第二十二話 六月十日 part2
『さあ、始まりました』
茂みを背景に、丸みを帯びた体躯の男が朗らかな声を響かせた。
『低速コンビ裏目ちゃんの時間です。どうもご存知のウラです』
陽光に照らされた緑を背に、ウラと名乗る男はその見た目からは想像もつかないほど高い声で、どこかユーモラスにカメラに向かって佇んでいる。
『ウラちゃん、今日は随分のどかな場所での撮影だね』
レンズ越しにウラを見つめる、長身のもう一人の男が穏やかな声で合いの手を入れた。
『ちょっと、ちょっとぉ。今日は凄く真面目な動画だからね、気合い入れて撮ってよねメラさん』
二人はまるで息の合った漫才コンビのように、わざとらしい芝居じみたやり取りを繰り広げている。その滑稽な光景をすぐ近くで見ていた鈴那は、退屈そうに大きな欠伸をしながら呟いた。
「なんや、あんましおもろなさそうやね」
「鈴那ちゃん、勝手に盗み見てるのに失礼だよ」
「ええやん。どうせ聞こえてへんやろし」
幽霊である自分たちの存在を、この陽気な男たちは認識できない。それでも、鈴那よ言葉に怜衣はどこか後ろめたさが滲んでいた。
その時、カメラに映るウラと名乗る男が先ほどまでの軽妙な態度から一転、神妙な面持ちで語り始めた。
『今回はタイトルにもあった通り、未解決事件Xについて僕らなりに真相に迫ってみたいんですよ。今年の五月、この場所、勘の良い視聴者さんならすぐ解ると思います』
カメラをしっかりと構えるメラと呼ばれた男が、間髪入れずに相槌を打つ。
『そうだった。あの事件かぁ……。正直、謎が多すぎるよね。犯人は勿論の事、被害者の方も不明な点が多すぎるんだよなぁ』
首をわずかに傾げた鈴那が、隣に立つ怜衣を見る。同じように首を捻って見せた怜衣の表情には、かすかな疑問の色が浮かんでいた。
『あの事件について今ネットなんかでも色々と考察されてるけどさ、僕ね、一つだけどうしても許せない事があるんだ』
『ウラちゃん、今日はやけに熱いね。で、その許せない事というと?』
『実はさ、被害者の女性R.Kさんと一度だけ会った事があるんだ』
『ええっ、それ、本当?!』
二人の男はいささか大げさな身振り手振りを交えながら、撮影を進めている。その様子をぼんやりと眺めていた怜衣の心に、ふと小さな波紋が広がった。
「事件……、被害者……。あ、それって私の事かも」
鈴那が興味深そうに身を乗り出す。
「へぇ? レイちの話なん?」
「うん。そういえば私が刺されて死んだ場所、この近くだった気がする」
鈴那は目を丸くして怜衣を見つめた。
「ちょっと、待ってや、刺されたて!? レイち、そんな壮絶な最後やったん?!」
鈴那の騒がしい問いかけを背に、カメラの向こうの男たちが動き出した。何か惹かれるものに導かれるように、怜衣は二人を追いかけるように走り出していた。
◆
公園の中を移動しながら男たちは時折足を止め、同じような調子で撮影を続けていた。ウラは事件の内容から、当日の曖昧な天候、肌を撫でる風の温度といった、細やかな情報を言葉に乗せていく。
男たちの語る言葉に耳を傾けるうち、怜衣は記憶の奥底に眠る、あの夜の断片的な光景をぼんやりと思い起こしていた。冷たいアスファルトの感触、不気味な静けさ、そして突然の激しい痛み……。
「ねぇ……、ねぇってば!」
耳元で鈴が鳴るような大きな声が響き、怜衣は反射的に振り返った。眉を八の字に寄せた鈴那が、堰を切ったように言葉を投げていた。
「このおっちゃん達の言うとることほんまなん? レイち、そんなえげつない目にあったん?」
「ま、まぁ。大体は……、この人達の言ってる通りかな」
実際、男たちの説明は核心には触れていないものの、事件の輪郭をなぞるように遠からずも近からずといった内容だった。事件の詳細について、怜衣自身も鮮明な記憶を持っているわけではない。情報の少ない怜衣自身の説明は、どうしても曖昧なものにならざるを得なかった。
『僕が知っている彼女はとても優しくて、とても人から恨まれるなんて想像できないんです』
ウラは訴えかけるように身振り手振りを交え、熱のこもった口調で語り続ける。あまりに真剣な彼の姿に、怜衣の表情は自然と曇っていった。見知らぬ人に、まるで親しい友人のように語られる自分の姿は、どこかこそばゆく、そして現実味のないものに感じられた。
「ほんまにこのおっちゃんら、知り合いなん?」
鈴那も訝しげな表情で尋ねてくる。そもそも、怜衣はこの二人を全く知らない。否定しようと口を開きかけた時、突然、ウラは堪えきれなくなったように、涙声で語り始めた。
『グスッ……、本当はね、僕もあんまり詳しくは知らないんですよ。だけど、一度だけ悩みを聞いてくれた事があったんです。たった、それだけなんですよ。でもね、その時の彼女に言われた言葉で、僕は前に進めたんです』
『ちょっと、ウラちゃん、急に泣き出さないでよ。あー、詳しい裏話は概要欄に載せるので……、一先ず撮影を続けよう』
