第十八話 一つ増える
怜衣は口をあんぐり開けて見上げた。四十畳のリビングが、まるで夢の中に迷い込んだかのような、非現実的な光景だった。天井から吊るされた無数の色とりどりのリースが、まるで星空のようにキラキラと輝いている。小さなパーティー会場の様変わりした羽仁塚のマンションに、怜衣は息をのんだ。
「ちょっと、レイ子ちゃん、そんなとこに立ってないでこっちに座りなさいよ」
「は、はい。これ、全部ハニーさんが飾り付けたんですか?」
遅れて到着した釉乃も一変した部屋を見て声をあげる。
「凄く素敵ね。さすがハニーちゃん、感性が良いわ」
釉乃に誉められて気を良くしたのか、羽仁塚は顔を紅潮させながら、少女のように照れ笑いを浮かべた。
「二人が出掛けてる間に仕上げておいたのよ。私はここから動けない地縛霊だから、せめてこれくらいの事はね?」
羽仁塚はそう言うと天井に向かって指を鳴らした。彼女の合図で七色のミラーボールが輝いた。
「すごっ……、ハニーさんあんなモノまで用意してくれたんですか」
「当たり前じゃない。なんたってレイ子ちゃんの都市伝説デビューのお祝いですもの。でも安心して? 本物の都市伝説に成れたら、お祝いはこんなもんじゃないからね」
「都市伝説デビューって……」
胸を張る羽仁塚に怜衣の唇がわずかに弧を描いた。硬く閉じていた心が、ほんの少しだけ解け始めたように感じた。
「そうね。昼間の仕切り直しも兼ねて、今夜は盛大にお祝いしましょ!」
釉乃は嬉しそうにワイングラスを手渡す。苦笑いを浮かべながら、怜衣は二人の顔を見つめた。
「それじゃあ、レイちゃんが元の姿に戻れた事を祝して……」
「ちょっと、ちょっと、おつやさん。都市伝説デビューも祝して!」
「か、乾杯」
三つのグラスが優しい高音を奏でる。
初めて口にするワインの味は、正直よく解らなかった。それでも楽しそうに笑う二人の幽霊を見て、いつしか怜衣もつられて笑っていた。
◆
ダイニングテーブルに並んだ数々の料理とスイーツに舌鼓をうちながらも、心はどこか浮かない。手を止める怜衣に気が付いたのか釉乃は顔を覗く。
「レイちゃん、どうかした?」
「あ、いえ、なんでもないです……」
「……鈴那ちゃんの事が心配?」
顔をあげると釉乃が心配そうな表情で見ていた。
「はい……。結局あの後、奏さんはあのホストを刺してしまった。助けるつもりが、ひょっとして私達、悪い方に助長してしまったのかもしれないって」
三人が恐怖を植え付け心身喪失状態となった皇煌夜を、後から現れた松本奏は鞄に忍ばせていた包丁で刺した。鈴那は必死で奏を止めようとしていたが、凶行を止める事は叶わなかった。
「確かに、松本奏さんがあの店に現れたのは予想外だったわね」
「鈴那ちゃん、あの後ずっと奏さんを心配してた。今も側に憑いているんじゃないかな」
別れ際に見た鈴那の表情はとても動揺していた。逃げ出した客からの通報を受け、駆けつけた警察官に捕まる松本奏の後を追って、彼女は二人の前から消えたのだった。
「でも、奏さんが最悪の決断をするのは防げた。そういう意味では、鈴那ちゃんの行動は価値があったと思うよ」
「でも、このまま刺されたホストの人が死んじゃったら、奏さんは殺人者になってしまう。そうなれば鈴那ちゃんはきっと、もっと自分を責めるんじゃないかな……」
手に持った食事をテーブルに置くと、怜衣は力なく頭を垂らしていた。友達の行く末を見守る鈴那の事を思うと、気持ちが沈んでしまう。
「大丈夫だって! そのうちひょっこり顔を出しに来るわよ。メリーちゃんはきっと気持ちの強い子だと、私は思うわ」
羽仁塚が口を挟んだ。彼女の独特のネーミングセンスに、怜衣は誰の事を指しているのか解らなかった。
「メリー……ちゃん?」
「あ、なるほど。ハニーちゃん、なかなか面白いところに気が付いたわね!」
何かを察した釉乃が手を叩いていた。
「牛込鈴那、真ん中をとって【メリイさん】って事でしょう?」
「そう、おつやさん察しが良いわね。あの子が目指すなら【くねくね】なんかよりも、断然【メリーさん】の方が合っていると思わない?」
そう言って二人は大袈裟に笑い合う。
怜衣は一人顔を伏せる。出会った時に見せた鈴那の笑顔が頭を過った。今の彼女はあんな風に笑えるのだろうか?
