第十七話 『紅い月の夜』 体験者:k.s(26) ホストクラブ店員
『いらっしゃいませぇ!』
真っ赤な革貼りの扉が開かれると、一斉に声があがった。
薄暗い店内には至るところでシャンデリアが輝く。広い室内にズラリと並んだ高級そうなソファーには多くの男女が座っていた。
『こちらへどうぞ。それではごゆっくりお楽しみ下さい』
黒服の男に案内されるまま、L字状の大きな席へ通された。目の前にはガラス張りのローテーブルと綺麗に並べられたグラスとロックアイス。
店内をゆっくりと見渡していると、先程の銀髪の男が横に跪いていた。
「お酒の濃さはどうなさいますか?」
「……そうね、濃いめが好きかしら」
男は手慣れた手付きでグラスに水割りを作ると、胸ポケットから名刺を取り出して笑顔で口を開いた。
「初めまして、皇煌夜です。ご一緒しても宜しいですか?」
名刺を受け取り頷く。煌夜と名乗ったホストは手早く自分の分の酒を作ると、片方のグラスを手渡した。
「頂きます。素敵な夜に……」
グラスが当たると澄んだ音が鳴る。煌夜は一息でグラスを空にした。
「あら。お酒、強いのね」
「こんな素敵な姫の側で頂いているので、お酒の味も今日は格段に美味しいのでしょう」
「ふふ、お上手」
明るいベージュの髪を結いあげた女性はマスクをずらしてグラスを口につけるとゆっくりとグラスの中身を空にしてゆく。妖艶な気品の漂わせるその仕草に煌夜は思わず見とれてしまう。
「失礼、姫のお名前をお聞かせ頂いてもよろしいでしょうか?」
女性はマスクを元に戻すと空になったグラスをテーブルに置いた。
「見た目よりずいぶん紳士なホストさんね。いいわ、特別に貴方にだけ教えてあげる」
女性はそう言って顔を近付けた、柔らかな甘い香りが煌夜の鼻腔を擽る。思いがけず固まってしまう煌夜の耳元で女性は吐息混じりに優しく囁いたのであった。
「私の事は、カシマって呼んで……?」
煌夜の背筋はぞくりと疼く。カシマと名乗る女性はマスク越しにうっとりとした笑みを浮かべている。しばし茫然としてしまう煌夜は、気が付くと慌てて表情を造り直す。カシマが飲み干したグラスを取るとすぐに同じ酒を作って差し出した。
「私の連れの子達には、お酒じゃなくてソフトドリンクを貰えるかしら?」
「え、連れ……?」
カシマは不意に隣を見て言った。彼女は確かに一人で来店したはずだ。首を傾げそうになる煌夜が視線をそちらに向けると、思わず声をあげそうになった。
「た、大変、失礼致しました。俺としたことが、そちらの姫達を放ってしまうなんて……」
カシマの隣には小柄な二人の女性が座っていた。顔を伏せるように俯いた二人の前に烏龍茶の入ったグラスをすぐさま並べる。
二人の存在に全く気が付かなかった煌夜は動揺を隠すように取り繕う。しきりに手元を動かし、耳に掛けたイヤホンで何度もコールを送っているが返事はない。他のホスト達は別の卓についている、ヘルプは来ないようだった。
「お二人の名前も教えてもらえますか?」
「……」
煌夜の問い掛けにショートヘアとツインテールの若い女性は俯いたままで何も答えない。沈黙に戸惑いそうになる煌夜に助けを出したのはカシマだった。
「この子達とっても恥ずかしがり屋さんなの。手前の髪の短い子がリーナ、奥の子がレイコ。二人ともこうゆう雰囲気初めてだから緊張してるみたい。ほら、二人とも今日は社会勉強なんだから、ちゃんと楽しみなさい?」
カシマの話を聞いた煌夜はピンときていた。この二人は何かしらの店の従業員だ、そしてこのカシマという女性は恐らくその経営者だろう。思わぬ上客に煌夜は心の中でガッツポーズを取る。この手の経営者は気に入ったモノには浪費を惜しまない。
