついには後を追い回されていた。アルバイト終わりに駅へ向かっていたところを、色摩はずっと待っていたのだ。間一髪のところで色摩の存在に気付いた流美は、夜の新宿を必死に逃げ回った。道行く人々は奇異な目でそれを見ていたが、誰も助けてはくれなかった。大学生同士の痴話喧嘩とでも思ったのかもしれない。
あの時は助けを求める声も、恐怖のあまり忘れていた。歌舞伎町の雑踏を抜けてなんとか逃げ切ったと思った矢先、あの男は待ち伏せていた。必死に抵抗する私がもうだめだと思い目を閉じたその時、色摩は投げ飛ばされていた。聞き覚えのある優しい声が息をあげて名前を呼んでくれたのだ。
『――はぁ、はぁっ、流美、無事か?!』
後から聞いた話では、凌平叔父さんはその日たまたま接待で催されたパーティーに参加していたらしい。用事で会場のビルから出た叔父は、逃げ回る私のことをたまたま見て、追いかけたのだという。
「でも、それで大事な仕事がだめになって……。結局、凌平叔父さんは職場を辞めることになった」
それを知った流美は、何度も叔父に謝罪しに出向いた。しかし、叔父は「なんでもない」と笑顔で返してくれていた。父から聞いた話では、叔父は再就職先を探したものの、上手くいっていないらしいと知った。あんなに優しい凌平叔父さんに迷惑をかけてしまった自分が悔しくて情けなくて堪らなかった。
必死に私を守ってくれた凌平叔父さんを、あの男はまだ姑息に付きまとっている?
数杯飲んだアルコールのせいか今度は火照ったように、腹の底から怒りが沸いてくる。
「先輩……。色摩靑司が、今どこに住んでいるのか知っていますか?」
思わず口をついていた。いつの間にか右手にはフォークを握り締めている。
「ちょっ、待って、流美、あんた何言ってるの?」
「落ち着けって、まさか色摩靑司のところに仕返しに行くつもりか?!」
「杏莉、一旦動画止めて! 流美、僕らが悪かった、迅の言う通り一旦落ち着いて……」
三人が心配するように声をかけてくれるが、頭の中は既に煮えきっていた。
あの男、色摩靑司をなんとかしなきゃ。絶対に、許せない。
二年前は恐怖で何もできなかった。だけど今は違う。もう誰かに守ってもらわなくても、自分で決着をつける勇気がある。強がった笑顔を見せてくれた凌平の顔が目に浮かぶ。
「先輩、知っているんでしょ? 教えてください、あいつだけは絶対に許せない」
流美はフォークを逆手に握り締めたまま、立ち上がった。