……それえぇな。ウチ、これからそっち路線でいこう。
「え?」
鈴那の声が聞こえた気がした。怜衣はその姿を探して周囲に目を向けた。やはりそこには鈴那の姿はなく、二人がまだふざけ合って笑っているだけだった。
『ウチ……、今、あなたの後ろにおんねん……』
突然目隠しをされたように視界が暗くなると、耳元で囁く声が聞こえた。怜衣は驚いて振り返る。
「わっ、え?! 鈴那ちゃん!」
「へへ、レイち、ビックリした?」
悪戯な笑顔を浮かべる鈴那がそこに立っていた。
「あら? 鈴那ちゃん、帰って来てたのね」
「釉ねえ、レイち。さっきはほんまに、ありがとうございました」
鈴那は真剣な面持ちで向き直ると、深々と頭を下げていた。
「お礼なんて言ってもらう程の事はしてないわよ。それに鈴那ちゃんも頑張ったじゃない」
「そうだよ、頭を上げて鈴那ちゃん。結局、奏さんの事は救えなかったし……」
伏し目がちに怜衣が洩らすと、鈴那は顔をあげて首を振った。
「ううん、結果的に奏は地獄みたいな生活から抜け出せたよ。刺された皇煌夜も搬送先で一命を取り留めたらしいし」
「本当に?! 良かった、奏さんが殺人犯に成らずに済んで……」
怜衣は心のそこから安堵してしまう。
「ほんでも奏の罪は消えへん。きっと傷害罪で裁判を受けるやろうけど、あの子、凶器と一緒に遺書も用意してたん。遺書には奏があないな事をした経緯が書いてあったみたいで、上手くすれば情状酌量の執行猶予が貰えるかもしれへん」
「確かに、無茶な売掛金が無ければこんな事は起こらなかった。被害者にもホストクラブにも、少なからず責任は問われるかもね」
釉乃の言葉に鈴那は黙って頷く。怜衣は途中から話の意味が解らなかったが、松本奏にとってこれ以上悲惨な日々が無いことだけ理解していた。
「せや、でも、ウチは奏がこれからも生きて、ほんまの幸せを見つけるために、もがいて欲しい。やりきってまた会えるならええけど、半端に苦悩して合うのはごめんや。せやからウチはこれから、ちょくちょく奏の様子を見に行こうと思う。もしも奏が刑務所の中に入ったって、ウチはいつでも会いに行ける、なんたって幽霊やしな。だから……、ほんまに、奏を生かしてくれて、二人とも、ありがとう」
再び頭を下げる鈴那。顔をあげたその表情はとても穏やかだった。
「うん、きっとそれが良いよ。奏さんもきっと喜んでくれると思う」
怜衣はもう一度見ることの出来た鈴那の笑顔に安堵していた。
「そんでな……、迷惑掛けたついでって言うたらおかしいけど」
鈴那は苦笑いで口を開く。
「まぁ、そうなるだろうと思ってた。けど、一応言っておくよ? 私はレイちゃんと都市伝説になる。鈴那ちゃんにはあくまでもアドバイスを送るだけよ」
釉乃はわざとらしく片目を閉じてそれに答える。
「それでもええ、ウチも都市伝説になりたい。釉ねえみたいに、ここぞって時に誰かの力になりたいんや」
鈴那はまた深く頭を下げた。
「うん。まぁ、友達って事なら、力に慣れることもあるのかな?」
「釉ねえ……、ほんまに、ありがとうございます」
二人の視線は向き合うと、互いにその顔は笑みを浮かべていた。怜衣はそんな二人の姿につられて笑うのであった。