……ここはしっかり盛り上げて、次回からは必ず指名客に。
煌夜がそんな事を考えていると、耳障りな甲高い音が近くで響いた。すぐにそれがグラスが割れる音であると察した煌夜は、音が聞こえた方へ視線を向けた。
「……ご、ごめんなさい」
「お怪我はありませんか?」
顔を伏せたまま震えるリーナは、床に落としたグラスに手を伸ばしていた。散らばる破片を集める彼女を、煌夜は跪き慌てて止めた。
「そのままで大丈夫ですよ、スタッフに片付けて貰いますから。ガラスの破片で怪我でもしたら……」
跪いて言葉を止める。砕けた硝子片は光沢のある黒塗りの床に散らばっている。煌夜の視線はその隙間に広がる液体に止まっていたのだった。
「た、大変だ、血がこんなに――」
煌夜は立ち上がるとリーナを見て固まってしまう。真っ青な顔をした彼女の両手はだらりと伸びきっている。細い指先から噴き出す艶めかしい赤黒い液体は夥しいほどの量だった。
突然、耳を塞ぎたくなる程の悲鳴があがる。どの卓も錯乱した女性客達の叫び声が鳴り響いていた。
『なんだ、一体どうしたんだ!?』
奥から現れたスタッフとおぼしき数人の黒服達は、混乱するフロアを見るや各卓へと足早に駆け寄った。立ち上がり絶叫する女性客達にホスト達は困惑した様子で立ち竦んでいた。
「何が……起こってるんだ……? いや、それより今は彼女の怪我の方を」
顔面蒼白のリーナは苦しそうに息を切らしていた。慌てる煌夜を他所に、隣に座る二人は素知らぬ顔でグラスを傾けている。
「大変です、お連れの姫が怪我をされて」
言いかけて煌夜は再び違和感に言葉を止める。痙攣するリーナの隣では、なぜかレイコが笑みを浮かべていた。
「ちょっと、今はそんな悠長にしてる場合じゃあ――」
煌夜は気付いてしまった、レイコと呼ばれる少女の変化に。いわゆる地雷系ファッションの彼女は先程から服の色が変わっている。白いブラウスがいつの間にか所々赤く染まっていた。
まるで薔薇のように開く真っ赤な染みが何なのか……。不気味なイメージが煌夜の頭を過っていた。
「そ、それ……、まさか……」
「私達ね、今日はここの常連さんの勧めで来たの」
突如、カシマが口を開いていた。飲み終えたグラスをテーブルに置いて、彼女はまたマスクを戻す。
「じょ、常連の紹介……? いや、今はそんな事どうでも――」
身を乗り出そうとする煌夜に向かって、黙って聞けとばかりにカシマはそっと指を立てる。
「あの子、何て言ったっけ?」
「……マツモトカナデ」
蒼白い顔のリーナが呟いた。
「そうそう、カナデちゃん。ねぇ、煌夜さんはその子の事、知ってる?」
「さ、さぁ……。ここには毎日、沢山の姫が来店されるので……」
松本奏、その名前は嫌と言う程に覚えている。煌夜が初めてナンバー入りを果たした太客だった。彼女とは色恋から始まり、最終的には多額の売掛金を背負わせて風俗に沈めた。
煌夜はわざと知らないふりをしていた。
あの女の知人とゆうことは、風俗を斡旋した俺に恨みがあるに違いない。コイツら、まさか初めから知っていて俺に近付いたのか……? だが、今の口振りからして俺が松本奏を沈めたホストだって確証は持たれていないんじゃないか……?
「そう、知らないの。可哀想ね」
「え、ええ。それより、カシマさんのお連れの二人を早く手当てしないと」
煌夜は動揺を隠しながらも煌夜はリーナとレイコを心配する素振りを見せた。実際あれだけの大量出血なら、下手したら死んでしまうだろう。
大量出血……? たかが、硝子の破片で……?
