第二十一話 六月十日 part1
六月十日月曜日。ホストクラブでの騒がしい一件から、まるで遠い昔のように一週間が過ぎようとしていた。相変わらず地に足の着かない、幽霊とも言い切れない曖昧な生活を送っている。
「どうしたらいいんだろう……」
静かな自室で、誰に届くでもない悩みを呟く。何も変わらないように見える日常は決して普通のそれではないことだけは、はっきりと理解していた。
『私はこれから少し調べ事があるから。レイちゃんは私が戻るまでの間、カシマレイコとして活動していてね』
七日前、釉乃は唐突にそう告げると、煙のようにふっと姿を消した。あれから、彼女はこの部屋に一度も戻っていない。漠然とした釉乃の言葉を何度も反芻してみるものの、怜衣にはその真意がまるで掴めなかった。
「ちょっとその辺、散歩してきます」
重い扉をすり抜けながら言い放つ。背後から、間の抜けた家主の声が聞こえた気がした。
誰にも聞かれないように、深くため息をついて、怜衣は部屋を後にした。
◆
地上二百メートルを超える巨大な二股に分かれたビルをぼんやりと見上げながら、怜衣はあてもなく歩いていた。
時刻は正午を過ぎた頃。強い日差しがアスファルトを照りつけ、行き交う黒や紺のスーツ姿の人々がまるで流れ星のように目の前を通り過ぎていく。彼らの足音と車の騒音が混じり合い、どこか遠い世界の音のように聞こえた。
「カシマレイコとしての活動って……。いったい何をすればいいの?」
宙に漂う、所在のない死者の独り言は、忙しなく行き交う生者たちの耳には届かない。
「都市伝説【カシマレイコ】」
釉乃にその言葉を聞かされてから、インターネットで自分なりに調べてみた。しかし、調べれば調べるほどその存在は掴みどころがなく、まるで霧のように曖昧で自分がその名前と結びつくなど、想像もできなかった。
「そもそも、都市伝説になるって、そんなことどうやって……」
心の中で何度も同じ問いを繰り返す。考えるほどに、怜衣の顔は自然と下を向いていた。
もともと、深く考えることは苦手だった。面倒なこと、難しいことは避けてきた。深く考える習慣など、これまで一度もなかったのだ。自分のこと。周囲のこと。世界のこと。いくら頭の中で様々なことを巡らせてみても、結局何も変わらない。そんな風に思っていた。
母と二人で暮らした、古びたアパートの小さな窓から見えるいつも変わらない灰色の空。あの頃から自分は所詮その程度の、ちっぽけな存在なのだといつも自分で結論付けていた。
「はぁ……」
また一つ、重い溜息がこぼれ落ち、所在なく見上げた薄曇りの空。
『――ワッ!』
その視界は、思いもかけないもので突然遮られた。驚きのあまり、思わず間抜けな声を上げてしまう。
「びっくりした? レイち、こんな所でどしたん」
「り、鈴那ちゃん?!」
目の前に突然現れたのは、無邪気で明るい笑顔だった。宙にふわりと浮かんだ鈴那は、興味深そうに首を傾げ怜衣の顔を覗き込んでいる。
「道の真ん中でぼーっと止まっとる人が見えたから、誰やろと思って近付いてみたらレイちやったからホンマにビックリしたわ。一体何しとんの?」
「びっくりした……。あ、ううん。全然、大したことじゃないんだ」
「ほんまに? めっちゃ辛気臭い顔してたで」
「そ、そうかな」
訝しそうにじっと見つめてくる鈴那に、怜衣は居心地が悪くなり思わず視線を泳がせてしまう。
「幽霊の悩みなんて、生きてる人には絶対分からへんもんやし。それに、ウチら友達やろ?」
鈴那は少し眉を寄せ、わざとらしく寄り目をすると、ぷうっと頬を膨らませた。そのおどけた表情に、怜衣は思わず吹き出してしまう。
「お? 初めてレイちにウケた。ほら、遠慮せんと、何でも話してみ」
屈託のない鈴那の笑顔に、怜衣の肩からすとんと力が抜けていくのを感じた。
