第二十九話 狼煙
「それじゃあ、お疲れ様でした」
八月六日正午過ぎ、表迫凌平は溌剌とした表情でアルバイト先のコンビニを後にした。昼過ぎの日差しはジリジリと肌を焼き、ものの数秒で額は粟粒だった。炎天下にもかかわらず、呑気な学生の集団が騒がしく横を通りすぎて行く。
いつもなら嫌いな夏の暑さも、他人の楽しそうな声も、今日はまるで気にならない。凌平は柄にもなく鼻歌交じりでスマホを取り出すと、メッセージアプリを起動した。思った通り新着のメッセージが二件入ってた。
送信名を確認すると、凌平は迷わず一つを選択した。
「すげ……、本当に入ってる」
メッセージを確認すると、すぐにもう一件の方に画面を切り替える。送信名は【メラさん】、内容は見なくてもわかっていた。
適当な日陰を見つけると、すぐに返信を打ち始める。凌平の表情は既に、ひと目も憚らないまで破顔していた。
『収益金確認完了! この後いつものファミレスで』
返信を送り終え暗く変わったスマホの液晶に自分の顔が映った。自分でも見たこともないほど、充実した顔をしている様に思えた。
例の動画がバズった後、それまで見向きもされなかった配信に収益が出たのだ。とても大金とは呼べない額ではあるものの、この2ヶ月あまりの間に自分を取り巻く環境は一変した。
退職してフリーターになって、ずっと底辺で生きていくしかないと思っていた。バイト先で出会った同僚と始めた動画の配信も鳴かず飛ばずで、結局なにをしたって駄目なんだと卑屈になっていた。
だけど今、自分は初めて世間に認められた気がする。
ここが僕のターニングポイントだ。これまでの人生はきっとここから大逆転していくに違いない。
気持ちは更に高揚し、これまで微塵もなかった自尊心が生まれてきた気がする。凌平は思わず雄叫びを上げたい衝動に駆られたのだが、流石にまだそこまでの度胸はない。代わりに左手を力いっぱい握り締めて小さなガッツポーズを取る。
右手に持ったスマホが震えた。
メラさんかな?
相方もきっと喜びで震えているはず、きっと僕からの返信を待ち焦がれていたのだろう。
にやけ顔の凌平はスマホに目を落とす。
「あ……、え……」
高揚は一瞬にして冷たく変わる。
メッセージではなく音声着信。そして表示された名前は全く別の人物だった。
熱気が漂う街中の筈なのに背筋には冷たい汗が伝う。心臓が一瞬にして止まりそうな程、頭の中に衝撃が巡る。
電話を掛ける相手は前に勤めていた会社の年下の上司、瀬上だった。不快な脂汗が凌平の首筋を流れる。
◆
『ーー遅ぇよ、早くでろ』
スマホの向こうから荒ぶった声がした。反射的に凌平は身構える。
「は、はい……、すい、ません」
凌平は怯えながらも通話のボタンを押していた。絶対にでたくはなかったが、無視すれば後で何をされるかわからない。
一体、何の用だ……?