視線を感じた。
顔をあげるとレイコが見える。レイコはまだニタニタと嗤っている。
その顔が少しずつ動いた。
両のこめかみから裂けた傷口はまるでトマトが潰れるように、顔面を真っ二つに裂いてゆく。
溢れだした赤黒い肉と、泡立つ液体。
煌夜は強烈な吐き気を催し、その場に塞ぎ込んだ。
「可哀想ね、名前も忘れられちゃうなんて。あんなにあなたの事、大切に想ってくれてたのに」
カシマはしゃがみこんだ煌夜に顔を近付けた。
「私だったらそんな男……絶対に許さないわ」
「な、なん、なんなんだよ、あんた達……」
鼻を突く嫌な臭い。何かが腐ったような生々しい悪臭。
「酷い男……絶対に、私の名前は忘れないでね」
「は、はぁ……!?」
煌夜は顔を上げた。
目の前にはマスクで半分を覆ったカシマの淡麗な顔がある。不思議とさっきまで感じていた妖艶な香気は感じない。代わりに鼻を突くのは据えた生臭い悪臭。
「ネェ……ワタシ、キレイ?」
カシマの声が不思議な程、くぐもって聞こえる。
彼女はゆっくりと、マスクにその手を掛けていた。
「き、きれいです」
煌夜は何故こんなことを口走っているのか、自分でもよく解らない。カシマの問いかけに答えなければいけない。本能がそうさせていた。
「そう、なら……」
カシマは、まるで花が開くようにゆっくりとマスクを外し始めた。彼女の唇は血のように赤く、鋭い牙のような歯がぬらりと光っている。
時間はゆっくりと動いているような感覚。
視線が彼女の顔から外れない。
見てはいけない。
激しく動く心臓と危険を察知する本能が、頭の中で巡る。
「……コレデモ、キレイ?」
カシマはフッと目元で嗤い、マスクを全て剥ぎ取る。
煌夜の悲鳴はフロアに響き渡った。
◆◆
「あ、あ、あ……」
だらしなく開いた口から滴り落ちる。鼻水と唾液が混ざり合い、生臭い液体が床を濡らしていた。両目は充血し、視界はぼやけていた。
「たす……けて……」
煌夜は力なくソファーにもたれ掛かっていた。何が現実なのか、何が幻なのか、もはや分からなくなっていた。
フロアのあちこちから聞こえる悲痛な悲鳴。
耳を塞ぎたくなる程の慟哭。
最後に目にした途轍もない恐怖を忘れようと、必死で別の事を考えた。
頭を何度も過るあの醜悪な顔。耳まで裂けた生々しい傷痕。迫るカシマから逃れようとすると、すぐ隣にはⅩ印に顔を切り裂かれたレイコがいた。鼻を突く鉄のような生臭い臭い。恐怖に押し潰された煌夜の意識はそこで一度途絶えた。
「あ、あう……いや、だ……来るな……」
悪夢を振り払うように煌夜は頭を激しく振った。
テーブルの上のグラスを払いのけ、今までの出来事は幻だったと自分に言い聞かせる。
それでもあの二人の顔が頭から離れない。
『煌夜……?』
聞き覚えのある細い声が聞こえた。
「そこに……いるのか……」
その声は煌夜の恋人のモノだった。それまで色恋で客を集めていた煌夜にとって、初めて出来た掛け替えのない存在。煌夜はそれまでと違い、彼女をこの店に呼ぼうとはしなかった。
『私がずっと側にいてあげるよ、ずっとね』
彼女の優しい声はすぐ側で聞こえてくる。
どうして彼女が今ここに……? いや、今はそんな事よりもあの恐怖から逃れたい。鼻の粘膜にこびりついた腐敗臭を忘れたい。
煌夜は闇雲に手を伸ばした。すぐ側に柔らかな感触を捉えると、彼は必死で助けを叫ぶのだった。
『どうしたの……なんでも聞いてあげるよ?』
彼女の細い両腕が煌夜を包む。
「ありがとう……、ずっと、俺の側にいてくれ……、美桜」
背後を鋭い痛みが走る。
何度も、繰り返し、何度も。
煌夜の叫び声はフロアに響き、やがて静かに消えていった。