第二十五話 七月二十八日
その日はやけにマンションの外が騒がしかった。普段なら気にならないはずのカラスの鳴き声が朝から鳴り響いている。
リビングの大きな窓から、怜衣は外を見下ろしてみる。薄曇りの空に鳥達の姿は見えない。
梅雨明けから続いていた刺すような日差しは今日の曇り空で終わりはしたものの、代わりに蒸し返すような不快な湿度が充満している。温度も湿度も感じない幽霊のはずなのに不思議と理解している自分を妙に思っていると、カウンターキッチンの向こうから羽仁塚の呼ぶ声が聞こえた。
声のする方へ向かおうと振り返った時、目の前には思わぬ人物が立っていた。
「……ッ、釉乃さん!?」
両手を広げて笑顔で手を振る釉乃は、再会を喜ぶように飛び付いてきた。
「レイちゃん、久しぶりね。元気だった?」
「元気です……、ってもう幽霊だから元気もなにも……。そんなことより釉乃さん、いままで何処に行っていたんですか?」
怜衣の問いかけに彼女は曖昧な表情を浮かべて微笑んだ。
「ちょっと野暮用でね……。それより、レイちゃん。はいこれ、お土産」
「お土産って……」
肩にかけていたショルダーバックから、釉乃は何かを取り出して差し出す。反射的に両手を出す怜衣は、手渡されたモノを見て驚いた。
「これって……、私の使ってたスマホだ?!」
ピンク色のカバーが着いた古い機種のスマートフォン。それは間違いなく生前の怜衣が使用していたものであった。
「用事の合間で持ち帰ってきたの。残念だけど他はあんまり残ってなかったの、それだけでごめんね」
「そんな……、そんなことないです。ありがとうございます」
怜衣はスマートフォンの電源を押す。立ち上がりの遅い液晶画面はゆっくりと明るく変わると、二人の女性の写真が映し出された。
「私の部屋、全部整理されちゃったから、お母さんとの写真もスマホにしか残ってなかったから……」
画面上の女性の一人は怜衣であり、そのとなりではにかむ女性はよく似た顔をしていた。
「お母さんも美人だったんだ」
液晶画面を覗き込む釉乃は微笑んでいた。
「もう思い出の中でしか会えないと思ってたのに……。本当に、ありがとうございます」
感謝を口にすると、大事そうにスマホを胸に抱いた。
「スマホを取り返す途中に色々と書き換えてきたの。レイちゃんの秘密もこれで公にはならないはずよ?」
「書き換えたって……」
「まあ、細かいことは置いといて……。一先ず、これでカシマレイコさんの条件は整ったわ。これからが本番だよ」
「……じょ、条件?」
釉乃は深く頷くと、意味深な笑みを浮かべた。
◆
釉乃の帰宅を羽仁塚へ伝えると、彼女はまたお祝いだと行ってキッチンに消えていった。騒がしい羽仁塚に呆気に取られる怜衣は、思い出したように釉乃に尋ねていた。
「あの、さっきの話ですけど……」
キッチンに立つ羽仁塚に向けて声をかける釉乃は、怜衣の呼び掛けに気づいて振り返る。
「あ、それはそうと。私のいない間、ちゃんとカシマさんの活動していたみたいね」
「え……、い、いや、何もしてません」
「隠さなくてもいいのよ? 動画共有サイトで顔を出すなんて、レイちゃんもかなり大胆な事するわよね」
釉乃は自分のスマホを取り出すと、画面を向けてきた。表示されていたのは動画共有サイトのメインページで、サムネイルの映像がずらりと並んでいた。
怜衣は訳も分からず一番上に表示されていた動画タイトルに目を向けた。
「……、何これ?!」
でかでかと記された文字列に声を挙げて驚いてしまう。表示されたページの動画にはタイトルに同じような言葉が並んでいる。
「何って、レイちゃんが映ってあげた動画にオカルト好きが群がってるのよ。元ネタは……、あった、これこれ」
画面を切り替えると見覚えのある二人の男が映っていた。撮影場所は、新宿のとある公園。
「この人達……」
怜衣の頭に数週間前の出来事が思い出される。あの日、動画撮影をする二人の男性に拝まれた怜衣は感謝を返した。その動画はそのまま公開され、瞬く間に広まっていたのだった。
「よくこんなに上手く映り混めたね。映像に残るのってなかなか難しい事なのよ?」
「いや、これはただ、感謝を表したと言うか……」
動画の後半部分、固定されていたカメラが突然動く。誰かが持ち上げたカメラはゆっくりと方向を替えると、突然、画面いっぱいに暗転した。
ぼんやりと白く変わる映像は次第に鮮明に何かを捉える。それが人の口元だと解るのは、動いた唇とその向こうに微かに見えた白い歯列のせいだった。
音声は入っていない。それでも唇が動くのがハッキリと解る。声のない言葉は発音しているように見えた。
時間にして僅か二分にも充たない短い映像。しかし、ホラーマニアの妄想を掻き立てるのには充分すぎたのだ。
「呟きに声が無いところがまた良いわね。最後、なんて言ってたの?」
「あ、いや、声までは、ただ入らなかっただけで……」
動画の関連とコメントに目を落とす。様々な人達が呟いた言葉を特定しようと仮説を挙げている。
「この動画のお陰でだいぶ噂が拡がってるの。あれを見て本格的に動画のネタにしようと動き回ってる人達もいるみたい」
関連する似たような動画を見て、軽率な自分の行動を反省してしまう。これ以上注目を集めたくはない。このまま放っておけば人の興味などすぐに風化して行くはずだ。怜衣は苦虫を噛みつぶしたような顔でスマホをにらんだ。
「それでね……」
釉乃はまた何か企んだように口角を上げていた。次に言われるであろう言葉に察してしまう、間違いなく嫌な予感がしていた。
「これだけネタにされているのだから、少しは見返り貰わなくちゃよね?」
「釉乃さん、もしかして……」
いつのまにか険しい表情に変わっていた怜衣の前に、彼女はスマホの画面を向けて言った。
「安心して? こちらから、もう牽制は利かせてあるから」
液晶画面には配信者の専用チャンネルのページが映っている。仏像のような神々しいプロフィール写真の横に記してある名前を、怜衣は自然と読み上げていた。
「そ、空色サイファー……?」
「空色サイファー。複数人で構成されたそこそこ名の売れた配信グループみたいよ。さて……、私の載せたコメントで、上手く誘いに乗ってくれるかしら?」
釉乃はまた意味深に微笑んだ。