凌平は恐る恐る、震え声で応えた。苛立った瀬上の舌打ちが聞こえる。
『相変わらず気持ちの悪い声してんなぁ。退社した出来損ないに優しい元上司が気に掛けてやっているんだから、もっと喜べよな?』
「す、すいません。ありがとう、ございます」
一年半前まで在籍していたのは、表向きには健康食品を扱う会社であった。入社から数年、凌平はその会社でまじめに勤めていた。全てが変わったのは二年前に開かれた会社主催のパーティーからだ。あの日から瀬上を含む職場の人間は凌平を疎んだ。
お前の失敗のせいで会社に迷惑を掛けた。
退職するまで浴びせられた言葉と嫌がらせ。凌平の頭の中で苦痛の日々が生々しく思い出されていた。
『そんなことより、ザコ。お前動画配信なんてやってんだってな? しかも生意気に調子いいみたいじゃねぇの』
嫌味な薄ら笑いで勝手に名付けられたあだ名を呼ぶ、瀬上の得意気な顔が頭を過る。どうして知っているのかと、凌平は喉元まで声が出かかって止める。
『出来損ないのお前の面倒見てやったのは、誰だったか覚えてるか?』
面倒を見ただって? 実際は僕の終わった仕事を横取りしていただけじゃないか。反論したい気持ちとは裏腹に、口から飛び出したのは震えた声だけだ。
「あ……、せ、瀬上さん……です」
『そうだよなぁ。だったら少しは恩返ししてもいいんじゃねぇか?』
凌平は薄々、嫌な予感を感じていた。これ以上瀬上と話してはいけない。それでも一方的に通話を切ったら何をされるかわからない……。
『そうだよなぁ。なら少し位俺に恩返ししてくれよ』
「お、恩返し……?」
瀬上の声色は上機嫌に変わる。
『お前の動画配信で会社の商品紹介してくれよ。勿論、俺の薦めって文言も忘れんな?』
頭の中が真っ白になる。退職した今でも尚、瀬上は自分を利用しようと考えている。脂汗が止まらなくなる凌平はTシャツの裾で顔を拭う。
「い、いい、いや……、それは……」
それが凌平に出来る精一杯の抵抗だった。電話口の向こうからうむを言わさず声が響く。
『後でまた詳細送るから、ちゃんと恩返ししてくれよ』
唐突に切られた通話に凌平の心拍は暴れた。陸の上で呼吸の仕方を知らない魚のように、口がパクパクと勝手に動いている。ようやく手に入れたはずの自尊心が音もなく崩れる気がした。
「こ、このまま、じゃあ……、またあいつらに利用される」
凌平は滴り落ちる汗を拭うこともなく駆け出していた。
◆◆
駅前の賑わう方を通りすぎ、住宅街の手前にひっそりと佇むファミレスに到着した。呼吸はとっくに上がっていてグレーのTシャツは汗染みで色が変わっている。
中へは入ると若い女性店員が一瞬顔を歪めたが、すぐに壁際の四人席に通された。凌平は卓上のタブレットでドリンクバーを注文すると、すぐにサーバーのある場所へ向かう。逆さまに並んだグラスの一つを手にとると適当にボタンを押した。並々と注がれた緑色の炭酸飲料を一気に飲み干すとすぐに同じボタンを押す。同じ動作を三度ほど繰り返すとようやく喉の渇きはおさまった。
このままじゃあ、まずい。
凌平の頭はつい先刻の通話を思い出していた。瀬上に動画配信をしている事を知られた今、彼の要求を断ることは正直難しい。それでもこれだけは奪われるわけにはいかないのだ。
テーブル卓に戻った凌平は頭を抱えるように席に着いた。
メラさんが到着したら一先ず、相談してみよう。
かりそめの平静を取り戻そうとする凌平が注文用のタブレットに手を伸ばした時、唐突に名前を呼ばれる。視線をあげると慌てた様子の待ち人が立っていた。
「う、ウラちゃん、た、大変だっ」
長身の男はつぶらな一重目蓋を目一杯開いて叫ぶように声をあげていた。尋常ならざるその様子に思わず返す言葉に迷う。
「め、メラさん? いったいどうしたの」
細長い両手を騒がしく動かしながら、メラは語りだした。
「大変だ、僕らの配信が……」
「え?!」
瀬上とメラさんは面識はないはずだ。連絡先を知っているはずもない。凌平の思考は混乱しながらも冷静に分析していた。
大丈夫、自分のせいで迷惑を掛けたわけじゃない。言い聞かせるように何度も心の中で呟いていた。
「ど、どうしたの」
息を切らすメラに凌平は注いできた自分のコップを手渡した。彼は一息に飲み干すと、短い深呼吸を二、三度繰り返していた。
「ウラちゃん、ありがとう……。と、とにかく、これを見てくれよ」
彼はスマホを取り出して画面を叩く。大ぶりな液晶画面を横向きにすると、凌平に向けて見せた。
「……【realfile 新宿公園殺傷事件、あの動画の真実話します 空色サイファー】え、これが一体どうしたの……?」
「どうしたもなにも、この配信を見た人たちが炎上してるんだよ! 僕らの動画配信に対して、大炎上なんてもんじゃない」
「ええ?!」
凌平は動画の再生マークを叩く。短いテロップに続いて、それは始まった。