温かい気持ちが胸に広がる。元気付けてくれた彼女に感謝を告げると、怜衣はこれまでの経緯を辿々しく語り始めた。
◆◆
「なるほどねぇ……」
鈴那は両目を閉じ、まるで難解なパズルを解くように、深く唸っていた。
新宿中央公園へと場所を移した二人は、木陰の片隅に置かれた古びたベンチに並んで腰を下ろした。
正午の公園には、まばらに人の姿が見える。木漏れ日が地面にまだら模様を描き、時折吹く風が葉を揺らし、かすかなざわめきを運んでくる。
「うん……。あれから釉乃さんも全然帰ってこないし、鈴那ちゃん、私はこれから一体どうしたらいいと思う?」
「せやなぁ……。もしウチやったら、とりあえず何か行動してみるかなぁ」
「行動って?」
鈴那は可愛らしい眉をひそめ、顎に手を当てて、真剣な表情で考え込んだ。そして、何かを思いついたように立ち上がると小さくため息をつき、首を横に振った。
「うーん、具体的にどうってのは、まだ上手く言えへんのやけど……。とりあえず、カシマレイコの話に出てくる場所をいくつか調べてみようか」
「カシマレイコの話……?」
怜衣は数日前にインターネットで調べた、【カシマレイコ】に関する様々な情報を思い出していた。断片的な情報ばかりで、どれもこれも曖昧で、いまいちピンと来なかったのだ。
「せや。都市伝説って、ほんまに色んな話があるやん。時代も場所もバラバラやし、そこに現れる理由も、きっと色々あるんとちゃうかな。やから、どこでどういう風に人を怖がらせるかを、ちゃんと考える必要があるんやあれへん?」
鈴那の言葉は具体的ではないけれど、なぜか妙に納得できた。
「たしかに……、言われてみたら、そうかも」
「カシマレイコさんの都市伝説って、いくつかパターンがあるのはウチも知っとるけど、どれも結構フワフワした感じに聞こえへん? やから、きっと釉ねぇは、その辺をちゃんと固めろって意味で言うたんちゃうかな」
鈴那は先ほどまでの明るい表情から一転、真剣な眼差しで怜衣に語りかけた。
「そしたら、行動は早いに越したことはあれへん。これからすぐにでも、その場所に向かおう」
「え!? 向かうって、一体どこに……」
鈴那の表情が、みるみるうちにいたずらっぽく変化していく。
「えっと、なんやったっけ……。あ、あそこや、あそこ。東京……スカイツリー!」
「……? それってどっち? 東京タワー、それともスカイツリーのこと?」
「それそれ! ウチな、まだ東京に来てからまともに観光してへんねん。どっちも行ったことないから、ごっちゃになってもうた。せっかく東京におるんやから、いっぺんくらい見てみたいやん?」
恥ずかしそうに笑う鈴那につられるように、怜衣の顔にも自然と笑顔が広がっていた。
「鈴那ちゃん、もしかして、ただ観光したいだけ?」
「へへへ。バレたか」
いつの間にか、怜衣の心は軽くなっていた。あれほど悩んでいたことがまるで嘘のように感じられるほど、温かい気持ちが胸いっぱいに広がっていくのだった。
「ん? ねぇ、レイち。あれ見て、あれ」
「え? あれってどれのこと?」
鈴那が指さした指の先。生い茂る緑の木々の前に、二人の男性が立っているのが見えた。
茂みを背景に丸々と太った眼鏡の男が、誰にともなくぶつぶつと独り言のように口を動かしている。
その向かいに立つ長身の男は、何か黒い機材のようなものを構え、真剣な表情でそれを見つめていた。
「あれってさ、なんかテレビの撮影とか、そんなんちゃう? ちょっとだけ近付いて見てみようや」
「ちょ、ちょっと。勝手にそんなに見るなんて、悪いよ」
「大丈夫やって。どうせウチらの姿、あのおっちゃんらには見えへんし」
「あ……、そっか。いや、でも、やっぱりなんだか覗き見みたいで気が引ける……、って、鈴那ちゃん、ちょっと待ってよ!」
好奇心旺盛な鈴那を追いかけるように、怜衣も男性たちのいる方へと駆け出した。