カメラを下げたメラは、肩を落とし、すすり泣くウラを困ったように慰めていた。二人の温度差のあるやり取りが、かえってウラの悲しみを際立たせているようだった。
「……思い出した。私、ここでこの人と会ったことあるかも。その時もこのウラって人がベンチに座って泣いてたんだっけ」
それは、怜衣がアルバイトを早上がりさせられた日のことだった。予定が狂い、仕方なくこの公園で別のアルバイトを探していた時、近くのベンチでひっそりと咽び泣く男が目に飛び込んできたのだ。
「どうして泣いてるのかって聞いたら、この人、職場で嫌がらせされて居場所がないって言ってたんだ」
正直なところ、初めは面倒事に巻き込まれたくないと思い、怜衣はその場を立ち去ろうとした。しかし、小刻みに震える彼の指先が、握り締めているのを見て気が付けば声を掛けてしまっていたのだ。
『僕ね、あの時は本当に苦しくて、人生終わってしまった方がいいのかなって本気で考えてたんだ。だけど、今一歩のところで勇気が出なくて。そしたら彼女が声を掛けてくれたんです、大丈夫ですかって』
見ず知らずの大人の男が人目も気にせず泣きわめいている姿に、その時の怜衣はかなり動揺した。それでも、自分の命を自分で終わらせようとする彼の姿は、どうしても亡くなった母の姿と重なり、憐れみを覚え見捨てる事ができなかったのだ。
『彼女、親身になって僕の話を聞いてくれて。そのお陰で僕はまだこうして生きてる、だから、彼女は僕の命の恩人なんですよ』
見覚えのある泣き顔をぐしゃぐしゃにして、ウラは恥ずかしげもなく嗚咽を漏らしている。その姿は、どこか滑稽でありながらも、真剣そのものだった。
「随分慕われとるなぁ……」
「そんな大袈裟な事はしてないはずなんだけど……」
崩れ落ちるように泣き続ける男の姿に、怜衣は隣の鈴那と顔を見合わせた。ここまで感謝されるほど、何か特別な励ましの言葉をかけた覚えはなかった。ただ、少しだけ話を聞いて、大丈夫だと声をかけただけだったはずだ。
「まぁ、恨まれるよりはええんとちゃう?」
「た、確かにね」
二人は、複雑な感情が入り混じったような、微妙な笑みを浮かべて男たちを見つめていた。
『あー、ほらほらウラちゃん。肝心の撮影しないと。ずっと泣いてたら日が暮れて来ちゃうよ』
再びカメラを構えたメラは、いつもの明るい調子でウラに話しかけながら、撮影を再開しようとしていた。顔を拭い、深呼吸をしたウラは、再びいつものような、どこか芝居がかった口調で話し始めた。
『……という事なので、僕らは被害者の追悼の気持ちをこの動画にまとめる事にしたんですよ。一刻も早く犯人が逮捕される事、そしてなによりも、彼女が安らかに眠れるよう黙祷を捧げたいと思います』
メラはカメラを三脚に丁寧に設置すると、背後の茂みにレンズを向けた。二人の男は、カメラが捉えているであろう前で、静かに両手を合わせた。
いつの間にか、傍らには白い煙を細く立ち上らせる線香が焚かれていた。どこか懐かしい、優しい香りが、夕暮れの空へとゆっくりと漂っていく。
「……おっちゃんら、ええやつやん」
「うん……。自分の事を祈られるなんて、なんか、変な感じだね。なんだろう、ムズムズする」
茂みに向かって跪き、静かに目を閉じ、手を合わせる男たちの姿に、怜衣の胸には不思議な温かいものがじんわりと広がっていくような気がした。見ず知らずの他人が、自分のために祈ってくれる。それは、生前の怜衣には決して経験することのなかった、特別な感情だった。
『――ちょっと君達、こんなところで何しているの?』
男たちの様子を静かに見守っていた怜衣と鈴那の背後から、突然、威圧感のある低い声が響いた。振り返るとそこには自転車を押した制服姿の警察官が、訝しげな目を細めて男たちを睨んでいた。夕焼けを背にした警察官の姿は、どこか影のように見えた。
『公園で火遊びなんて駄目だろう。それにそのカメラ、ちょっと話し聞かせて貰えるかな』
『あ、いや、僕らは、別に……』
警察官は有無を言わさず二人を立ち上がらせると、鋭い視線を向け怪しんだ様子で問い詰める。慌てた様子の男たちは、なんとか誤解を解こうと必死に言葉を紡ぐものの、突然の出来事に頭が真っ白になったのか支離滅裂な言葉しか出てこない。
隣に立つ鈴那と目が合うと、怜衣は思わず吹き出してしまった。真剣な顔で、しかしどこか的外れな言い訳を繰り返す男たちの姿は、滑稽で、そして少しだけ愛おしくもあった。
「なぁ、レイち。おっちゃん達に少しはお礼してやってもええんちゃう」
鈴那はそう言うと、三脚に置かれたままのカメラを指差した。その瞳には、いたずらっぽい光が宿っている。
「そうだね。誰かに拝まれるなんて初めてだったし、素直に嬉しかった」
怜衣はゆっくりと男たちに近付くと、そっとカメラに手を伸ばした。ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わる。
三脚ごと持ち上がったカメラのレンズをゆっくりと自分の方に向けると、感謝の気持ちを込めて、小さく言葉を呟くのだった。「ありがとう」