◆◆
「ところで、鈴那ちゃんはどうやってここに来たの?」
「へ? 言われた通りやってみただけやで?」
テーブルに並んだポテトフライを一つとり齧ると、怜衣は鈴那に尋ねていた。
「言われた通り?」
鈴那は眉を寄せて困ったように口を開く。
「せやからハニやんが言うたやん。入るなら飛べば良いって」
「飛ぶ……?」
困惑する怜衣を見て、鈴那はそう言うと両手を広げ、くるくると回り始めた。すると、彼女の体がゆっくりと浮き上がり、天井に向かって昇っていく。
「え?! 鈴那ちゃんが宙に浮いてる」
「すごいやろ? ウチもついさっき出来たばかりやねん」
目の前にいる鈴那は空中に浮かんでいた。フワフワと身体を委ねる彼女は、確かに空中を飛んでいる。
「おー! 鈴那ちゃんは飛べるようになったんだね」
「あら、すごいじゃない。随分な進歩ね」
釉乃と羽仁塚は動じない。宙に浮かぶ鈴那を見て簡素に手を叩いて見せた。
「す、すごいよ。鈴那ちゃん、空飛べるんだ」
「ウチもほんま、驚いてるよ」
鈴那は照れ隠しのつもりか何度も頭を掻いて言った。
「気づいてないみたいだけど、レイちゃんだって出来ることが増えてるのよ?」
釉乃はワイングラスを傾けると片目で見ていた。
「私!? え、何にもわからないけど、もしかして私も飛べる?」
怜衣は鈴那を見て目を輝かせた。空を飛べるなんて幽霊になって初めて嬉しい事かもしれない。
「うーん、たぶん飛ぶのは無理かもね。そうねぇ、解りやすくいえば、レイちゃんの手に持ってるものを見ればわかるかな?」
釉乃の言葉に怜衣は手元を見る。左手に持った皿にはチーズケーキが乗っていた。右手のフォークはその一部分を突き刺している。
「このお皿とフォークが……?」
「違う、違う。それ、私が手渡したんじゃなくて、レイちゃんが自分で手に取ったんでしょ?」
「あ……」
言われるまで気が付きもしなかった。無意識のうちに手に取った皿や食べ物を、怜衣はあたりまえに取っていた。
「すご! レイち、物をさわれるようになってたん!?」
「え? あ、わっ、わぁ! ほ、本当だ」
驚きから皿に乗ったケーキを落としそうになる。両手にしっかりと握られた皿と銀色のフォークはしっくりと重みを感じる。
「そうね……、レイちゃん。あそこにあるTVのリモコンを取ってくれる?」
「え、リモコン? ああ、えーっと……」
動き出そうとして立ち上がると、右手をリモコンに向けていた。
……ええと、リモコン、リモコン。
一歩踏み出そうとした時、固い感触が右手に伝わる。
「うわっ!? レイち、何なんそれ、念力やん!」
「え、なんであそこにあったリモコンが?!」
驚きの声をあげる怜衣と鈴那に、釉乃が口を開く。
「物に触れるようになれば、ちょっとした物くらいなら、動かしたり引き寄せたり出来るわよ。レイちゃん、これでまた一つ、恐がらせる手段が増えたね?」
釉乃は手を差しのべていた。
これ、いつの間にか私、本当に都市伝説になる事になってる……?
差し伸べられた手を取るのを躊躇する怜衣であったが、釉乃の嬉しそうな表情を見ると気持ちは動いていた。