第二話 人魂と面影
キラキラ輝く初夏の太陽は、これから始まる一日の温度をゆっくりと暖めてゆく。正確な時刻はわからないが、世話しなく動く街の様子から朝旦であることだけは確かだ。
いつもと変わらない静かな朝の公園で、いったい今、私は何に捲き込まれているんだろうか?
現状が呑み込めない怜衣の思考は、言葉を失くしたまま固まっていた。それでも変わらずに微笑みを向けてくる甘美な香気を漂わせた女性は、幾度となく声を掛けてくる。何を話しているのか理解が及ばない。怜衣はただただ小さな手鏡に投影された青白い球体を見つめていた。
「ーーでさ……。って、ちょっとちょっと、聞いてる?」
「あ、は、はい」
「いきなりこんな事を聞かされたら無理もないか……。ひとまず、深呼吸でもして落ち着く?」
「はぁ……」
女性は大きく伸びる真似をすると、気持ち良さそうに空へ息を吐いた。些細な彼女の仕草に、またフワリと香気が漂う。一瞬呆けた怜衣は、やっと思い付いた言葉に口を開いた。
「あの、あなたは……誰、なんですか……?」
怜衣の呼び掛けに気が付くと、女性は向き直して顔を近付けてきた。
「そういえば自己紹介がまだだったね。私の名前は信楽釉乃。よろしくね、えっと……あなた、名前は?」
釉乃と名乗る女性は困ったような微笑みで尋ねていた。思わず頭を下げてしまう怜衣は答える。
「わ、私は神子島怜衣です。あの、信楽さんはどうして私のこと見つけられたんですか? だってあなたの話だと、今の私って所謂その、幽霊って事でしょ……」
躊躇いながらも言った自分の言葉に恥ずかしくなる。冷静に考えて、自分はいったい何を口にしているのだろう。
「釉乃でいいよ? 私はレイちゃんて呼ぶからさ」
フランクな彼女の返答に怜衣は少し戸惑った。
「見えるも何も、私もレイちゃんと同じ存在だからだよ?」
「え……同じって」
「だから、私も幽霊って事。こっちの世界では少しだけ先輩よ?」
「釉乃……さんも、ゆ、幽霊……?」
しゃがみこんだ釉乃は顔に落ちる綺麗な髪を耳に掛けて続けていた。
「レイちゃんはまだこっちの事がよく解ってないようだから、良かったら私が教えてあげるよ?」
「は、はぁ」
胸を張った釉乃は、ワザとらしく胸を叩いていた。たいして怜衣の心には依然として不安以外の感情が浮かんでこないのであった。
◆
「あの……釉乃、さん」
「そんなに畏まらなくていいのよ? 呼び捨てでも、親しみ易くつーちゃんでもいいし。気軽に呼んでくれると嬉しいな」
「いや、だって、絶対、歳上だろうし……」
怜衣は言い淀んで言葉を呑み込む。
「あら、そうなの? たしかに今のレイちゃんは人魂だから、本当の姿がどんなかはわからないわね……。まあ、でも、たとえどんな姿であっても年齢なんて概念はあんまり関係ないと思うよ」
釉乃は手鏡を自身の方へと向けると、乱れた髪を直すように何度も角度を変えてそれを覗く。
「だって私達、もう生きてないじゃない? 未来永劫、歳なんて取らないの。皺も弛みもシミも、女の子の悩みの大敵は全部消えちゃいました!」
子供のように両手を上げて喜ぶ彼女に対して、怜衣の表情はひきつっていた。目の前で能天気にはしゃぐ大人の女性の姿に、心の隅に隠していた黒い感情が少しだけ顔を出す。
こんな気楽に生きられる人もいるんだ。きっと生前から色んな物事に恵まれていたのかな……。
「おやおや? どうした、どうした。何か聞きたいかんじ?」
彼女に心を読まれてのかと思い、怜衣はビクリと身体を揺らした。揺れる人魂を見据えて、釉乃はまた微笑みながら問い掛けてくる。
「ひょっとして、レイちゃん。死んじゃった事をけっこう悔やんでるかんじ?」
「いえ……別に」
悔やんでいる……? そんなわけないじゃない。あんな下らない人生なんて、もう二度と送りたくないわよ。
喉元までで掛かった言葉を呑み込む。変わりに当たり障りのない、聞きたいことを尋ねた。
「私がもう死んでいるなら……、その、成仏とかすれば完全に消えてしまえるんですか?」
釉乃は少し考えた後、真顔で答えた。
「……。うん、出来るよ」
「それって、どうやったらいいか知ってますか? 出来れば簡単に、すぐにでも出来る方法とか……。お寺とか行ったらいいですかね? それとも御経とか聞いて、線香立ててーー」
怜衣は思い付くままに彼女に尋ねる。それは決して心から浄化されたいわけでもなく、ただ、この流され続ける運命に嫌気がさしての言葉だった。
とにかく消え去ってしまいたい。誰の目にも止まらない場所で、誰にも気付かれないままに、存在ごと無かった事にしてほしい。
だって、これまでだって誰も助けてなんてくれなかったじゃない。頼れる人なんて、親でも、友達でも、所詮は全部が他人だ。人間なんて皆、自分の事しか考えない連中ばっかりだ。
怜衣のこれまで抱いてきた感情は、十九年間とさして長くも短くもない時間の中で完全に腐っていた。寂しさはいつからか激しい嫉妬に変わり、嫉妬はやがて煮え立つような憎悪へ変貌していた。
はじめから解っている。刺されて死んだのだって、結局は私が原因だ。それでも誰かを利用して、搾取しなければ生きてこれなかった。
何が悪いの? 私は当たり前の事を願って行動してただけ……。それを否定されたら私はいったいどうしたらいいのよ!?
腹の底から憎しみが膨らんでくる。剥き出しになりそうな感情を堪えていると、思いもしない言葉が耳朶を打った。
「へー、そんな顔しているんだ。想像してたよりずっと可愛いじゃん」
「は……?」
声のする方へ顔を向けると、釉乃は手鏡を再び怜衣に向けていた。
「これ、私だ……」
手鏡には確かに生きていた頃の怜衣が映っていた。人魂ではないシルエットは嫌という程毎日向き合っていた顔だった。艶のある細い黒髪が朝のぬるい風に漂う。
二度と見たくもないと思っていたその顔は、小さな鏡の中で瞳を潤ませている。黒目がちの大きな目も、小さな丸い小鼻も想い出の中の母とよく似ている。全部嫌いだったはずなのに、自然と流れた涙に怜衣の感情は関を切ったように溢れ出ていた。
「そんな表情したまま成仏なんて、私だったらとてもじゃないけど出来ないと思うなぁ……」
釉乃はまた優しく微笑んだ。泣き崩れる怜衣の肩に触れると、彼女は立ち上がって口を開く。
「これから先の事は、まず、その姿に戻ってから考えてみない? 私も協力するからさ」
気が付くと鏡の中の怜衣は人魂の姿に戻っていた。揺れる青い焔が止めどなく流れる涙のように揺れるのだった。